第168話 月光に吼える
竜とフェンリルの戦いに、一同は唖然として空を見上げていた。ユーリィの周りにいる者たちだけでなく、村も騒然としているらしい。一度フェンリルが火山の縁に突っ込んだ時、微かな揺れが起こり、風に乗って叫び声が流れてきた。
(あの赤い光はなんだろう?)
森からまっすぐ伸びる光がある。先端はそのほとんど夜に蝕まれた月に繋がっているように錯覚してしまうほど、彼方まで昇っていた。
(あれも竜の仕業かな? それにしても結構苦戦してるし……)
フェンリルの強さは何度も実感している。しかしそれを上回るスピードで竜は次々と攻撃を仕掛けていた。
(どんどん速くなってる)
竜は赤、フェンリルは青のオーラを纏っている。その二つが暗い夜空を流星のように飛び交うが、圧倒的に赤の残光が多い。双方から放たれた炎はフェンリルだけが一方的に浴び、そして吹き飛ばされていた。
(どうして炎で吹き飛ばされてるんだろう? なんか理由あるのかな?)
考えても分からなかった。
分かるのは、時々フェンリルが敵の炎にあえて突っ込んでいることだ。さらに竜に比べて移動する範囲も小さい。低空飛行もさることながら、竜の後ろに回り込もうともしなかった。
(速いからできないのか……?)
いや、そうじゃない。
火山や森に攻撃の余波が行かないようにしているのだ。
(バカだなぁ、あいつ)
もちろん本気で思っているわけじゃなく、ヴォルフらしいフェンリルの動きに小さな感動を覚えていた。それなのに周りにいる連中は全然分かっていない。
「……あの赤いの、もしかして竜じゃないのか?」
ユーリィの正面にいる鎌を持った色黒の男がふと呟いた。
「竜ってあの伝説の? マヌハンヌス神と戦った精獣か?」
右斜め前で弓を握っている男が反応した。
「本土にある教会にある絵に、あれと同じようなのが描かれてあった」
「ってことは、竜が魔物を退治しようとしてんのかよ!!」
左前にいる痩せた男が、必要とは思えないほど大きな声をあげた。
「きっとそうだ」
なんでそうなるんだよ! 違うだろ! よく見ろよ!
火山を壊さないように、森を焼かないようにしているのはフェンリルじゃないか!
だけど偏見の目では実際の姿なんて見てはもらえない。結局はこういう評価をされてしまうんだ、あいつも僕も。
そんな気持ちで、ユーリィは周りの者たちを睨みつけた。
「もしかしてあの魔物を操っているのは、こいつじゃねーのか?」
そう言ったのは__
いや、もうだれでも同じだ。ここにいる全員が同じ気持ちであることは、自分の方を向いた十個の目が物語っていて、個体をいちいち認証する必要はない。先ほど決めかねていた結論を出すだけだと、ユーリィは内にある魔をふたたび呼び覚ました。
「おい、糞エルフ! あの犬みたいな魔物を今すぐ止めろ!」
一人が叫び、全員が手にした武器を構えた。弓に番えた矢が二本、心臓を狙っている。それでもユーリィは黙ったまま彼らを睥睨し続けた。
殺してしまおうか?
自分にはその力がある。
フォーエンベルガー領であったとしても、帝国内にあるのだから反逆罪として片付けられる上に、フォーエンベルガーそのものも潰せるだろう。後々のことを考えれば、その方が楽だ。
(それにヴォルフだって、あんな苦労して戦わなくても済む)
黒い物が内から血へと流れていくのを感じた。
それは以前感じた憎しみよりおぞましく、喜びにも似た気持ち。今まで受けてきたあらゆる理不尽を、今度は自分が行って恐怖でこの世を支配する。復讐だと言われれば、たぶん否定はしないだろう。
「早くしろ! 島が壊れる!」
弓が引かれるギリギリという音がした。
「お前たち、やめろ! この方は……」
「言う必要はないよ。言ったところで結果は同じだから」
背後の男を遮って、ユーリィは決意した。
指先を二度三度折り曲げる。風刃を放つ準備は完全にできていた。
その時___
爆発するような激しい音と、島全体が揺れるような振動が足に伝わった。
驚いた男たちが振り返る。上空からは竜が森の方へ降りてきて、今まさに火炎を放とうと口を開いた。
(あっ、駄目だ、森が燃える!)
