第174話 苦悶
「名前は、ええと、なんだっけ?」
今し方ジョルバンニから聞いたはずだというのに、ユーリィが尋ねた。
「ロズウェル・クライスと申します、皇帝陛下」
青みがかった黒い髪の男はそう言うと、作法にどおり腹部に手を当てて慇懃に挨拶をした。耽美と言ってもいいほど整った顔がどうにも腹が立つ。
ロウソクの炎が映すその薄い緑色の瞳が、意味深に光るのを俺は見逃さなかった。
クライスと会う数時間前、大地が赤に染まる頃、俺たちはソフィニアに帰ってきた。上空から眺めた夕暮れの街は平素となんら変わりなく、ユーリィが心配していた暴動も杞憂に過ぎなかった。
宮殿の庭に降りるとすぐにディンケルと数十名の兵士たちがやってきて、皇帝を出向かえるに相応しい慇懃な態度でユーリィの帰還を喜んだ。
俺が魔物から人へと変化してもだれも驚かない。そんな彼らを見て、実はなにもかも上手くいっていて問題などないんだと、俺は暢気に考えた。
だが____
皇帝がいない丸一日でなにがあったのか、俺自身は詳しくは分からない。あとでユーリィから聞いた話と噂話を総合して、だいたいの流れとして把握した程度である。その中で問題とすべきことがいくつか起こった。たとえばラシアールがすべての活動を停止したことや、拘留している者を解放しろと一部の貴族たちに迫られた衛兵が、解放手続きを行おうとしたことなど。それに気づいた陸軍が寸前で阻止をして、さらにギルド管轄の憲兵や衛兵に代わって自分たちが宮殿内や帝都の警備をすると主張したらしい。そのことで陸軍将軍のディンケルと憲兵長官キッフォンが喧々囂々とやり合ったことは、ずいぶん長い間語り草になった。
最終的には持ち駒が多い陸軍が押し切った形で、宮殿も街も軍部が支配することになってしまったらしい。
そんなことがあったなど露知らず、俺たちはディンケルとともに庭の小径を通って宮殿へ。しかし正面玄関に到着直後、ユーリィが異変に気がついた。
「なんで衛兵じゃなくて陸軍兵が?」
エントランス階段には常に四人の衛兵が立つようになったのは、いつの頃だったか。左右にあるそれぞれ四本の白い柱の前に、互い違いに一人ずつ。一定の時間が経つと、キビキビとした動作で右にいた者は左へ、左にいた者は右へと移動する。きっと暇つぶしに始めたことだったろうが、それが半年あまりで儀式のようになっていた。
しかし今宵階段にいたのは、その制服は紛れもなく陸軍ものだ。白いベルトでも、全体につばがある帽子でもない彼らは、もちろん例の儀式的動作も行っていない。直立不動にただ突っ立っているだけだった。
「色々ありまして……」
そばにいたディンケル将軍があやふやに語尾を濁した。
入ったエントランスにはやはり陸兵だけが立っていて、皇帝と将軍の登場に直立不動で敬意を表した。
すぐ後に軍部首脳部との会議があり、その理由をユーリィの知ることとなる。それなのになぜディンケルがバツの悪そうな態度をしたのか、俺にはよく分からなかった。
宮殿に戻った皇帝を気遣う者はだれもいない。一睡もしてないことを言うような皇帝でもないので、すぐにディンケルたちとの会議が待っていた。留守中になにが起こったのかの報告会も兼ねていたようだ。
ようだというのは、ディンケルから同席を拒否され、俺は執務室で待ちぼうけを食ったせいだ。剣としての力を求められても、頭脳としての知恵は求められていない。
「俺は番犬かよ! クソが!」
暴言を吐いて部屋の中をうろつき回る。あとで冷静に考えれば、確かに犬のような姿だったかもしれないが、いい加減プライドを傷つけられる扱いに苛つきは抑えきれない。
皇帝と常に一緒に居られる方法はないだろうかと考えていると、ようやく会議が終わった。長時間というほどでもないが、太陽が完全に姿を消ていた。
入ってきたユーリィの表情はずいぶん儚い。ぼんやりとした様子で扉の前で立ち止まり、右手にある机を見たものの、結局は身を投げるように中央にあるソファへと座り込んだ。
疲れている。
心身ともに彼は限界なんだ。
「まだ寝られないのか?」
「どうだろうね……、色々あったみたいだし……」
そうして彼は反抗的なラシアールの件や、ディンケルと憲兵長官の小競り合いなど、簡単に説明してくれた。
「まさかその件でまた会議があるって言うんじゃないだろうな?」
「どうかな……」
その曖昧な返事に、放置されていた苛つきがぶり返した。
(だったら剣らしく、全力で阻止してやる。皇帝のこんな姿を見てだれもなにも感じないのなら、帝国など守るに値しない存在だからな!)
