第178話 監獄の悪夢
この世界で唯一守るべき調べは、愛する者の穏やかな寝息だろう。けれど、彼が眠ってしまったことを俺はやや残念に感じていた。
もう一度その額にキスをして、柔らかな髪を指先でそっと触れる。
金色の光彩が散り、その美しさに俺は目を細めた。
今宵だけは安らかな眠りであるようにと、ただ祈りつつ。
身分という武器は、果たして使えるものなのだろうか?
ヒトの世とは想像以上に足かせが多く、あの世界とはまるで違っているように思える。反面だれもが欲望を抱き、常に戦っていると考えればだいたい同じとも思った。少なくとも身分という武器を振るって、必死に戦っている者は、こうして疲れ果てている。勝つか負けるかしかない灼熱の世界の方がまだ楽なのかもしれない。
サイドテーブルに手を伸ばし、ランプの炎を絞ると徐々に闇が満ちていく。そのせいで、自分が魔物であるのかヒトであるのか曖昧になってきた。
確認しようと思ったわけではないが、ふと前脚、いや右手を薄明かりに晒して五指を眺める。
(不思議な形だな……)
内にある魔物が呟いた。
同化していても、時々どちらかの魂が意識の表面に顔を出す。いつか分離してしまうのではないかという不安は常にあった。
二つの魂を繋ぎ止めているは、守護するモノとしての思念ただ一つ。
(どちらであってもやることは同じだ)
魔物なのかヒトなのか分からない自分が囁いた。
翌日からまた、俺にとって退屈な日々が続いた。ユーリィの忙しさは日を追う毎に増していく。午前中は学者と呼ばれる連中がやってくるようになった。
ユーリィ曰く、
「半分はギルドの技術者で半分は貴族のお抱えだよ。生活費や研究資金を出してもらう代わりに、名誉も功績も貴族に奪われる連中。学術書に名前を載せられてもらえるのはまだいい方で、領主が書いたとされる本がいっぱいあるよ」
そのせいかどうか分からないが、ソフィニアでは二百年前からずっと、新しい技術や知識は大抵外国の真似をするか盗むかしていたとのこと。
「今まで滅ぼされなかったのが不思議なぐらいだよ。たぶん山脈と広い土地のお陰かな。でもこれからはそうはいかない。フェンロンの造船技術はかなり高いらしいし、ククリの手を離れてしまった水晶鉱山をいつ狙いに来るか分からないからね」
そのために今後は技術革をしようというのが皇帝ユリアーナの狙いらしい。帝国学術院を創設し、国内の研究者や学者を呼んで学官として雇い、身分に関係なく優秀な若者を学生として集めるそうだ。
「魔法学園ってあっただろ? 今度は魔法だけじゃなくて色々な分野での知識人を集めようと思ってる。ギルドの職人にも代々伝わる技術を習得してる者もいるし、ただ商売だから他に伝わらないだけで。たとえば鍛冶屋の鍛造技術とか、布屋の染色技術とか」
鍛冶屋と聞いて、俺はすぐにある人物の顔を思い出した。
あのいけ好かない野郎だ。叙爵式以来、ずっと大人しく仕事をしているようだが、逆にユーリィがあの男に興味を持ち始めている。もっとも気になっているのはクライスのではなく、マルベールなる女装男の方だ。憲兵を目にするたびにチラチラ見ているのは、赤毛を探しているに違いない。その証に寝る前の貴重な時間に、赤毛の話を持ち出したことが二度ほどあった。
「クライスはドレスを着てるって言ってたけど本当だと思う? だってヴォルフぐらいの体格してたんだぞ? もし女になりたいならなんで憲兵をしてるんだろうね」
とまあ、こんな感じだ。
ちなみに憲兵と陸軍の小競り合いは一応終止符が打たれ、街の警備は憲兵が昼を、陸軍が夜を、宮殿は内部を憲兵が、周辺を陸軍が担当することで決まった。
ラシアールは相変わらず反発しているが、噂通りに街から出て行くこともなかった。ユーリィはそんな彼らに何らかの処罰を与えることなく放置している。しかもハーンに刺された娘を、宮殿の敷地内にある小さな離宮に移して、医者と数人の看護メイドを付けて養生させていた。その甲斐あって命だけはどうやら助かったが、まだ意識が朦朧として一人で食事もままならないらしい。
