第171話 宝を抱き、別れを告げよ
リカルドのところへ行くというので変化をしようとした俺はすぐさまユーリィに止めてしまった。
「ジュゼに挨拶したいんだ」
「それもそうだな。当分は会えないだろうから」
「うん……」
一瞬不安そうな表情になったのを疑問に思いつつも、森の中を引き返す。そろそろ昼になりそうな時間で、太陽は木々のてっぺんまで登っていた。
小屋の前まで来て、ユーリィはもう一度困った顔になって立ち止まった。
「どうした?」
「うん……」
ためらった理由を分かっているはずなのに、俺も意地の悪いことを聞いたものだ。
しかし言葉は見つからず、代わりに肩にソッと手を置いた。
唇を噛んでなにか考えていたユーリィだったが、ようやく決意して木を削っただけの扉を押し開く。中からはなにかが焼けた匂いが漂ってきた。
小屋の中は昨日とは様子が変わっていた。片隅で横になっていた婆さんは、起き上がって壁に寄りかかっている。けれど具合は相変わらずのようで、うつらうつらと船を漕いでいた。
中央にあった粗末なテーブルは消えていて、代わりに丸太の椅子が並べて置かれ、その上に少女の遺体が寝かされ、さらに白い布がかぶせられていた。その傍らにガンチの妻が膝をついて、娘の髪を撫でていた。
ジュゼは奥の方にある竈の前でなにやらしていたが、俺たちが入ってくると暗い表情のまま声をかけてきた。
「村はどうだった?」
「うん……」
ユーリィの曖昧な返事をジュゼはそれ以上追及することなく、“そう”と言って終わらせる。そのせいでユーリィはますます強ばって、入口から動けなくなってしまった。そんな彼を励ますつもりで、俺は壊れそうなほどに薄い肩にもう一度手を置いた。
大きな瞳が俺を見上げる。表情には出なかったが微笑みは感じられた。だから大丈夫だと信じて待っていると、ようやく彼は数歩前に出てジュゼに向かって話しかけた。
「ねぇ、ジュゼ」
「……ん?」
ジュゼはユーリィを見ることなく耳だけをわずかに傾けた。
「あのさ、もうこの島から離れて僕らと一緒にソフィニアに来ない? もちろんハイヤーさんやお婆さんやガンチさんも一緒に五人全員。それにジュゼが来てくれたら、僕もブルーと和解できると思うんだ」
するとガンチの妻が驚いた様子でユーリィを初めて見る。寝ているとばかり思っていた老婆すら、しょぼくれた両目を瞬かせていた。
だがジュゼだけはなんの反応もしない。竈の炎を一心に見つめているばかりだった。
しばらく待っていたユーリィだったが、とうとう業を煮やして返事を求めた。
「ジュゼ、返事してよ」
「先に裏にいるガンチさんに聞いてきて。ハイヤーと一緒に墓穴を掘っているよ」
「分かった」
踵を返し小屋から出ていこうとするユーリィに付いていこうとした俺を、ジュゼの声が呼び止めた。
「なんだ?」
「ちょっと話がある」
そう言いつつ、彼女は竈の前から俺のところまで歩いてくると、はしばみ色の瞳で俺を見上げる。背丈がユーリィとほぼ一緒である彼女を、俺は訝しく見返した。
白目がないせいで、瞳だけでエルフの内面を読み取ることは難しい。けれどその気配からは厳しさは感じられた。
「ユーリィがここへ戻ってきた時、アタシが言うことに口を出さないで欲しい」
「どういうことだ?」
「あの子が望まないことを言うからさ」
「それでも黙っていろと?」
「そうだよ」
答えてから彼女はフッと微笑んだ。
「アタシはあの子のことは弟か息子のように思っている。それは分かるだろ?」
「ああ……」
「なら黙っててよ」
もちろん口を出すつもりは毛頭なかった。即答しなかったジュゼの答えは彼もすでに分かっているだろう。
数分後、戻ってきたユーリィの顔を見て、ガンチの答えがなんだったか俺もすぐ察せられた。ジュゼはというと、すでに答えが分かっていたかのように少年の顔を見ることなく、ふたたび竈の前で料理を再開していた。
少年はそんなエルフに一瞥をくれたのち、少女の遺体に近づいて、かぶせたる白い布を胸元までソッと下ろした。
死後半日以上経った姿がどんなものか知っているだけに、生きていた頃の彼女を知っている者として遺体を直視することができず、俺はユーリィだけを視野の中になるべく収めてその様子を眺めていた。
彼は少女の髪に手を伸ばしている。その指先には金に光る物が薄く輝く。彼の隣にいる少女の母親が戸惑ったように、彼と遺体とを見比べているのが目の端に見えていた。
「あ、あの……」
母親の戸惑いが声になった時、ユーリィはようやく手を引っ込めた。
「これは身代わりになってしまった彼女へ、僕からの謝罪と贈り物」
なんのことかと改めて少女に目をやると、ユーリィが付けていた金のブローチが茶色い髪を飾っていた。
「でもきっとこの子は両親が好きだっただろうから、二人がこの島を出なければならなくなった時、彼女はこのブローチをプレゼントすると僕は思う」
「主人はこの島を出ると言っていたのでしょうか……?」
母親にはブローチよりもそのことの方が気になったようだ。
ユーリィはほんの少し口元を緩ませて首を横に振る。その視線の先にはジュゼの背中があった。
「いつか、もしもってことだよ。この子の墓を守りたいと断られたし」
「そうですか……」
