第172話 闇色毒素
皇帝が消えてからたった半日で、ソフィニアは完全に浮き足立っていた。
貴族は収監された者たちを解放しろと軍部に迫り、軍部は貴族全員の帝都追放を検討し、ラシアールは魔軍解散を示唆してきた。帝都退去を企んでいるという不穏な動きもある。
さらにギルドの各組織は、どうやら貴族と手を組む道を選び始めたようだ。
この混沌とした状況で唯一確かなことがあるとするならば、多くの者が皇帝はもう戻ってこない思っているということだった。
机の上には白いカップが一つ。琥珀色の液体からはすでに湯気が消えている。少し前にメイドが持ってきて、ジョルバンニが口を付けないまま、たった半時で熱が下がってしまった。
たった半年で冷めていく皇帝への畏敬と同じ速度で。
しかし驚くには値しない。ある程度予想していたことだ。もし予想外のことがあるするならば、ジョルバンニが皇帝の帰還を信じていることだろう。
甚だ馬鹿馬鹿しい話である。
今協議を繰り返している連中のほとんどは、半月前には皇帝から不信の念を抱かれてはなかったはずだ。にもかかわらず、皇帝への期待を未だ抱いているのは常に忌み嫌われるここに居る者。
(私一人が玉座を守ろうとしているとお気づきにならないとは非常に残念だ。だが良い変化をなされている。このまま美しくお勝ちになるか、はたまた華麗に散るか)
想像すると自然と笑みがこぼれ、ジョルバンニはクックックッと喉を鳴らした。
ひとしきり笑うと、気を落ち着かせるために首を巡らせ、半分だけ引かれているカーテンの向こう側に視線を移す。
陽光は薄暗い室内を汚し、視界をさらに奪い去る。ジョルバンニにとって薄暗い場所は幼い頃からの住処だった。
だが太陽なくして時間は計れない。斜光が昼過ぎを知らせていた。
過度な反応を無視するため、さらにギルドは無関係であることを示すため、今日はあえて宮殿には行っていない。陸軍の将軍にはもし不穏な動きがあれば知らせるように頼んであるが、果たしてこのまま混乱せずに持ち堪えられるのか。
(早ければ今日、遅くても明日の夜には戻ってくるだろう)
窓から目を離して、肘を突いて両手のひらを組む。どんなに目をこらしても、室内の半分も見えず、自分の末路だけがはっきり見えている。
そんな嫌な未来を払い除け、ジョルバンニは治政のことへと意識を戻した。
(軍事政権は悪い選択肢ではない。ディンケル将軍がまだ皇帝に傾倒している今なら)
独裁政治はジョルバンニの理想とするところだ。自分にそれが不可能だと分かっている以上、この手で支配者を作る道を選んだのだから。
しかしジョルバンニ自身は、歴史に名を馳せるつもりは毛頭ない。身の程は知っているつもりであるし、自分の目がどうなっていくかも知っていた。
(問題は身の程を知らずが身内にいるということだな……)
親族起用は毒でもある。マヌケではないが利口でもないその毒をどう処分するか。お家騒動だと言われる前に冷静にそして迅速に。
その思念が伝わったかのように、遠慮がちなノックが正面の扉から聞こえてきた。
すぐさま入室許可を出すと、金髪のメイドが入ってきて、扉の前で軽く腰を落とし挨拶をした。トレイを持つ手がぎこちない。部屋を横切る足取りは綱を渡るかのように不安定だった。
ジョルバンニが見守る中、彼女は机の横でもう一度挨拶をすると、無言のまま湯気が消えたカップを新しいものへと入れ替えた。
手が震えているせいで、琥珀の液体がソーサーへとこぼれ落ちている。そんな気配を肌で感じるのが心地よく、ジョルバンニは女の一挙手一投足を凝視し続けた。
このひと月あまりで性的処理をする少女を含め、下女はすべて金髪碧眼にした。これは密かな快楽だ。従うべき者を陵辱する快楽。悪趣味だという自覚はある。
ようやく入れ替え作業が完了し、逃げ去ると思ったメイドは困ったような顔をして、いつまでもその場に佇んでいた。
「どうかしたか?」
「あの、お客様が……。お若い紳士です」
「客の名前は?」
「す、すみません、存じ上げません」
「用件は?」
「存じません……」
「子どもの使いより酷いな」
脇に立つメイドをジョルバンニがやぶにらみに見上げた途端、トレイに乗ったカップが激しく鳴った。
「その者の名前がロズウェル・クライスならば、すぐに通しなさい」
「かしこまりました」
メイドが出ていき、しばらくしてふたたび扉が開かれた。
入ってきたのは、白髪交じりの執事に伴われた青年だった。
モスグレイのスーツを着こなす雰囲気は申し分ない。履いているのは黒革のブーツだろう。闇色の髪は一つに束ねているようだ。口元には薄い笑みを浮かべているらしい。
残念ながらジョルバンニが見えるのはその程度で、詳しい容姿は記憶を頼るより手段がない。瞳は薄い緑、驚くほど端正な顔立ちした男だったはずだ。
だがそれ以上のことは思い出す必要もなかった。
「掛けたまえ、ロズウェルくん」
うなずいた男は、一人掛けのソファになにも言わずに腰を下ろした。
その間にジョルバンニは、一礼を立ち去ろうとする執事を呼び止める。
「自分の仕事をメイドにさせるのは止めるんだ」
「ええと、なんのことでしょう……?」
「客人が来ることは、今朝言ってあったはずだが?」
「はい、お伺いしました。ですのでお連れいたしましたが、なにか不都合でも?」
困惑した執事の表情に嘘がないようだ。
(やはりな)
