第170話 善と悪と聖
ジュゼたちの小屋に戻る前に、ユーリィはどうしても火竜の子が見たいと言った。
「結局、あの子竜を守ったためにこんなことになったから……」
言葉の中に後悔の念が含まれているようでその横顔を見る。 前を向いた彼の青い瞳には、もう朝日とは呼べなくなった陽光が射していた。そのせいなのか、先ほどより明るい表情に見える。それが良いことなのか悪いことなのか分からなかったが。
考えれば俺たちはこうして何度も森の中を歩いた。そのたびにユーリィは、先の見えない未来を独りで歩もうとしていたような気がする。
だが今回ばかりは相当参っていたのか、珍しく俺に助言を求めてきた。
それなのに俺に言えたのはあの程度のことだった。それでもユーリィが微笑んだから、自己満足に納得するしかない。
自分でもそれが情けなかった。
「――ヴォルフ、聞いてる?」
「え?」
「もし疲れてるなら、場所さえ教えてくれるたら僕一人で行くよ」
「絶対に迷う。それに疲れてはいないさ」
「ホントに?」
心配した素振りで覗き込まれて、久しぶりに本気で抱きしめたくなった。時折見せるそういう表情が本当に可愛いのだ。本人はまったく自覚がなくて、不意打ちのように見せつけられる。
しかし今はやはり、ユーリィの言うとおり止めておこう。あの盲目の少女は、人に戻れないひと月の間、癒やしとなってくれたから。あどけない笑顔はユーリィとはまた別の愛らしさがあった。
「そういえばリュットが子竜を飛べるようにしたって、ジュゼが言っていたな」
ユーリィの顔をなるべく見ないようにして、俺は話を逸らした。
「子竜を少し成長させたらしいよ」
「どうやって?」
「北にある山に生える木の実を食べさせたんだとか。僕は、オアポウイ山じゃないかと想像してる。この大陸で一番高い山らしいし」
「シュネス王国のオアポウイ山なら、俺も話には聞いたことがある」
「ガサリナ山脈の倍ぐらい高いらしいよ。シュネス王国は、その山を作ったと言われるオアポウイ神を信仰していて、この大陸で唯一マヌハンヌス教国家じゃないって読んだことがある。凄く綺麗な山なんだって。僕も一度見てみたいなぁ……」
憧れを口にして、ユーリィは瞳を輝かせ顔を上げる。もちろん森に囲まれたこんな場所では、破片のような空が見えるばかりだが、彼の脳裏には見たことがない霊山が映っているのだろう。
「いずれ俺が――」
言いかけた言葉を、ユーリィが首を横にゆっくりと振って停止させた
「いいよ。見ちゃったら、手に入れたくなるかもしれないだろ」
「え!?」
その声があまりに冷淡だったから、俺は驚きとともに立ち止まり、数歩進んで振り返ったユーリィの顔を凝視した。
リュットの言っていた“闇”に、とうとう彼は浸食されてしまったのだろうか?
しかしふたたび見た顔に陰りはなく、むしろ目の輝きがいっそう増しているような気配すらあった。
「そんな驚くなよ、冗談に決まってる。あ、でもリュットと話したことがあるんだ。僕だって欲しい物があったら、どんなことをしても手に入れるって。リュットには“それは向こうの世界にいる連中と同じ性だ”って言われたけど。もしオアポウイ山を見たら欲しいと思うかも?」
「欲しいというのは……」
「決まってるだろ、侵略さ」
他のだれかに言われたのなら冗談と思うだろう。だが皇帝という立場にある彼が言えば、本気でそれを開始するのではないかと疑ってしまう。
それとも本気なのだろうか?