きっとユーリィは、ブルーが折れてくるのを待っているのだ。それなのにいつまでも腹を立てているエルフに、俺の方が腹を立てていた。
(あいつだってユーリィの性格は知っているだろうに。皇帝になっても何一つ変わっていないのぐらいそろそろ気づけよ、馬鹿エルフ)
昼食のあと、午後は皇帝と情報書記官の三人との質疑応答がある。それが済むと、彼は書類に目を通したり文献を読んだりして過ごしていた。
「あのポンプのこと調べているんだけど、なかなか詳しい文献が出て来ないんだよね。どっかで見たような気がするんだけど。ヴォルフはどう思う?」
嫌な話題だと顔を背けたくなるのを我慢して、育った塔ではないかと返事をした。
例のポンプには因縁がある。ハーンのことを思い出すたびに胸がムカムカした。だがユーリィは純粋にポンプのことを知りたかったようだ。
「そうかも。でもあそこは壊しちゃったからもう残ってないし」
少々心が狭かったと反省し、それからはユーリィの話し相手に徹することにした。もちろん気が利いた返事などできやしない。結局は独り言を聞いているだけの存在にしか過ぎなかった。
そんなこんなで退屈な日々が半月ほど過ぎた頃、俺はジョルバンニに呼び出された。叙爵式で渡さなかった物があるという。伝言したクライスに尋ねてもなんのことか分からないとしか答えず、ユーリィもなんだろうと首をひねった。
「行ってみれば分かるだろ」
強気に言ってみたものの、実のところ嫌な予感しかなかった。
ジョルバンニは最近、自分の執務室からほとんど出ないらしい。屋敷と宮殿を行ったり来たりしているだけで、クライスの話では議会も副議長に任せっきりなのだそうだ。ただし具合が悪いというわけではなく、処理しなければならない仕事が沢山あるためだとも付け加えた。
「副議長はアルカレスだっけ?」
ユーリィの質問にクライスはそうだと答えた。
アルカレスという人物はなんとなく覚えている。大きな口ひげを生やし、貴族のような格好をした成金趣味丸出しの男だ。癖がありそうだと俺が言うと、クライスはそんなことはないとあっさり否定した。
後々考えれば、その場には陸軍と貴族院の情報書記官二人がいたのだから、ギルドのいざこざをクライスが見せるはずもなかった。
夕方近くなってから、俺は渋々とギルド議長の執務室を訪れた。
ジョルバンニは壁際の重厚なデスクの前に腰を下ろし、半身ひねった体勢で俺を向かえ入れた。例によって室内は薄暗い。装飾品の類いもほとんどなく、カーテンも柄のない濃紺一色だ。以前来た時は絨毯が敷かれていたと思ったが、今はそれすら取り払われて、焦げ茶の床板が剥き出しになっていた。
「用件とは?」
得体の知れない男を前に、俺は単刀直入にそう尋ねた。
「クライスに聞きませんでしたか? 渡し忘れていた物があると」
「それは聞いた」
「ではこれを受け取っていただきたい」
そう言って、ジョルバンニは引き出しから小さな箱を取り出した。しかし俺に差し出すこともなく、机の上へ乗せる。視線でそれを手にするように俺に支持をする態度が、なんとも腹立たしかった。
「中身はなにか先に教えてもらおう」
「金貨ですよ。五十枚ばかり入っています」
「金貨!? どういうことだ?」
金で操ろうとしているのかと警戒し、一歩身を引く。そんな俺をジョルバンニは軽く鼻で笑った。
「勲位に伴う報償ですよ。年に一度支払われます。もちろん拒絶もできますが、皇帝陛下は今後学術的な勲位もお作りになるとおっしゃっていたので、先例を作らない方が宜しいかと思いますよ」
「嫌な言い方だな」
とはいえ、もらえる物はもらっておきたいのは当然の真理。罠を警戒しつつ箱へと手を伸ばすと、ジョルバンニはクククと喉を鳴らして笑った。
「心配しなくても爆発などしませんよ」
「俺の精神が爆発するかもしれないからな」
手のひらより少し小さいその箱は金の縁取りに花鳥が描かれた、いかにもギルドが用意しそうな代物だ。ユーリィはソフィニアの技術力は二百年停滞していると言っていたが、貴族たちが喜びそうなこういう物だけは昔からソフィニア産が有名だった。