ユーリィの隣に座り、その華奢な体を乱暴に引き寄せる。そのまま唇を奪うと想像していたのとは違ってやけに冷たい。顔を離し改めて彼を見下ろせば、目の下に隈を作った少年がそこにいた。
頬をほんのり赤く染め、恨めしそうに俺を睨む顔がムカつくほど痛々しい。そういえば彼は睡眠だけでなく、まともな食事も丸一日摂ってないこともすっかり忘れていた。それでも我慢してしまうのが、ユーリィがユーリィである所以だ。
「くそっ、これじゃ飼い犬以下だ。最悪だ!」
「……なんか怒ってる?」
「いつでもどこでも発情する犬と言いたいんだろ!?」
「やっぱ怒ってる。大丈夫、そんなこと思ってないし。それに今日はもう休むようにディンケルには言われた」
「へぇ、あの男も一応気を遣えるんだな!」
「気を遣ったっていうか……」
「なんだよ?」
しかしその答えを口にすることなく、ユーリィはぼんやりとした目で、茶色のキャビネットを眺める。扉に彫られた馬が、まるで魔物のように俺を睨んでいた。
たぶん俺も疲れているのだろう。
「ヴォルフをここに置き去りにしたことは悪かったと思ってるよ。ディンケルはお前のことをあまり好きじゃないのが分かるから、これ以上ディンケルにまで反逆心をもたれたくなかったんだ。でも少し後悔している。どうやら将軍は、僕が陸軍だけを優遇するつもりだと勘違いしているから」
「どういう意味だ?」
「つまり僕が、軍事政権をしようとしてるって信じているってこと」
「そのつもりはないのか?」
「うーん、どうだろう、まだ僕自身がフワフワしてるからね」
確かにユーリィは皇帝という立場を考えすぎて、思い悩んでいた。それが心配で無理やり連れ出したことがかえって彼を苦しめることになるとしたら、俺はなんて馬鹿な事をしたのだろうか。
「そんな顔するなよ。今朝ヴォルフが言ってくれたお陰で、なにをすべきかなんとなく分かってきたんだから。まだ少しフワフワなだけ。でも自分が凄く意固地になっていたって気づいたんだ」
薄らと微笑んだ顔は、ここ最近見た中では一番清々しい。それが嬉しくて手を伸ばしたが、寸前で払い除けられてしまった。
「なんで!?」
「今はダメ。でもまぁ、あいつの体調が悪いなら……」
「あいつ?」
「ジョルバンニ。今日は一度も宮殿に来てないらしい」
「あの男のことだから、暴動が怖くて屋敷に籠もってたんじゃないのか?」
「かもね。でも他の理由のような気がするけど」
「他の理由なんてあるか?」
ユーリィは返事をしないまま思考の海へと沈み込んでしまった。こんな時、的確なアドバイスができない自分が口惜しい。人間だった頃もさほど優秀な頭脳であったわけではないが、魔物と同化してさらに悪化したような気さえした。
(頭脳明晰な魔物なんかいないんだからしかたがないな。あ、いや、あいつだけは別だったか。自分のことをレブとか名乗ってたあの……)
異世界にいた頃の自分に思いを馳せて、俺もしばし黙っていると、いつの間にか青い瞳に睨め上げられていた。
「なに考えてんの?」
「あっ? ええと、昔のことだ」
「昔っていつの?」
「あっちの世界にいた頃だな」
「じゃあレブというのも?」
「なんで知ってる!?」
「自分がブツブツ言ってたの気づいてないの?」
ブルブルと首を横に振る。いったいいつから喋っていたのか、想像するだけで居心地が悪くなり、尻を少し動かして身もだえした。
「で、レブっていうのは向こうの友達? なんかスゴい嫌な名前だけど」
「ともッ!? はぁ!?」
あまり素っ頓狂な声が出てしまった。そもそもあっちには友達や仲間という発想は欠片もない。いるのは獲物か、捕食者か、邪魔者だけだ。レブはその中のどれにも含まれてはいないがウザい存在だった。
「そんな属性はなかった」
「魔物なのになんで名前があるの?」