「前にフェンロンが侵略を開始したかもってブルーに言ったことがあるの、覚えてる? もし向こうがゲームを始めるのなら、否応なくソフィニアも始めなくちゃいけなくなる。僕が生きているうちにそうなると断言はできないけど、でも近い将来、必ずそうなる気がするんだ。だったら僕からそのゲームを始めても悪くはないだろ? 先手必勝はボワットでは定石だよね」
最果てとも言える島の、こんな辺鄙な森の中で、古ぼけた濃紺のローブを纏った彼が、あまりに皇帝然として言うものだから、俺は返事に困ってしまった。
「とは言っても自国ですらまともに動かせないんだから、ほとんど妄想の域だけどさ」
彼は自虐的にクスッと笑って肩をすくめた。
「俺に手伝えることは……」
「大丈夫。ヴォルフは僕の傍にいてくれるだけで。でももしも僕が暗殺されたり、処刑されたりしたら、その時は逃げてもいいよ」
「処刑だって!?」
驚きの声が、森の中に木霊する。頭上で鳴いていた鳥が、慌てて飛び去っていった。
「過去に何人の支配者や国王が殺されたと思ってるんだよ。今回だってフォーエンベルガーがそれを狙っていた可能性がある。そのせいであの子が……」
言っている内容とは裏腹にうつむいた表情があまりにユーリィらしく、俺はついに我慢ができなくなり、腕をつかんで強引に引き寄せた。
「わっ! やめろっ!」
「頼む、ちょっとだけ」
「頼むってなにを!?」
「ぎゅーっとしたい」
「ちょっ! お前の発情ポイント、ぜんぜん分からないんだけど!?」
発情したわけではない。気高くて、優しくて、可愛らしい彼がただ愛おしく、それを表現したかっただけだ。ただし難点があるとすれば、彼が見た目よりもずっと男らしいということだ。むしろ俺が出会った男の中では一、二を争うほどに男らしいかもしれない。大半の女ならこんな場面ではしおらしく抱きしめられるというのに、散々抵抗した挙げ句、腕の中で体を強ばらせたまま恨めしい目で睨め上げてきた。もっとも頬がほんのり赤くなっているのを見れば、嫌がっているわけではないということは受け取れた。
「無駄な抵抗だったな。腕力では俺に敵うわけがないぞ」
「ヴォルフ相手に魔法を使えないだけだ」
「一応言っておくけど、発情したってわけじゃないからな」
「あーはいはい」
「君は色々迷っているらしいが、俺は君のままで良いと思う」
「僕のままって?」
言いたいことはあるけれど、上手い言葉が見つからずに考えている間に、死闘の戦利品として金の髪にキスをした。
「だから――」
「あちこち傷ついたんだから、これぐらいのご褒美はいいだろ」
「そういえばフェンリルの時に受けた傷って、人間になったらどうなるの?」
「ないよ。ただ魔物の傷はこの姿をしている限り癒えないから、戻れば痛むだろうな」
「そうなんだ……」
寂しげにうつむいたユーリィの顔を見て、俺はつい見つけ出した。どこへ行こうとも彼に付いていくと言っていたけれど、胸の奥にあったわずかな違和感。それがなんなのかこの瞬間に理解したのだ。
「ユーリィ、ちょっと考えたんだが言っていいか?」
「なに?」
「俺は、皇帝が君であることと、君が皇帝であることは違うと思う」
「どういうこと……?」
全く以て言葉とは難しい。魔物だけだった頃は、ただ思念だけを伝えればそれで良く、伝えたいことももっと単純だったから苦労することもなかった。人間と関わるのはまったく厄介なことだ。そのことを言うと、ユーリィは少々呆れた目をして、
「でもヴォルフがそんなに複雑なこと、言ったことあったっけ?」
「ぐっ……」
確かにじっくり考えるのは苦手な質だった。人間だった俺が簡単に融合できたのはそれほど複雑な思考回路をしていなかったせいであるのは間違いなく、この少年を好きだという感情以外は魔物だった頃と大して違いがないことを考えていたような……。
「いや、違う! もうちょっと複雑なことを考えていたぞ。たとえばグラハンス家を継ぐ継がないとか……。ああ、でもオヤジの様子を見て、領地の管理やら貴族同士の付き合いやら、色々面倒だと思っていたな。やっぱり俺は魔物レベルなのか……」
「ヴォルフはヴォルフだからいいんだよ。ジョルバンニみたいに面倒臭い奴だったら、僕はたぶん一緒になんていなかった」
「そうだよな、俺もそうじゃないかと思ってたんだ」
俺は俺で良かったと納得しユーリィにキスをしようとしたが、手を口に宛がわれ拒絶されてしまった。
「そういう行動は少し抑えた方が良いと思うよ。で、さっきのはどういう意味?」