ずしりとした重みを感じつつ慎重に蓋を開ける。中には言われたとおりの金貨が詰まっていた。
「ギルドはこんなに気前が良かったっけか?」
半年は遊んで暮らしてもお釣りかくる金額だ。ハンターをしていた頃は、これだけの金貨を得るには少なくても三つ四つ仕事をこなさなければならなかっただろう。
金に執着する方ではないが、やはり“皇帝の犬”という地位からは脱却したかった。
「これで用件は済みました。今後は皇帝陛下の守護獣として、陛下をお守りください」
「今までもそうしてきただろう」
「そうですね」
夕刻の太陽はカーテンの隙間から、赤い光を室内へと忍び込ませている。その光に顔の半分を染めた男は、得たいのしれない不気味な気配を醸し出していた。
もうこれ以上この場に留まる理由はないと、俺は踵を返し、足早に退室しようとした。
ところが、扉のノブに手を掛けた瞬間、ジョルバンニに呼び止められた。
「ああ、一つ忘れていたことがありましたのでお待ち下さい」
やはり来たかと俺は唾を飲み込む。
あの男がなにか企んでいないはずはない。
「なんだ?」
俺は振り向かないまま返事をした。拒絶の意思表示をしたつもりであったが、あとになって考えれば返事をした時点で奴の思う壺だった。
「貴方に少し仕事をしていただきたいのです」
「ハーンの代わりに俺を使おうっていう算段か?」
「さて、なんのことか」
「とぼけるな。あんたがあの男に餌を与えて、ろくでもない仕事をさせていたことは皇帝もご存知だ」
「陛下は私をずいぶんと買いかぶっていらっしゃるようですな。私に人望ないのは陛下もご存知のはずですが。もしあの男がなにかしでかしていたのでしたら、それは私ではなく陛下への思慕以外にはありませんよ」
「貴様……」
怒鳴りつけようと振り返れば、片手を上げたジョルバンニに制止されてしまった。
「まあ、お聞きなさい。仕事と言ってもこれは陛下のご意思によるものですよ。貴方がご存知かどうかは知りませんが、陛下はククリの捕虜について早々にどうにかしたいとお考えです」
「だから、俺に奴らをなんとかしろと?」
ユーリィに始末しろと命令されたのなら、躊躇なくやるだろう。しかしジョルバンニからの命令となれば別だった。
「ククリの件は陛下も悩まれ、一度は全員処刑というご命令がありましたが、どうやら少々心変わりをなされたようですね。ミューンビラー侯爵同様、恩赦も視野いれて捕虜たちの調査を望まれているようです。しかし拘束はしているものの、やはりエルフとなると情けないことに憲兵も軍兵も怖じ気づく始末です。なので代わりに貴方に調査をご依頼したい」
「調査ってなにをしろと?」
「彼らの中で反逆心がある者とそうでない者を選別して欲しいのです」
「それを俺ができると?」
「できなければ別にそれで構いませんよ。全員、皇帝に楯突く意志がありとして、今のまま拘束し続ければ済む話ですので。ただ陛下はククリにわずかなご希望をお持ちだ。ラシアールだけに頼るのではなく、すべてのエルフとの友好関係をお築きになりたいとお考えではないでしょうか。きっとご自身をエルフの仲間であると思っていらっしゃるせいでしょうね」
ペラペラを良く喋る男を呆れて眺めつつも、ユーリィがいかにも考えそうなことだと思っていた。しかも俺自身が彼に“らしくないことはするな”と言ったのだ。彼の性格を考えれば、処刑を望んでいるとは到底思えなかった。
「確か捕虜は三百人以上いたな?」
「女子供はあとでも構いません。まずはサロイド塔にいる男たちを」
「だったら今から中の様子を見させてもらおう。だが、やるとは言ってない。サロイド塔の現状報告を行い、あんたの言葉を伝え、改めて皇帝陛下のご指示をいただく」
「もちろんそうなさるが良い」
ひょっとして罠に嵌まったかもしれないという疑問を抱いたが、まだ捕まったわけではないという自信もあった。ユーリィが反対するのならやる必要はない。
そう思っていた。
ジョルバンニの執務室をあとにして、その足でサロイド塔へ向かった。
