第180話 棺桶蓋わず
ロズウェルがジョルバンニの執務室がある西館二階まで行くと、ちょうどだれかが出てくるところだった。
それがだれか感じ取り、ロズウェルは慌てて階段横にある白い胸像の陰に隠れた。近くにいた衛兵の視線が突き刺さる。頼むような気持ちで小刻みに首を横に振れば、兵士は正面へと視線を戻してくれた。
間もなく床を踏む靴音が近づく。息を殺してかがんでいると、音は止まることなく階段を降りていった。
行っただろうかと像の肩から顔だけ出して階下を覗く。藍鼠色の髪が一階の通路へと消えていくのが見えた。
(やっぱりあいつか。今頃来るとは……)
議長が呼んでいると伝えてからずいぶん経ったはずで、わざわざタイミングをずらして来たというのに、ほとんど意味がなかった。
一度芽生えた苦手意識は、顔を合わせる面倒臭さを助長させる。毎回睨まれる理由を考えるのも億劫だ。
(まあいいさ、鉢合わせしなくて済んだ)
安堵の息を吐き出したロズウェルに、若い衛兵が探るような視線を投げた。
見られていた気恥ずかしさを真顔で隠し、「正体は魔物かと思うとどうも怖くてね」と言ってみれば、「ああ、それは分かります」と衛兵も真顔でうなずいた。
思いのほか真っ当な意見らしい。
石膏の像から離れ、服を払って襟を正す。今日は光沢ある錆色の短いジャケット、茶色の糸で蔦の刺繍を施した白いベスト、裾が短い紫紺色のズボン、それから錆色の長いブーツを履いていた。首元を飾るスカーフはさんざん悩んだ末、草色を選んでふわりと巻いている。たまにはこういう攻めのスタイルも悪くない。なにを着ようと似合うけれど新鮮さは大事だ。
(さあて、あの話が本当かどうか鎌をかけてみるか)
それが正しかったところで金色化け物に従うつもりは毛頭ないが、より注意深い言動をする必要がありそうだった。
執務室の前に立つと、先ほどと同じように指の背で優雅にノックを三回繰り返してから名を告げた。
入れという声がするも、むろんだれも扉を開けやしない。ここでは自分が犬かと苦笑いを浮かべつつ押し開くと、室内は薄紅に染まっていた。西側にあるカーテンの隙間から夕日が射し込んでいるせいだ。ランプが一つしか灯ってない部屋はその色に浸食されていた。
いつもの如くジョルバンニはこちらに背を向けて着席し、振り向こうともしない。その姿勢のまま彼はロズウェルに話しかけた。
「今日は遅かったな」
「ええ、まあ、色々と」
曖昧な返事をして、ロズウェルは壁際のサイドテーブルへと近づいた。心許ない炎を揺らすランプに手を伸ばす。つまみをねじると、抑制されていたなにかを吐き出すかのように、炎は強く輝き始めた。
「なにをしている?」
少々怒りを滲ませてジョルバンニがようやく振り返る。
「暗くなってきたので明るくしました」
しれっとした顔で答えてから肩をすくめると、議長の右眉が大きく跳ね上がった。
「余計なことをするな」
「伯父さんは暗いところが好きだったんでしたっけね」
「私は君の伯父ではないと何度も言っただろう」
「いいじゃないですか、二人だけの時ぐらい」
ヘラヘラ笑ってからランプのつまみを戻すと、夕日はさきほどより弱くなっていて、ジョルバンニの顔すらはっきり見えない。眼鏡の縁だけが白く浮かび、なるほどこういう効果も狙っているのかとロズウェルは納得した。
「それで?」
促されて、日課となった三者謁見討議会(最近そう呼ぶことに決まった)の報告をして、皇帝からの書類を渡す。今日は帝国学術院の創設にあたり、様々な問題を明日のギルド議会で話し合うように皇帝から指示されていた。たとえば学術院を建てる場所や、その期間や費用など。さらに学者もまだ足りないから探せという命令も受けていた。
「これ以上だれかを推薦するのは難しいな。腕のいい職人はまだ何人かいるが、読み書きもままならない連中だ。貴族の方が詳しいだろう」
「リマンスキー令嬢は、貴族たちはお抱えの学者や芸術家を差し出したくないだろうと言っていましたね。彼らの研究や絵に自分の名を付けて、互いに自慢し合うのが今までのやり方だったので、これからもそうしたいと願うだろうと」