チッと心で舌打ちをして、しかたなく自分の言葉をじっくり吟味した。
「つまり、ええと、皇帝に相応しいのは君だというのは俺も認める。だけど君が皇帝にふさわしくなる必要はないと思う」
「どういうこと?」
「俺は本なんて、オヤジに無理強いされて読んだやつだけ、それもセシャールの歴史書ばかりで、それ以外はほとんど読まなかったから、この大陸にどういう国王がいたかなんて知らないが――」
「うん」
「君はその中のだれかを真似しようとしてるんじゃないかと思ってね。ほら、君がよく口にするマインバーグ提督や恐怖王や、そういう奴ら」
「ジャックス三世を別に尊敬しているなんてことはないからな」
「分かってるって」
口を尖らせて文句を言う顔が可愛らしく、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
生意気なことをいう反面、こういう部分がある彼が俺は好きなのだが、きっと俺と同じように感じる奴は他にいるだろう。あのハーンもそうだったのではないだろうか。
ようやく自分が言いたかったことがはっきり分かった。ただし今思ったことを言っても反発されるだろうし、特に可愛らしいなどと言ったら本気で怒り出すから、なるべく言葉を選ぶことにした。
「君はだれかになりたいなんて思わなくていい。自分がやりたいことをして、自分がやりたくないことはしなければ、それが君らしいやり方じゃないかと思う」
「僕がやりたくないことって……」
「ベレーネクの遺児たちを追い出したり、ククリを処刑したり、貴族たちに制裁を加えたりするような仕打ち、本当はしたくないんだろ?」
「え……?」
本人はまったく気づいていなかったのか、驚いた表情で俺を見た。
あれだけ辛そうな顔をしていれば、俺でなくても気づきそうなものだ。
いや、違う。俺だから気づいたのかもしれない。彼がどういう者か分かっているからこそ、辛いという心の訴えが聞こえていたのだ。
「君がそうしたいっていうなら別に止めはしないけれど、だれかの真似だったり、立派な皇帝になろうしてたりするのなら、もう一度考えた方がいいと俺は思う」
ユーリィは一瞬目を見開き、それから眉をひそめ、最後に俺の胸へと頬を当てた。
それが嬉しくて、口元が緩むがままにして後頭部を優しく撫でた。気の利いたことを言えたのかどうか分からなかったが、少なくても彼の心には訴えられたようだ。
たまにこういう役得があるから、どんな仕打ちも耐えられる。しかしこの世界にいる猫のしもべとはだいたいそんなもんだ。あのオヤジでさえ、子どもの頃に飼っていた猫だけには威圧的な態度も見せず、そればかりか魚や兎を自分で捕ってきて与えていた。
「ユーリィ?」
「ん?」
胸から頬を離し、俺を見上げた瞳を見て、先ほど拒絶されたキスもイケると判断した。だからそっと顔を近づけようとしたその時___
『いい加減にしてもらえぬかのぉ……』
「うわぁあああああああ!!」
せっかく良い雰囲気だったのに、驚いたユーリィは飛び上がり、さらに俺を押し退けて逃げてしまった。
「リュット、またかよっ!!」
少年は、俺の後方にいる精霊に怒りを露わにする。しかし言われた方はホーホーとフクロウの真似をして楽しげだった。
「お前、可哀相なフクロウ爺さんはどうした?」
『今は寝ておる。あの鳥は、夜目は利くが昼間は使い物にならないのが難儀じゃ』
「こき使ってるくせに……」
『そんなことより、子竜のところに行くのであろう?』
「あ、そうだった」
ユーリィは歩き出し、その後ろを付いていく精霊を俺は横目で睨み付けた。
「今のタイミング、わざとだろ?」
『さあて、なんのことやら』
飄々とした様子で返事をして、ユーリィに道案内を始めた精霊に、俺はもう一度舌打ちをして、少年に萌えた気持ちをなんとか抑えつけた。
それから少々歩き、俺たちは例の巨岩の前に到着した。リュットがいたお陰で、結構すんなり着いたことは認めよう。実際のところ、ジュゼに案内された時とは森の景色が代わり、焦げた匂いばかりで子竜の匂いもかき消され、魔物とは違う視線の位置に少々戸惑っていたのは確かだった。
ユーリィの気配を感じてか、子竜が甘えたような声で哭き始めた。
両側にある大樹を避けて回り込み、岩の向こうに行ってみると、その姿にユーリィばかりか俺すらも驚きの声を漏らしてしまった。