サロイド塔は王宮時代に建てられた監獄である。塔と呼ばれているが円柱状の形からその名が付いただけで、地下を含めて六階層ほどの高さしかない。罪人でも身分がある者は宮殿の地下牢に収監されるので、この塔には収監中に死んでも構わないという者たちが押し込められた。そのせいで中は劣悪な環境だ。一度だけ入ったことがあるが、糞尿は垂れ流しで凄まじい匂いがして、蠅もそこいら中に飛び交い、一日居ただけで病気になりそうな場所だった。
塔の周りを高い鉄柵がぐるりと囲み、さらに内側にも鉄柵がある。どちらの入口にも槍を持った門兵が二人立っていて、内側の柵からさらに行った場所にある正面玄関にも兵士が二人立っていた。
それらの門兵たちに、俺はジョルバンニから受け取った許可書を見せ、中に案内されると今度はフルフェイスの兜を被った兵士が二人出てきた。
兜は着けているものの鎧は身につけず、あまりに奇抜な格好に驚いていると、兜は防臭のためだと説明された。
(まだあの状態なのか……)
重罪人でもない限りは一つの牢に五、六人が押し込められている。当然足かせが付けられて、場合によっては手かせまで付いていた。
糞尿の匂いが漂っているのは、自由を奪われた者たちが唯一できる抵抗である。つまり鉄格子の向こうへ投げ捨てるのだ。
(やっぱり断った方がいいな。ユーリィにもこの現状を教えるべきかどうか……)
案内されて中央にある階段を上っていくと、両側にある扉の向こうからは奇声が大量に聞こえてくる。こんな場所に閉じ込めて精神が病んだ者たちがいるせいだろう。
四階は静かなのは、今はだれもいないのだと案内人の兵士が言った。
「五階にはククリがいます」
「ずいぶん静かだな」
四階の踊り場から上を眺める。兵士の持つランタンの明かりで、薄ら浮かんでいるのはあちこち剥がれている漆喰の壁だった。
「老朽化が酷いんですよ」
俺の視線に、兵士がそんな説明をした。
「ククリは何人だっけ?」
「ええと、今は六十八人ですね。三人逃げられ、二十四人は死亡しました」
「逃げられた原因は?」
「買収された看守が混じっていました。金を払ったのはひと月前に街を壊したエルフの仲間らしいですが、詳しいことは現在捜査中でお話しできません」
「ひと月前の事件は、ラシアールが犯人だったはずだが?」
「それも含めて捜査中です」
たぶん捜査などしていないだろう。
ラシアールとの関係はかなり複雑になっていて、今のところ皇帝がなにも動かないので、ディンケルもジョルバンニも黙認していた。だから陸軍も憲兵も下っ端が手出しはできないはずだ。
「ですが今は看守も門兵も倍に増やし、ククリたちもどう足掻いても逃げられないようにしてあります」
「と言うと?」
「後ろ手に手かせを付けて、足かせの重りも倍に増やしています」
「そんなことをすれば食事もできないだろう?」
「犬食いすれば問題ないですよ」
その言葉になぜ二十人以上も死亡したのか納得した。
これはますますユーリィには報告できないと思いつつ、五階に到着する。
憲兵は左手にある鉄の扉に近寄って、二箇所ある鍵を解錠した。
ギーギーと蝶番の嫌な音がして扉が開かれる。意外にも悪臭は流れては来なかった。
「奴らは一日の大半は寝て過ごしているので、大人しいもんですよ。中に入りますか?」
「いや、覗くだけでいい」
扉の近くに立ち、真っ暗な空間に目を凝らす。夜目が利く左目が、一番近い牢獄の鉄格子に寄りかかる人影をすぐに捉えた。
こちらに気づいたその人物が顔を上げる。黒いローブらしき衣服のフードがはらりと落ちた。
その瞬間、俺は思わず息を呑んでいた。
青い髪、赤い瞳。
忘れようにも忘れられないエルフが、そこに座っている。
あの最悪な過去を作った悪魔がそこに……。
(まさか! そんなはずはない!)
エルフの見た目は一見同じように見える。それだけのことだ。
明かりが灯されれば、青に見える髪も実は黒で、赤に見える瞳もきっと違う色だろう。
そう自分に言い聞かせて視線を反らそうとした時、その人物が小声で呟いた。
「ボクたちを……殺すの……?」
あまりに似た声に、俺はふたたび息を呑んでいた。
☆ ★ ☆
皇帝ユリアーナ
つばめじろ様作画