「自称だ。本人曰く、こっちの世界からやってきたと言っていたが」
「へぇ、なんか面白そうな話だね。でもその姿のせいか、お前がフェンリルの記憶を話すのってなんか違和感ある」
「そうか? なんなら魔物である証拠を今夜ベッドで――」
「あッ! そういえばヴォルフのこともあったんだ、忘れてた!」
遮られたショックを隠しきれず、どうやったら話を戻せるか考える。もちろん体に負担をかけることはするつもりはないが、イチャイチャとかベタベタとか、そういった類いのコミュニケーションを久しぶりにしたいという願望があってなにが悪い。
「なにを忘れたか知らないが、ベッド――」
「えっとね、ヴォルフの……あッ、誰か来た」
しかし扉を叩く音にすべてを邪魔された。
「毎度毎度のお約束かよ!」
しかもその後しばらくユーリィとは二人だけの時間を持てなくなり、しかも俺にとって悪夢が始まる合図だった。
俺はぶつくさ言って扉まで行き、向こう側にいる相手に返事した。
「お食事の用意ができたのですが、陛下はお召し上がりになられますか?」
返ってきたのはジョルバンニの犬コレットの辿々しい声だ。嫌悪感を抱きつつも振り返り、ユーリィが頷くのを見てそのことを伝える。すると今度ははっきりとした声色で女は本当の用件を伝えてきた。
「それとお食事の前に議長がお目にかかりたいと。よろしいですか?」
「タメだ、陛下はお疲れに――」
「許可しろ、ヴォルフ。というか僕が呼んだんだ」
憤然とした気持ちで返事をすると、程なくジョルバンニが現れた。ユーリィが心配してたような具合の悪さは感じられず、相変わらずの斜視で俺を睨んだ。一緒にいたのは闇色の髪をした端正な顔立ちの若い男。ジョルバンニは男の名前がロズウェル・クライスということだけを告げて、ソファに近づくことなく中途半端な位置で口を開いた。
「今後お出かけになられる時は、まず先にお知らせいただきたいですな」
「お前にしては文句も大人しいね。ま、もう滅多に行かないと思うよ。それに土産も持って帰ってきた」
「ほう、どのような品を?」
「フォーエンベルガーへの最後通告。だからギルドの監視を強めていいよ。少しでも変な動きがあれば武力行使する」
「となると、ますます陸軍とは親密にせざるを得ませんなぁ」
「反対?」
「言えるような立場ではありませんので」
「お前が言うか!」
そのわりに怒った様子もなく、ユーリィは穏やかな目でジョルバンニを見る。半年前には嫌われていた男は、とうとう皇帝の寵愛を手に入れてしまった。こうなってしまえば、ユーリィはたとえ恨まれようが憎まれようが、自分が傷ついても嫌うことはない。本人が気づいていないその性質は、俺が一番嫌な部分だった。
「それでご用件とは?」
「明日の朝、ミューンビラー侯爵ら数人を解放する。幾人かはまだ取り調べが済んでいないので順次ということになるけど、いずれ全員自由の身になるだろう」
「なぜまた、そのような心変わりを?」
「陰謀の決定的証拠はまだ出ていないとディンケルから聞いて、そろそろ限界だろうと思っただけだよ。ギルドの方でもなにも掴んでいないんだろ?」
「残念ながら。もっとも我々のやり方が手ぬるいと、調査の方はすべて陸軍が持っていってしましたが」
そう言って眼鏡を指先で何度も上げる様子は、まるで煽っているように見える。その隣にいる男は、ひたすら若き皇帝を注視していた。どちらも俺を苛立たせるには十分だったが、幸いにしてユーリィ自身はなんの反応も示さなかった。
「ならしかたがないね」
「中途半端に手を緩めるのは危険ですぞ?」
「ディンケルにも同じことを言われた。でも侯爵が失脚したことに変わりはない」
「せめて共通の敵でも現れれば、また違うのでしょうが」
「共通の敵? それはどういう……」
