第17話 ささやかな復讐
色々な取り決めごとがある程度まとまると、一同は部屋を出た。
廊下にはアルベルト・エヴァンスが控えていて、ユーリィを見るなり応接間に来て欲しいと願い出た。
「皆様がお待ちなんですよ」
だれが待っているのか分かっていたので、ユーリィは「うん」と即答した。
幸いにも、ジョルバンニは今日中にソフィニアに戻らなければならないと告げ、その言葉通りすぐに行ってしまった。
ずっとあの男に監視されてるなんて堪ったもんじゃない。それにこれから会うのは、自分の内面をさらけ出してしまう相手なので、あの男に見られるのは嫌だった。
応接室には想像した通り、女が三人、金髪の子供がひとり待っていた。
「お兄様!!」
ユーリィが姿を見せるなり、その子供が駆けてきて、体に抱きつく。弟のフィリップだ。と言っても血のつながりはない。病弱だった兄の代わりの跡継ぎとして、継母が他の男との間に作った子供である。そのことを父が知ってしまったため、フィリップは跡継ぎ候補から外されてしまっていた。
先月七歳になった彼は、前に見たときよりもわずかに成長している。ここ最近の出来事がそうさせたのだとしたら、なんだか可愛そうに思えてきた。
「フィリップ、元気にしてた?」
「うん。あ、でもお兄様に会えなかったから、ちょっと寂しかった……」
恥ずかしそうにうつむいた姿に、あの継母を思わせるものはどこにもない。彼女が自分の手で育てなかったのが幸いしたようだ。
「ごめんね。ちょっと色々忙しかったんだ」
「でもさ、前にいらした時は会えなかったよ?」
金の髪をくしゃりと撫でる。そうしながら、“ああ、そうか、ヴォルフもこんな気持ちなんだな”とふと思った。
「今度また“追いかけっこ”しよう。ほら、前に丘の上でやったやつ」
「本当に?」
「うん。今度は子供だけでね。ソフィニアから連れてくるから、三人」
「でも……」
フィリップは言葉を切った。それから戸惑うような視線で見上げると、
「お兄様は子供? 大人?」
その質問はユーリィの胸をぐさりと突き刺した。
もちろん悲しみを覚えるほどのことではないが、一抹の寂しさはある。
だからちゃんと確かめなければならないんだ……。
そんな内面を鋭く悟ったのか、フィリップは不思議そうな顔をして、「どうしたの?」と尋ねてくる。その無邪気さが少し眩しかった。
「さあさあ、フィリップ様。そろそろお昼寝のお時間ですよ」
近づいてきた小太りの女が言った。彼女はフィリップの世話係をずっとしているらしい。
彼女の言葉に、弟は本当に残念そうな顔をしてくれた。そのことが嬉しくて、ユーリィは小さな頭をもう一度撫でてやった。
弟が出て行くのを見送り、残ったふたりの女性に視線を向ける。ひとりは年配の女性で、名前だけは聞いていたが、会ったのはこれが初めてだった。
そしてもうひとりは……。
なるべくそちらは見ないようにしてふたりに近づくと、年配の女性が軽く膝を折って挨拶をした。
「お初にお目にかかります、ライネスク侯爵」
張りのある声の持ち主だ。結い上げられた白髪から想像すると、六十は越えているだろう。だがその立ち姿は上品で、貴婦人という雰囲気を醸し出していた。
年上の女性にそんなふうに扱われた経験がないユーリィはどうしていいか分からず、困り果て、唸るような返事をしてしまった。
そんな戸惑いを感じただろうに、女性はにっこりと微笑んでくれた。
「ええと、こんにちは、オーライン夫人」
「その名前は、私の父のものですので、どうぞ“ヒルヴェラ”とお呼びください」
「あ、じゃ、ヒルヴェラさん、このたびは弟フィリップのことで、無理なお願いをしてすみませんでした」
フィリップの行く末を案じていた時、彼女から養子縁組の申し出があった。オーライン伯爵家は現在、跡継ぎが途絶えている。しかも継母のアンナとは血縁関係にあるということで、弟を跡継ぎとして引き取ると言ってくれたのだった。
「あの子はとても素直な良いお子ですわね。アンナが産んだとは思えませんよ。きっとカシルダの育て方が良かったのでしょう」
あの世話係の女は確かにその名前だったと、ユーリィは思い出した。
「アンナは昔からわがままで、貴族娘の悪い部分しかない性格でしたから……」
