第175話 陶酔とともに 前編
壁掛けの鏡の前に立ち、前髪を整える。
本日四回目。
しかしまだ満足がいかない。
右目にかかるひと束が、思った通りの場所に落ち着いてくれないので、少々苛ついた。
(髪師をそろそろ呼ぶか……)
満足のいかない前髪を諦めて、上着へと視線を移す。
こちらは十分納得がいき、ロズウェルはほくそ笑んだ。
(薄い縦のストライプを入れさせたのは正解だったなぁ。ボクを引き立たせてくれる。あの仕立屋は腕が良さそう)
深紫色の襟についた小さな埃を指先でつまんで床へ落としてから、今度は銀色のスカーフを整える。細く折りたたんで首元で結ぶこのスタイルは少し前から流行しているが、ロズウェルは特に結び目の形にこだわっていた。ふわりとして、きっちりと。ひだのような皺を三本ほど作るのがコツである。
(ひだを作らないやつ多すぎ。ロープじゃないんだぞ、ロープじゃ)
それからズボンに皺がないかを調べ ――こちらは絶対にあってはならない―― 黒いブーツが汚れていないかを目視する。
(ボクみたいに完璧な人間はなにを着ても似合うと言われるけど、服装が完璧じゃなかったら結局は完璧じゃないんだよね)
つまらない言い訳とともに四度目の確認作業を終わらせた。
タイミング良くノックがして、返事をすると若いメイドが入ってきた。顔が赤らんでいるのは、美しい主人にはにかんでいるのだ。そう思えば少々顔立ちが悪くても許してやれた。
「お呼びでしょうか、ロズウェル様」
「すぐ出かけるから、御者に支度をするように伝えて。それとそこの椅子にある服は全部捨てていい」
「あ、あの……全部というのは靴も……?」
「そうだ。今日の午前中着たのが五度目だから、もういらない」
五度でも多いくらいだとロズウェルは心の中で付け足した。本当なら一度で廃棄したいけれど、姉がうるさいので我慢していた。
「かしこまりました、ロズウェル様」
メイドは手早く服をまとめて部屋から出ていったが、物の数分にはふたたびその扉が開かれた。
足音で入ってきたのがだれか分かったロズウェルはそちらを見ることなく、もう一度鏡を覗き込む。楕円の縁に青色の袖がチラチラ見えた。
「ロズウェル、これはどういうこと?」
姉イザーヤである。いつもの如くその声はなじるような口調だ。
「どういうことって、なにがです?」
返事をしたものの、鏡の中の自分についつい魅入って振り返らなかった。
「服を捨てろとあなたに頼まれたってミサが言ってたわよ」
「ミサ?」
「あなた付きのメイド」
「あの可哀相な顔の娘かぁ。もちろん頼んだよ。だってそれもう五回も着てるんだ」
「はぁ……またそういう……」
なじり声が呆れた声に代わる。ロズウェルにしてみれば、どうして姉がそんな声を出すのか理解できなかった。
「姉さんはボクが同じ服を着続けるような、恥ずかしい男だって思われてもいいの?」
「そんなことを言ったら私はどうなるの。この服はもう三年も着てるわよ」
ようやく振り返ったロズウェルは、本人の言葉通りに何年も見ている薄青色のワンピースをまじまじと見つめた。
「どうして何年も着てるんだい?」
「これ、肌触りが良くて丈夫だからよ」
「そんな理由で着てるなんて、ボクの方が呆れちゃうね」
「余計なお世話!」
姉のズボラは今に始まったことではない。そんなことだから二十六にもなって男もいないんだと小馬鹿にした気持ちを隠し、怒りを滲ませ始めた姉に、ロズウェルはにっこりと微笑んだ。
「言ったかどうか分からないけど、姉さんは青じゃなくてピンクの方が似合うと思うよ。肌が白くて綺麗だからね。薄茶の髪と瞳も映える。せっかくの美人が勿体ないなぁ」
「またそんなことを……」
褒めた途端に頬を染める姉が面白いと、ロズウェルは冷ややかに眺める。たとえ実の姉だろうと、このボクに褒められれば嬉しいのだとも思った。
「とにかくミサが……」
「ボクの服を自室に持って帰ろうとしたんでしょ? 分かってるさ、それぐらい。でもボクの服だからしかたがないね」
「お父様もお母様もあなたに甘すぎ。今月、服代にいくらかかったか知ってるの?」
「嫌だなぁ、ボクはそれに見合うだけの働きをしてるじゃないか。あ、そろそろ出かけるね。ギルドの仕事を一つこなしてから、宮殿に行く。そうだ、姉さんの大好きな筋肉男が一人いるからいつか紹介してあげる」
「あのね、私は鍛冶屋の仕事を見るのが好きなだけで、筋肉が……」
「あーはいはい」
分かったという手振りをして、ロズウェルは部屋を出ようと扉に向かう。姉の横を通り過ぎた時、彼女は「あら?」という声を上げた。
「仕立屋、変えたの?」
「まあね。結構いいだろ?」
「マイベールさんのところは……」
「飽きた」
「長年のお付き合いをそんな一言で済ますなんて、あなたらしい。そうだ、さっきドルテが来てたわよ。留守だと言ったら、また来るって」
「よし、逃げよう」
前髪のことなどすっかり忘れ、ロズウェルは急いで屋敷を出て、家の前に止めてある馬車に乗り込んだ。軽い衝撃とともに馬車が走り出す。その瞬間、その窓を叩く者が現れた。