今頃あのメイドは、どこかのだれかに客人の名前を告げていることだろう。その相手がだれかは想像の範疇だった。
ジョルバンニはすぐに勘違いだと認め、未だ困惑している執事を追い出した。視線と意識は扉から室内へ。この毒は果たしてどの程度のものか。
「久しぶりだな、ロズウェルくん」
「そうでしたっけ?」
ジョルバンニには目もくれず、自分の爪をひたすら眺めている男を見て、確かにこんな奴だったと今さら思い出す。三年程度では、人間は変わりようがないのだ。
「君のことはお父上も心配なされていたぞ」
「心配されることはなにもないですね。見た目も頭脳もすこぶる良好です」
バレク家は父方の親族である一方、クライス家は母方の遠縁である。刀剣類の売買を生業にしている、ソフィニアでは一、二を争う武器商人だ。お抱えの鍛冶屋は百人を超え、軍部とも取引があった。
ソフィニア内の生産者は、必ずギルドを仲買としなければならない。特に武器は厳しく規制され、個人取引は禁止されている。鉄など原材料その他は、ギルドが買い付けた輸入品や貴族領産を必ず購入し、生産物はクライス家のような商人へと卸さなければならない。その際、商人たちは販売許可を証明する刻印と通し番号を、剣身に入れることが義務づけられていた。むろん輸入品も同じである。
ロズウェルはそのクライス家の跡継ぎであった。年齢は二十三。頭脳明晰で、最近は父親に代わって商売を取り仕切っていると聞く。それだけでなく、稀に見る端麗な顔立ちで、ギルド内ではかなり評判になっている。人当たりも悪くはない。ゆくゆくはギルドの頂点に立ってもおかしくはない人物ではあるが、その性格に難があることを何度か会っただけでジョルバンニは気づいていた。
「それで、今日はなんの用事ですか、セグレスおじさん」
「君におじさんと呼ばれる筋合いはないし、私の名前はセグラスだ」
「あ、そうでしたっけ?」
ロズウェルはあっけらかんと言って、肩をすくめる。この図々しさは昔からだ。
「でもおじさんとは呼ばせていただきますよ。又従兄弟という中途半端な関係を説明して歩くより手っ取り早い。ゆくゆくはボクもギルドで働きたいですからね、議長と親族であることを見せびらかしたいんですよ」
「そのことで今日は呼び出した」
「と言うと?」
首だけ向けていたロズウェルは、ようやく体ごとジョルバンニの方を向いて興味を示す。ギルドの頂点に有り年長者に対する敬意は一切ない。こういうところも性格的難点の一つであった。
「君が有能であるということは、かねてより聞いている。何事もなければ、ギルド内で重要な地位に就けるだろう」
「ボクの場合、見た目が災いするかもしれませんけどね」
そう言ってロズウェルは長い前髪を指先で掻き上げる。この自惚れの強さも難点だ。
「そのチャンスを早く手に入れたいとは思わないか?」
「すると、ようやくボクを重用する気になったのですね」
「自信満々なのがいいが、足元を掬われないよう注意は怠らないように」
「大丈夫ですよ、全部分かってますから。さっきおじさんが言っていた“メイド”についても、もう分かってます。玄関でボクのことをじろじろ眺めてましたからね。まっ、眺めたくなるのも分かりますが」
口元に軽々しい笑みを浮かべ、ロズウェルは少々声色を落とすと、
「それで、あの女はどっち方面から来たんですか?」
「君はどう思うのだ?」
「どちらでも有り得るでしょうが、メイドを仕込むとなるとそれなりの準備が必要。ボクの勘ではギルド内部、それも一番近い場所に居る」
回転の速さはさすがに感心せざるを得ない。
ただしそれが武器となるかは別の話だ。
「もしかしてボクとあの男を対立させたいんですか?」
「君が望むなら」
「争いごとは嫌いですが、あの男はどうやら貴族側に立とうとしているようですし、ボク的には軍に味方したい気持ちはありますね」
「武器商人としてはそうだろう」
束の間黙り込んだロズウェルは、なにか考えていたようだったが、やがて例の笑みを浮かべて口を開いた。
「多少強引なことをしても目を瞑ってもらえるなら、あの男の尻尾を掴んで引きずり下ろしましょう。でもボク自身が貴方の犬にはなりませんから。ボクはボクのやり方で。要するに面倒臭い連中を一掃すればいいんでしょう?」
「できるのなら、それでも構わない」
「もちろんできますよ。あっ、あの男のように議長の名を笠に着るような真似はしませんので、ご心配なく」
「大口を叩いているのではないことを願っておこう」
「そんなに急ぐ必要はないですよね? おじさんが宮殿ではなくここにいるってことは、皇帝陛下は戻られるのでしょうから。というより戻っていただかないと」
言葉の意図が掴めず、ジョルバンニは相手を睨み付ける。
睨み付けられた方は意に介することなく、自分の右手を嬉しそうに眺めていた。
「陛下にお目にかかりたかったんですよね。なにしろボクより容姿も頭脳も上だろうって思える人は初めてだし、なによりとても可愛らしい。結構好みなんですよね」
「そのようなことを、絶対に他言するな」
「しませんよ。睦言はご本人の前でしたいですから」
せいぜいあの見た目に騙されて、のたうち回れと思わずにはいられない。
この性格だからこそ、今まで触らずにいた。
もしや腹下しの治療に、猛毒を服用してしまったのだろうか。
そんな懸念を抱きつつ、ジョルバンニはぼんやりと見える前髪をしきりに気にする男の横顔を眺めていた。
☆☆☆