「亡くなった方を悪く言うのは止めておきましょう、ヒルヴェラさん。それよりちょっとご相談したいことがあるので、あちらにお座りになっていただきますか?」
そう言って、部屋の中央に設えてある応接セットを手で示した。王宮時代のものだろうことは想像ができる、白地に花柄の刺繍をあしらったものだ。貴婦人を座らせるにはちょうどいい豪華さだった。
「分かりました、そうさせていただきます」
答えてから、彼女は「貴方は噂に違わぬ方ですわね」と言って、ふふふっと笑った。
いったいどんな噂が流れていることやら。きっと貴族の間では、エルフもどきの奇妙な奴とでも言われているのだろう。そう思いつつ、自分をこんな見かけに産んだ女に目を向けた。
以前と変わらぬ眉目麗しき女性だ。とても三十を越えているとは思えない。編んだ薄い金髪を片側に垂らし、赤い布で包んだ髪型も、薄紅色のワンピースも年齢に見合ったものではないが、本人には似合っていた。
エルフの特徴そのままの大きな青い瞳、色の白い肌、艶のある唇は、女性であるからこそ栄える代物だ。それを受け継いでしまった自分はなんと哀れなことか。そんな自虐的な思いでユーリィは、うつむく彼女に声をかけた。
「お久しぶりです、母さん」
「え、ええ……」
手放した子供に引け目を感じているのか、それとも母親としての自覚がないのか、今更どうでもいい話だ。母の隣にぴったりと寄り添うアルベルトが、彼女の魅力を分かっていることだけが大事なんだから。
そう思えるようになった自分は、少し成長したんだと思う。
「おふたりも、あちらに」
だから、ちゃんと穏やかに言うことができたのが嬉しかった。
ふたりが着席するのを待って、ユーリィもソファに移動する。腰を下ろすと、テーブルの向こうにいる老婦人、母親、そしてアルベルト・エヴァンスが曖昧な表情を作っていた。
ヴォルフを隣に座らせたのは、これから皆にする提案が拒絶されないかという不安があったからだった。
ヴォルフ以外の者に頼ろうと思ったことがないので本当に怖い。独りがいいと思っていた頃は、だれかに拒絶されるのが嫌だったんだなと、改めて知った。
「相談というのは……」
ひじの先でヴォルフの腕に触りながら、ユーリィはゆっくりと切り出した。
「養子縁組についてです」
「つまりフィリップ君のことね?」
「ええ、それもあります」
「それも……?」
一度大きく息を吐き出すと、ヒルヴェラからアルベルトへと視線を動かす。勘のいい男だから、もしかしてこれからする提案を悟っているかもしれない。むしろそうであって欲しいと願いつつ、彼に話しかけた。
「僕はアルと母さんにフィリップを引き取ってもらいたいんだ」
「私たちに!? それはどういう……?」
残念なことに彼にも想定外だったようで、空色の瞳を丸くして驚きを見せた。
「僕は今、わりと孤立無援な状態にいる。さっきいたジョルバンニもそうだし、ギルドの連中もそうだし、アーリングやその配下の人間も、そしてラシアールも、どこまで信じていいのか分からないんだ。だから僕が信用できる人にそばにいて欲しい」
「信頼……?」
アルの瞳はヴォルフの方へと動いていった。彼が何を言いたいのかよく分かる。それに答えようとしたが、その前にヴォルフが発言してくれた。
「俺は駆け引きとか、そういうのが苦手だって、おまえも知ってるだろ?」
「あ、ええ、そうですね……」
「俺はユーリィを励ますことはできるが、力になることはできない、残念だけどな」
その声があまりにも悲しげだったので、ユーリィは思わず彼の腕をつかんでいた。
「そういうことが苦手なところが、ヴォルフの良いところなんだぞ?」
「言ってくれるのは嬉しいが……」
「苦手だから、僕はおまえと一緒にいるんだから」
「だけど情けないって思ってるだろ?」
「ヴォルフはヴォルフのままがいい」
「ユーリィ……」
コホンと咳払いが聞こえて、ハッと我に返る。気づけばふたりで見つめ合っていて、他をすっかり忘れていた。
「ふたりの仲が戻っていて安心しましたよ」