「あの娘もなかなか辛辣だな」
「そのようですね」
「だが学者や絵師のギルドがないのだからしかたあるまい? 私設の学校あるいは家庭教師を探せばいるかもしれないが、ギルドとして認めてはない」
その辺は少々矛盾があって、ロズウェルもたぶんジョルバンニも、ギルドが認めていないモグリの教師たちから教わっている。ギルドが運営している無料の学校はあちこちにあれど、読み書きと簡単な計算しか教えていないので、大商人の跡継ぎともなればその程度では不十分だった。
「まあいい。もう少し調べさせよう。他には?」
「あとはやはり地下水路の件でしたね。調査が遅いとお怒りでした。古い地図はところどころ欠損ている上に、広くて複雑なので時間がかかると申し上げておきましたが」
「それでいい。しかしいずれ水屋と馬車屋の抵抗をお察しになるだろうな」
「ええ、まあ……」
例の件を言おうか言うまいか、ロズウェルは迷っていた。
ここに来るのが遅れたのは、獣人と鉢合わせしたくなかったこともあるが、バレクに呼び出されていたからだった。
薄闇の中で体を半分だけひねってこちらを見ている者を眺めているうちに、果たしてこの男がどれほどの才覚があるのか見てやろうという気になった。もしも失明寸前であるならば、自分はその闇に溶けるつもりはさらさらなかった。
「実はですねーー」
そんなふうに切り出して、ギルド本部での会話のほとんどをぶちまけた。むろん失明の件は胸から外には出さず。
しかしジョルバンニは指で眼鏡を押し上げた以外は、なんの反応も示さなかった。
「もしかしてご存知でしたか?」
「私にはいくつもの目がある。覚えておくように」
「あーはい」
ゾクゾクとしたものが背中を駆け上がる。
興味半分寒気半分の複雑な気持ちを伴う予感。
もし自分が蚊帳の外ならば楽しさしかなかっただろうに。
「しかし腐ったものが紛れ込むと、全体の傷みが激しくなるな。いったいどこから切り捨てればいいのか思案のしどころだ。少なくとも共通の敵は必要にはなる」
「共通の敵……」
その言葉は以前にも皇帝に言っていた。なんのことかは分からないが、ジョルバンニはなにかをきっと企んでいる。できれば自分を巻き込まないで欲しいと願いつつ、ロズウェルはそっと髪を掻き上げた。
「この半月、君の仕事ぶりを見て、口だけの男ではないことは分かった」
「半月もかかるなんて遅いですね」
「相変わらずだな。倉庫番も真面目にやっているか?」
「ええ、毎朝きちんと行っていますよ」
わざわざそれを確認したのは、共通の敵に関係したことなのか?
バレクをその敵にしようとしているのか?
瞬時に思い巡らせたものの、知りたいとは思わなかった。“蜂の巣に近づかなければ刺されない”という諺もあるではないかと、ロズウェルは無駄な思考を停止した。
「なるほど、優秀だ」
嫌味か?
そう思ったがどうやらそうでもなく、ロズウェルから目を離したジョルバンニは、おもむろに眼鏡を外し、袖口でレンズを何度も撫で始めた。
何かの心理戦なのか?
そうだとしてももちろん乗るはずもなく、ロズウェルはゆったりとした態度で相手の出方を待ち続けた。
やがてかけ直された眼鏡は、ますます鋭い光を放つ。
(似ているのは蛇かな? 狐かな?)
ぼんやりと見返すロズウェルに、ジョルバンニは珍しく破顔した。
「余裕があるものは嫌いではない」
「あーどうも」
「では新たな仕事を与えよう。ここから出ていった者とは会ったか?」
「獣爵ですか? ええと、姿は見ましたが入れ違いでした」
「あの者にサロイド塔の調査を頼んでおいた。ククリの捕虜の選別だ。明日から君も同行したまえ」
「えっ、ボクもですか!?」
「五日以内に終わらせるように」
蜂の巣が近くになくても、飛んでくれば刺されることがあるということをロズウェルは改めて気がついた。
嫌な仕事を任されたものだ。
あの獣人と! あのサロイド塔で! あのククリたちを!