最後に見た時は、火蜥蜴のように体も四肢も地面にぺたりと貼り付いていたのだが、今は竜らしく上半身を起こして尻尾で体を支えている。後ろ脚は親竜がそうであったように前脚の倍ほど太く長くなり、口からはわずかに牙がはみ出していた。黒い尻尾の鉤爪も、その気になれば牛ぐらいは倒せそうなほど立派になっているし、それよりなにより羽根飾りより小さかった翼も、もうすぐ飛べそうなほど大きくなっていた。大きさは魔物の俺と同じだが、竜としては完全体とである。木の実一つでこうまで変わるものなのかと俺は半ば呆れ、半ば感心した。
「うわ、竜になってる」
人間には警戒心剥き出しのユーリィは、ためらうことなく子竜に手を伸ばす。子竜の方も甘えた様子でユーリィへと顔を近づけた。
「そいつがいれば、いよいよソフィニアも安泰だな」
「え? この竜を戦いに使えって言うのか?」
「違うのか!? 俺はてっきりそのつもりで守っていたのかと思っていたんだが」
「考えてもいなかった」
意外な答えに驚いて、竜の顔を撫でているユーリィを眺める。すべてを知っているつもりでも、こうして予想を裏切られることはまだあるようだ。
すると俺の隣にいたリュットが、相変わらず飄々とした様子で、
『使おうにも、その竜は主と思っておらんから無理かもしれないのぉ』
「ユーリィを主と思ってないだって? でもあの様子は……」
『あれは子どもが親に甘えているだけじゃ。いずれそうなるかもしれないが、今のところは無理じゃのぉ』
「その前に、魔物のように竜も主を持つのか?」
俺たち魔物は、エルフの魔法によって契約を無理やり結ばされ、下僕になることはある。しかし竜は精獣であり、主人が必要なモノとは思ってもみなかった。
『大昔には竜騎士という人間たちが、竜と契約を交わしていたのぉ』
「まさか魔物のように魂を奪われて?」
『いやいや、そういうことではなく、人間でいう約束みたいなものだったはずじゃ』
「それ、ホント!?」
目を輝かせてユーリィが振り返る。物知りな彼にも知らないことがあったようだ。
『まだエルフがこの世界に生まれる前の時代じゃよ』
「それってあの伝説以前のマヌハンヌス教がない時代?」
『そういうことになるかのぉ。その後、なぜか竜は人間には近づかないようになった』
「へぇ、なにがあったんだろう。リュットは知らないの?」
『ワシは大地を守るだけの存在じゃよ。人間や他のモノのことなど興味もなかった』
その後しばらくユーリィと子竜はじゃれ合っていた。ユーリィ曰く、伝説の竜を調べるためだと真顔で訴えたが、俺からすれば乗ったり触ったり眺めたりで、遊んでいるようにしか見えない。子竜もまんざらではないらしく、隙あればユーリィの顔を舐め回して、まるで犬のようだ。
それを遠目から眺めていた俺は、あることを思い出して隣にいる精霊に話しかけた。
「そういや、精獣のくせにあの竜は、島も人間もお構いなしに攻撃をしてきたな」
『精獣だからじゃよ』
「つまり?」
『精霊も精獣も、人のために存在しているわけではない。この星の掟を守るために存在している。もしも人と竜が接してはならないと星が決めたのなら、竜はそれに従うのみ。そしてワシもまた、火山が噴火しようとも森が燃えようとも止められぬ』
「それは守っていると言うのか?」
『だれが守ると言ったのじゃ? ワシら精霊も精獣も、人間やエルフや魔物の手により星が破壊されるのを防ぐのみじゃぞ』
よく分からない星のルールを聞かされて、俺はすっかり混乱した。いったいなにが善でなにか悪なのか。魔物と違う精霊とは、聖なる力を持つモノたちではなかたのか。
そのことをリュットに尋ねると、
『善も悪も聖も、すべて人が決めたのじゃ。星にしてみれば、人もエルフも魔物もすべて奇形、同じモノよ。そしてその奇形が星を壊すようならば防がなければならぬ』
「じゃあ、ユーリィにある“闇”とは……」
『星を破壊しうる力、精霊精獣を操る力のことじゃの』
「ユーリィが星を破壊するって? そんな馬鹿な……」
『ゲオニクスよ、“闇”とは感情そのものを指す。それが善だろうと悪だろうと聖だろうと違いはない』
精霊の言っていることが納得できず、俺は黙ってユーリィの方を見た。どうやら竜の相手は飽きたようで、こちらに向かって歩いてきていた。
『そうしてワシも、あの者に力を貸すモノになってしまったようじゃ……』
その言葉を残し、精霊はスッと姿を消す。
「なんだ、リュットの奴、消えちゃうのかよ。ま、いいか。さてヴォルフ、リカルドのところに行くよ。ソフィニアに戻る前にあいつと決着を付けなくちゃね」
そう言ったユーリィの顔を見つつ、俺は“侵略”という彼の言葉を思い出していた。