彼の所持していた高価なブローチがなにを意味するかなど考える必要もない。相変わらず遠回しな方法で優しさを伝える少年だ。ただし少女の母親にそれが伝わったのかどうかは微妙だとも思っていた。
「ええと……それで……あの……」
少年の視線はまだジュゼにある。まるで捨てられた子猫のように、振り向いて欲しいと訴えていた。
するとその時なって初めてジュゼは少年の方を向く。彼女は真顔で見つめ返したのち、一文字に結んだ口をゆるゆると開いた。
「アタシもソフィニアには行かないよ」
「でもハイヤーさんは、ジュゼはここに残らない方がいいかもしれないって……」
「そう言いながら泣いたでしょ? だから一緒には行けない。アタシには大切な物がここにはあるからね。この島に移ったあとの大切な時間とアタシの気持ち。楽しかったり悲しかったり辛かったり、そういう思い出とともにある大切な人がこの島にいる。たとえアタシが他のだれに拒絶されていたとしても、あの人と一緒にここで頑張るよ」
「分かった」
「それとね、君にはもうここには来て欲しくないんだ」
「え……?」
さすがにそれには俺も驚いた。同時に、口を出すなとわざわざ言った理由も理解する。これからユーリィを傷つけると彼女は暗にほのめかしたのだ。
「君が来ればどうして掻き乱される。アタシは家族を守りたいんだ」
「それは、もう会えないってこと?」
「そうなるかもね。もしそれが嫌なら、なにもかも捨ててここに隠れ住むかい?」
挑戦的に顎を突き出したジュゼは、口元に笑みを浮かべて
「できないよね」
「できないなんてことは……」
「その男も捨てるんだよ?」
「え!?」
「アタシはなにもかも捨ててって言った」
一瞬だけ目を見開いた彼はためらいなど微塵も見せずに返事をした。
「無理」
「だろうね」
「分かったよ、ジュゼ」
はしばみ色の瞳をしたエルフは一体なにを考えているのだろうか?
俺はジュゼの様子を窺ったが、やはりその瞳からは感情の一切を感じることはできなかった。
「子竜のことはリュットに任せるから心配しなくてもいいよ。行くぞ、ヴォルフ」
そう言われて顔を戻した時、そこには若き皇帝へと戻っていた少年が立っていた。
濃紺のローブを脱いだ代わりに気品とプライドを纏った彼には、もう捨てられた子猫の気配など破片すら残ってはいない。悲しみも優しさも内に押し込めた公人として、少女の母親へローブを押しつけると、二度と振り返ることなく粗末な扉を引いて、劣悪な小屋から出て行ってしまった。
彼はそうとう傷ついただろう。
心から慕っている、母親代わりのジュゼに突き放された悲しみを押し殺したのだから。
その憤りを込めて、俺は女を睨み付けた。
「あんな言い方はないだろ。ユーリィの性格は分かってるはずだ」
「もちろんよく分かってるよ、だから言ったんだから」
「どういう意味だ?」
女は答えなかった。
黙って俺の方へと近づいて、持っていた小さな麻袋を押しつける。中にはなにか温かい物が入っていた。
「あの子は、以前のように泣いてなんて絶対頼まないし、二度と来るなと言ったら来ないだろうね。けどあの子もアタシにとって大切な家族なんだ。だから突き放した」
「後悔はないのか?」
「今後悔するより、あとで後悔する方がずっと怖いよ。それなのに、また来て欲しいって願ってるんだから、まったく酷い姉だね、アタシは。酷すぎて嫌になる……」
そう言って自虐気味にクスッと笑ったジュゼを、俺はもう責めることはできなかった。
小屋の外に出ると、皇帝は遠い空を見上げて佇んでいた。
傷ついているだろうその心に、俺はなにも言うことができず、渡された麻袋を彼に手渡す。無表情のまま彼はその中身を眺めて、小声で呟いた。
「ミルール……」
それはエルフが好んで食べる芋菓子である。突き放しつつもそれを渡す彼女の本心がどこにあるか、ユーリィは気づいただろうか。もし気づいたのなら傷も少しは塞がってくれるだろうか。
しかし__
「僕は嫌われる運命だからしかたない」
無表情に言った彼に少々ガッカリして、俺は慰めの言葉を探す。
「ユーリィ、ジュゼは……」
「言うな! なにも言うな」
「だけど――」
「嫌われたんだからしかたがないって思わせてよ、頼むから。じゃないと僕は、ジュゼを苦しめることを泣いて頼みたくなる。できないって分かっててもそうしたくなる。でも大好きだからやりたくないんだ。ジュゼは僕を大嫌いになったんだって信じないと負けそうなんだ」
一度口を閉じた彼はまた空を見上げ、それから静かに命令を下した。
「フェンリルに変化を。フォーエンベルガーへ行く」
俺は主に従い、姿を変える。
背中に乗ったのを確認すると、もう迷わせないように俺は一気に上昇した。
すると傷ついた森からは、まるで別れを惜しむように精霊たちの光が上がってきて、島の上空を漂い始めた。
目指すは北、リカルドの居る城へと。
「あの人たち、これから苦しむんだろうね……」
――でもずっとじゃない。
「そうだね、ずっとじゃない。だけど僕が救えないのが苦しいよ」
――俺も元飼い主に聞きたかった。未来の俺がどんな姿だったのかを。
「いつか教えてくれるよ。僕もいつかここに帰ってくる」
俺もまた表情が分からない瞳に、悲しみを湛えた黒髪のエルフを思い出していた。
だが俺たちは行かなければならない。
この物語を進めるために。