いちいち叫びたくなるような理由が三つもある。
棺桶を用意されたような気分でロズウェルは自宅へと戻った。
ところが自室に戻るとさらに叫びたくなることが待っており、実際叫んでいた。
「ドルテ! なんでお前がここにいる!?」
青い花柄をあしらった薄紅色のドレス姿の大男に胸焼けがした。しかし睨みつけた相手はしれっとした顔で、のんびりと椅子に腰掛けたままだ。
「お帰りなさい、ロズウェルさん、お待ちしていましたわ」
「勘弁しろ、ドルテ。いったいなんの恨みでこんな嫌がらせをしてる!」
「嫌がらせなんて人聞きが悪い。ご注文の上着をお持ちしただけよ」
「だったらそれを置いてとっとと帰ったらいいだろう。というか、誰だよ、部屋に入れたのは」
「イザーヤ姉さん」
「ちっ!」
家族の前ですら被っている猫も、この男の前ではどこかに逃げていく。
首元のスカーフを乱暴に解き、それを無造作に椅子の背に投げる。前髪すらこれっぽっちも気にならなかった。
「ホント、私の前では気取らないわよねぇ」
「気取る必要性なんか一つもない。言っておくけどそんな格好したって、ボクはお前にこれっぽっちも興味を持たないからな!」
「なに言ってるの、こいつ」
一瞬ポカンとした顔をしたのち、腹を抱えて笑い出したドルテを、ロズウェルは眼光で焼き殺すぐらいのつもりで睨み付けた。
ドレスはドレスでもイブニングドレスではない。首から手首まできっちりレース布が覆っていて、たくましい男の二の腕は隠されている。ただし腰回りはどうにもならず、わずかに絞ってあり、代わりにドレス部分は大きく膨らんでいた。
化粧はいつものように派手ではなかったが、ピンク色のチークが気持ち悪い。そしてなによりきちんと結い上げた赤毛に憎悪すら覚えた。
「ボクに好かれようとしてそんな格好をしてるんじゃないのか?」
「なんでロズウェルなんかに好かれなきゃいけないのさ。これは私が着飾りたいからやっているだけで、ロズウェルには一切関係ないから。そう言わなかった?」
「言ってたけど、“着飾りたい”っていうのが理解できない。男装だって十分着飾れるだろ、ボクみたいに」
「ええ、そうね、あんたは自分自身に十分満足しているから」
「お前はしてないのか?」
「逆に満足している人なんて、あんたぐらいね。私は小さい頃からドレスの試着をさせられて、でも嫌じゃなかった。むしろこういうのが似合う人間になりたいと思ってた。なのに十五を超える頃からどんどん筋肉が付いてきて、とうとう試着もさせてもらえなくなったのよ!」
「そりゃ毎日のように布の積み卸ししてればね……」
「しかたがないじゃないの!! 父さんが死んでできるのは私ぐらいなんだから!!」
多少は可哀相だと思う、多少だが。
それにマルベール氏が作った靴がロズウェルは好きだった。
「でも女言葉を使う必要はないだろ」
「この格好でそれ以外にどんな言葉を使えと?」
「……それもそうか。いやでもお前、勇ましく憲兵をやってるじゃないか」
「あれは母さんが“このままでは嫁がもらえない”って嘆くから渋々よ。ドレス代だって結構かかるんだから」
「家の商売なのに?」
「職人さんから自分で買ってるの」
「だがあの勇ましい格好のせいで皇帝陛下に醜態さらしたんだぞ、どうしてくれる」
「いい気味」
そう言ってにやけた赤毛がもし自分の倍近くある体格ではなかったら、きっと殴りつけただろう。その無念は晴らすため、ロズウェルは口の中で「死ね」と呪いをかけた。
「あ、陛下を見たわよ。いいわねぇ……」
「うらやましがったって、ボクの代わりの仕事はできないから無理だぞ」
「あんたじゃなくて陛下よ。私もあんな可憐な容姿だったら……」
うっとりとした目で両手を組んだ姿は、幼い頃から知っている相手だけに、やはり違和感と嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「前も言ったけど、中身はそんなに可憐じゃないからな!」
「中身より見た目。あんな華奢で色白でひ弱そうなら殿方も放っておかないわよねぇ」
「お前、女が好きと言ってたけど本当は……」
「あのね、何度も言うけど私がこの格好をしているのは……あ、でもちょっと素敵だと思う男性がいるわね。あんたも知ってる人」
「だれだ?」
「獣爵さま」
「げっ」
よりにもよってあんなのを!
しかも体格的に自分と大して変わらないじゃないか!
むしろ自分の方が大柄じゃないか!
という気持ちを表すために、ロズウェルは大げさに仰け反った。
「ホント、いちいちムカつくわね。言っておくけど、抱かれたいとかそういう気持ちだからじゃないわ。自分じゃない自分になりたい私にとって、魔物に変身できるなんて、究極の存在よ。一瞬で狼魔になれるんでしょ? さっき塔で見かけたけど、どこからどう見ても人間なのに」
「塔って?」
尋ねた途端、小馬鹿にするようにルージュを塗った唇が横に広がった。
「ソフィニアで塔と言ったらサロイド塔しかないじゃない。馬鹿?」
「お前の方がムカつく。っていうかなんで塔に居たんだ」
「最近、塔の門を守っているからに決まってるわ、ホントバーカ」
「煽らなきゃ気が済まないのか!」
こんな奴は早く追い出してやる。もう二度と侵入などさせるものか。姉にも耳の傍で入れるなと百回ぐらい唱えてやる。
そう決意して口を開きかけたロズウェルだったが、刹那、妙案が頭に浮かんだ。
用意された棺桶をこのムカつく男に押しつける妙案だ。
「そんなにあの獣人がお気に召したなら、もっと親しくなれる方法を教えてやってもいいけど聞きたいか?」
「なにそれ」
「明日から五日間あいつと同行できる仕事だ。しかもサロイド塔だから門兵の仕事を休まなくてもいい。金が欲しいんだろ?」
せいぜい酷い目に遭えと、ロズウェルは心の中で毒づいたのだった。