「ロズウェルさん、お待ちになって。ちょっと話があるの」
上品な言葉遣いとは真逆の、凄まじい形相をした赤毛だ。
その結い上げた髪も、真っ赤な唇も気持ち悪いとロズウェルは顔を背けた。
「おい!! ちょっと!! こら待て!!」
野太い声で叫ぶ者を振り払って馬車は走る。こういう場面はもう三度目なので御者も慣れたものだ。
ようやく相手が諦めて窓が静かになると、ロズウェルは後ろの窓から怖々外と眺める。
果たしてそこには、赤いドレスを着た体格が立派な者が、道に突っ立っていた。
ドルテ・マイベール。
元ロズウェル専用の仕立屋の息子である。
そう、息子である。
天敵ドルテから逃れて数分後、馬車は西門近くにいた。ギルドが管理している倉庫街である。流通を担うギルドにとって心臓部とも言えた。
その中の一角を、今朝のギルド執行部会議でロズゥエルが任されることが決まった。もっとも議長が提案した時点でほぼ決定事項であり、残り十四人は賛成の挙手をしただけだが。欠席者は五人。だがジョルバンニとロズウェルを除いて、だれも気には留めなかった。
(まったく幼稚な戦法だ……)
倉庫の入口には真鍮製のプレートが貼り付けられていて、その中の五番から十三番がロズウェルの担当だ。
ジョルバンニから受け取った鍵の束を取り出し、一つ一つ解錠し、そしてまた施錠を繰り返す。今日は鍵が使えるかを確かめに来ただけだった。
(ま、そんな小細工はしないと思うけど、幼稚な人らしいから一応ね)
十三番目の倉庫を開け閉めしたその時、背後に気配を感じて、ロズウェルは矢庭に振り向いた。
少し離れた場所に立っている男を見て、ホッと胸を撫で下ろす。先ほどのこともあり、ドルテのような気がして少々焦ってしまった。
「なんだ、貴方でしたか」
「ずいぶん仕事熱心だね、ロズウェルくん」
顔立ちも声色も議長のそれに良く似ているが、威厳だけはほとんどない。黒髪をただ撫でつけただけの髪型も、ロズウェルは気に入らなかった。
「こんにちは、バレクさん。あれ? 貴方は体調不良で今日はご欠席だと聞いたはずだけど……。ボクの聞き間違いだったかな?」
「午後に体調が戻ったので、倉庫を確認に来たのです。明後日出荷予定の綿花をね」
「へぇ、そうなんですか。でも今は物資の移送は中止してるはずですよね?」
皇帝が戻って四日を過ぎたが、未だラシアールとの和睦がなされていない。そのせいで、流通に支障を来し始めていた。ククリによるテロ行為に供えて、物資の輸送に関しては彼らの力はなくてはならない。むろん陸軍も警護をするが、魔法には魔法で対抗する方が安心だった。しかも魔物による輸送もできないので、到着には何日もかかる。クライス家としても、セシャールに直送するはずの防具数点を抱えたままだ。
「綿花輸送は航路だから、ファセド港まで輸送できれば問題はない」
「では陸軍に要請を?」
「今のところ許可は下りないが、いざとなれば警護など必要はないな」
「ずいぶん強気ですね。でもククリがそれを許してくれるかどうか……」
「エルフどもに綿花など必要ないだろう。必要なのは冬に備えて準備を始めなければならない北の国々だ。綿花は我が帝国の重要な産業であり、それが滞るのは一番の問題だ」
「そんなこと、ボクに訴えられても」
ニヤニヤと笑ってみせると、バレクは苛立ちを隠そうともせず眉間に皺を寄せた。
「議長にどうやって取り入ったかは知らないが、せいぜいその顔に泥が付かないように頑張りたまえ。もっとも彼が議長の椅子に座っていられる時間はあまり残ってないが」
「それはどういう……」
だが尋ねきる前に、バレクは足早に倉庫街の向こうへと立ち去ってしまった。
(ま、いいか、そのうち分かる。それより宮殿へ急ごう)
四日前に皇帝付きの側近に任命されて以来、毎日午後は宮殿に通っていた。
やることはギルド側から皇帝や他の組織への要求を伝え、皇帝や他の組織からの要請を議長やギルド議会に持ち帰ることである。個別に接触して余計な疑心暗鬼を生まないようにするというのが、皇帝の方針だ。
(今のところ、ほとんどやることはないから楽だな)
解放されたミューンビラー侯爵とその一派は、まだなんの動きも見せない。噂によればオーライン伯爵とリマンスキー子爵令嬢が、彼らを抑えているらしい。
(あの娘がボクに惚れないようにしないと。才気があるし顔立ちも良いからボクに釣り合うだろうけど、貴族だから可哀相だ)
ギルドと貴族が血縁関係をもつことは大昔から禁止されていて、今もなぜか守られていた。きっと貴族たちの気位が拒否しているのだろう。彼らは商人と同じぐらい金が大好きなくせに、エルフと同等の差別意識を商人に持っていた。
(障がいがある恋愛はワクワクだけど、それだったら皇帝の方が……)
宗教的に、性別的に、身分的に障がいだらけだと思えばこそ、物語の主人公になったような想像が生まれた。
(けど最終的に女性を選ぶけどね。そうなったら泣くだろうなぁ)
今日の午後はすがりつく皇帝の姿を妄想しようと決めて、ロズウェルは馬車へと戻っていった。