嫌みで言ったわけではないだろうが、アルの声には棘が混じっているような気がした。こんな場所でと呆れたのだろう。自分でも恥ずかしくなって、赤くなっているだろう顔を取りつくろって、ユーリィは三人の方へと向き直った。
「えっと、つまりアルには僕の元で働いて欲しいんだ。でも今のままだと色々と文句が出るからね。だからオーライン伯爵家はアルが継いでもらって、オーライン伯爵として、公爵家を含めた色々なことで僕に力を貸してくれると嬉しい」
アルベルト・エヴァンスもまたオーライン家とは血縁関係にある。夫人もはじめは彼に跡を継いで欲しいと望んでいたのだから、おかしな提案ではないと思っていた。
「つまり私がオーライン伯爵家に入り、フィリップ君を養子に迎えて欲しいということなんですね?」
「そうすれば、僕はフィリップと本当の兄弟になれるだろ?」
「ああ、なるほど」
アルは納得したと大きくうなずいた。
母に目を転じると、彼女はうつむいたまま強ばった表情を作っている。やはりというべきか、当然と言うべきか、元愛人の正妻の子を引き取るのは気に入らないのだろう。
それでもいいとユーリィは思った。これは僕からの軽い復讐だと。見捨てられた子にもプライドがある。愛情を求めて逃げてきた子を、一度たりとも抱きしめなかった母へのこれは復讐だ。
フィリップはもちろん可愛いと思っている。でも背徳の中で生まれたことは一緒なのに、あの子はずっと幸せに暮らしてきた。井戸に落とされたこともない。床の水を舐めさせられたこともない。裸で鞭を打たれたことも、化け物だとあざ笑われたことも、そして何時間も縛られていたことも……。
自分はなんて醜いんだろうと知りつつも、どうしても捨てきれない憎しみが心の奥にまだ残っていた。
「ヒルヴェラさん、どうでしょうか?」
「そうねぇ……」
少し小首をかしげ、彼女はうつむいている母を見やった。
半分は人間の血が入っているけれど、見た目はエルフにしか見えない母が気に入らないのかもしれない。いくら上品な女性であっても、貴族とはそんなものだ。
期待と不安を持って、しばしヒルヴェラの返事を待った。
やがて彼女は微笑みを浮かべて、母に話しかける。
「レティシアさんはどうお考えなの?」
話しかけられたことに驚いたのか、母はサッと顔を上げた。
「……私?」
「ええ、そう、あなた」
「アルベルトがそうしたいって言うのなら……」
曖昧な口調に不安が感じられた。
やはり彼女には重荷だったのかと思っていると、悲しげに瞳を曇らせて母は呟いた。
「でも私は、いったいどこへ行けばいいのでしょう……」
なるほど、そういうことか。
母は全く理解できていなかったのか。
そう思うと、くだらない復讐を企んだ自分が、ユーリィはなんだか可笑しくなった。
「ユーリィ君は私たちに結婚して欲しいって言ってるんだよ、レティシア?」
「え……? そうなの……?」
美しく、そして愚盲な瞳で彼女は息子を見る。
それが母なのだと改めて思い知った。
「ええ、そうですよ、母さん」
肯定の言葉とともにうなずくと、母の頬はほんのりと赤く染まっていった。
「私……、もしそうなったら嬉しいわ……」
「それなら問題ないわね。私も、あの子が成長するまで育てていられるのか、少々自信がなかったものですから。ああ、もちろん今はとても健康ですが、年齢が年齢ですので。それにちゃんとした家庭に育った方が、子供にとってはずっと良いですからね」
ヒルヴェラの言葉で、ユーリィの提案はほぼ決定事項となった。
その後、女性ふたりは退室した。
アルに残ってもらったのは、ジョルバンニの策略や、ヴォルフの眼のことについて説明しようと思ったからだ。けれど、ふたりの剣呑な雰囲気に気圧され、ユーリィは口を開くことができなかった。
アルはヴォルフを睨み続け、ヴォルフはその視線を避けるように部屋の片隅を眺めている。ふたりの間に何かがあったことだけが分かる唯一のことだった。
「あ、あの……」
ようやく口にしたひと言だったが、すぐにヴォルフに遮られた。
「悪い、ユーリィ。ちょっとふたりだけで話させてくれ」
「でも……」
「大丈夫、心配するな。ちょっと色々とあったから、自分の口から言いたいだけだ」
「あ、うん」
もうそれ以上何も言えず、ユーリィは大人しくその場から立ち去った。