「深い意味はありませんよ。お気になさらず。それよりも申し上げたいことが」
ユーリィが首をわずかに傾けたのを見て、許可と受け取ったらしいジョルバンニが先を続けた。
「今回のこともそうですが、皇帝陛下は少々ご自由すぎるきらいがあります」
「自由でなにが悪い」
「二百以上のギルド、三百人以上の貴族諸侯、三万もいる兵士、ラシアールなどその他諸々の頂点に立つ身の上故、一貴族とはご身分が違うことも承知していただきたい」
「ディンケルはなにも言わなかったけど、やっぱお前には言われたか……」
片耳に指を突っ込んで聞きたくないという子どもっぽいユーリィの態度に、眼鏡男はなんの反応も示さなかったが、代わりに隣の男が薄ら笑いを浮かべた。
「陛下がいらっしゃらないこのわずかな間に、つまらないいざこざが起きましたな」
「なにが言いたい? 憲兵長官がディンケルにやり込められて苦言? それともお前が屋敷を出られなくなったことの苦情? 言っておくけど、ギルド議会にしても、貴族院にしても、陸軍魔軍にしても、勝手にあれこれ動くのが悪いんだぞ」
「組織とはそういうものでございましょう?」
ぴしゃりと言い放ったジョルバンニの言葉に、ユーリィは口を半開きのまましばらく固まって動かなくなった。
このまま思考の海に沈んでしまうのか。そう思えるほどの時間が流れ、やがて唇が閉じられた時にはその青い瞳はジョルバンニではなく、その隣に立つ男を見つめていた。
「名前は、ええと、なんだっけ?」
今し方ジョルバンニから聞いたはずだというのに、ユーリィが尋ねた。
「ロズウェル・クライスと申します、皇帝陛下」
青みがかった黒い髪の男はそう言うと、作法にどおり腹部に手を当てて慇懃に挨拶をした。耽美と言ってもいいほど整った顔がどうにも腹が立つ。
ロウソクの炎が映すその薄い緑色の瞳が、意味深に光るのを俺は見逃さなかった。
しかし俺の心配をよそに、ユーリィの興味はクライスからジョルバンニへと一瞬で移ってしまった。
「なんで連れてきたの?」
「なかなか優秀な若者ですので、今後ギルドの中心にいるだろうと考えてご紹介に」
「お前の代わりに?」
「その可能性は十分にあると自負していますよ、皇帝陛下」
鼻持ちならないほど得意げに言ったクライスに一瞥もくれず、ユーリィはジョルバンニを見続ける。ざまぁみろと密かに俺がほくそ笑んだのは言うまでもなかった。
「僕と各組織の距離が違うのが悪いのかもしれない。どうやらラシアールや貴族よりも、ギルドや陸軍との距離が近いと思われている節もある。けど僕は今のところ、どことも同じ距離で行くつもりだ。もちろん上下もない。だから明日より僕のそばに、各組織から一人ずつ。僕が自由すぎるという印象もそれなら軽減できる。お前が推薦するならギルドからは彼でもいいよ?」
「御意」
「光栄至極に存じます、皇帝陛下」
たった今ざまぁみろとほくそ笑んだ俺の心が急速に萎んでいく。その代わりに嫌な胸騒ぎが大きくなっていった。
(マジかよ。ハーンよりヤバそうな奴じゃないか……)
クライスにそういう嗜好があるかは実際のところ分からない。しかしユーリィを見る薄緑の瞳は、俺の神経を逆なでさせるに十分な光があった。
「それとヴォルフ・グラハンスにも役職を与える。このままでは中途半端だからね。ギルドの方で準備しておけよ」
そんなユーリィの言葉も、俺の耳にはぼんやりと入ってくるばかりであった。
翌日、軟禁されていたミューンビラー侯爵以下十五人が解放された。
さらに皇帝の勅命により、貴族院からはエルネスタ・リマンスキーが、陸軍からはディンケルの腹心であるエトムントが、皇帝の側近として選ばれた。ちなみに彼はディンケル同様筋肉隆々の戦士だ。
なおラシアールからは午後になってもなんの連絡はなかった。
そして俺にとっては、新たなる苦悶の日々の幕開けである。