だが心配した瞬間、森の中から狼魔が宙へと駆け上がり、放たれた火炎を体で受け止め森への直撃を反らしていた。
『健気じゃのぉ。そなたの意志を守ろうと躍起になっておる』
フクロウに宿った精霊がユーリィの肩へ舞い降りてきた。
「僕の意志は……」
こいつらを殺して、ヴォルフと共に戦うことだ。
『森のあちこちで延焼が始まっているのぉ』
「森が!?」
そんなことになったら、精霊や子竜やジュゼたちが行き場を失ってしまう。そんな焦りが注意力を奪い、右前方の男が動いたのにも気づかなかった。
「駄目だっ!」
次の瞬間ユーリィは後方からだれかに押された。フクロウが舞い上がる羽音がして、同時に切り裂くような悲鳴が聞こえる。男たちがワーワー叫び、体を覆っていた者が悲痛な声をあげた。
「ルル!!」
何が起こったかは考えずとも分かった。左前方から狙っていた矢が消えている。
男とともにユーリィは、倒れてる少女のもとへ駆け寄った。
「パパ……痛い……痛いよ……」
少女の肩よりやや下に矢が刺さっている。急所は外れて即死は免れたが、このままでは命を落とすのも時間の問題だった。
「ルル、待ってろ、いま、矢を……」
「抜いちゃ駄目だ。出血が酷くなる」
「しかし……」
「この島に医者か白魔道士はいないのか?」
「そんな者、いるわけがありません」
「ガ、ガンチ、お前が悪いんだ……そんなエルフを庇うから……」
と言いつつも、さすがに子どもを傷つけた罪悪感はあるらしい。弓を持つ男は動揺して数歩下がった。
「そうだ、お前が自分で娘を傷つけたんだ!」
「どうせお前も仲間なんだろ!」
「よく見ろ! この方はエルフじゃなく皇帝陛下だぞ!!」
ガンチという男がなにを言っているのか分からなかったのか、男たちは一瞬静まりかえった。フードが外れたユーリィとガンチを何度も見比べている。それでも手にした武器は徐々に下がり始めていた。
「あの狼魔は皇帝の使い魔だって前にハイヤーから聞いた。オマエらだって皇帝の容姿についての噂は聞いてるだろ」
「まさか……そんな……」
ガンチの言葉に男たちはますます混乱し、狼狽える。しかしユーリィはそんな彼らを見てはいなかった。痛みとショックに呼吸が荒くなっている少女の頬に手を当てて、「大丈夫だ」と囁いた。
頭上ではまだ戦いは続いている。炎はこうしている間にも森を焼いているだろう。
今自分がすべきことはなにか、ユーリィはただ必死に考えた。
「も、もしそうだったら、オレらはおしまいだ。だったら先に……」
「そうだな、ここに皇帝がいるなんて、だれも気づいてないかもしれない」
「そもそもそのガキが本当に皇帝かどうかも分からねーし」
「つーか、皇帝ってあの悲劇を起こした張本人じゃなかったっけか?」
次々と保身を口にする男たちにイラッとして、ユーリィは横目で睨み付けると、彼らを黙らせるために威嚇した。
「うるさいっ! くだらないこと考える隙があるなら他にやることあるだろ!」
「なにを……」
鍬を構え直した男に向けて、怒りに任せてユーリィは風を解き放った。風刃は使わなかったが、制御をしなかったものだから男の体はかなりの距離を吹き飛んだ。森が開けて細い木がまばらに生えている斜面をゴロゴロ転がる男を見て、恐怖におののいた一人がわめき声を上げて逃げていった。
「今、森が焼けてるらしいから、早く島民を避難させないとどうなるか知らないからな?」
「森を焼いただって!? ふ、ふざけんな……」
どうやら脅しと受け取ったらしい。説明する時間も勿体ないので、それでもいいかとユーリィはただ「そうだ」と頷いた。
「だから早く行けよ。じゃないと火山も噴火させるぞ」
「わ、分かった。だからそれだけは勘弁してくれ」
立ち去っていく男たちを見送り、小さく息を吐いたのち、ふたたび少女を見下ろした。
「大丈夫? 痛いの我慢できる?」
「ちょっと……だけなら……」
「そしたらすぐにフェンリルにソフィニアまで連れて行ってもらって、お医者さんに治してもらうからね」
「フェンリルさん……頑張って……る?」
「うん、凄く。きっともうすぐ勝つよ」
しかし見上げた戦局はますますフェンリルが不利になっていた。
破壊音がひっきりなしに鳴っている。それでもユーリィの言葉を信じて、少女は微笑んだ。
「ルル! ルル! しっかりしてくれ」
娘の名を呼んでガンチはユーリィを押し退け、その上半身を抱き上げた。
「待ってろ、今パパが助けてやるからな」
男は刺さっている矢に手をかける。
「あっ! 待っ!」
止める間もなく、ガンチは娘の体から矢を引き抜いてしまった。
途端溢れ出す血液。少女が着ている白い麻のワンピースだけでなく、男の薄茶の服も靴も、そして近くに咲いていた小さな花までも真っ赤に染まっていく。大量の出血に耐えられず、少女の体は痙攣し始めた。
「ああ……ルル……どうしたらいいんだ……、ルル、頼むから……」
「パ……パ、フェン……リルさん……ね……ルルの……顔を舐めてくすぐるの……面白い……で……」
その言葉を最後に、少女は絶命した。
「くそぉぉおおおおおおおおおおお!!!!!」
父親の悲痛な叫び声は、月の消えた空と大地に響き渡る。
だがその声すらも、竜が放った炎によって吹き飛ばされたフェンリルが山にぶつかる衝撃音にかき消された。
「そうさ。フェンリルは、ヴォルフは頑張ってるよ。なにもしてないのは僕だけさ」
殺すと思っても結局なにもできなかった。父親も止められず、少女も死なせてしまった。ヴォルフには竜と戦えと命令しておきながらただこうして眺めているだけ。自分はなにもしていないどころか災いばかり呼んでいた。
すぐ横では悲劇を悟って家から飛び出してきた母親が、娘の体に取り付いて泣いている。その声に責めているのだと、ユーリィは唇を噛んだ。
「せめてレネがいてくれたら……」
『そなたには力があるといったはずじゃぞ』
いつの間にか肩に戻っていたフクロウが言った。
『力って僕があの竜を倒せるってこと?』
フェンリルですら苦戦している相手に通用する魔力を、過信できるほどには感じていない。あるのは憤るほどの無力感だった。
『竜の動きをよく見るのじゃ』
見ろと言われても上へ下へと飛び回る竜の赤いオーラは、目で追うのもやっとだった。
(速すぎる。あんなのにここから攻撃なんて無理だ)
ちょうどその時だった。先ほど月へと光線があった辺りから、小さな光の玉が上がっていくのが見えた。太陽ほど強くはないその光は、仄かに確実に夜を照らし始める。まるで月がもう一つ現れたようだ。
――――グァアアッ!!
夜を切り裂くような声で、竜が激しく哭いた。
『どうやら、エルフが月光を集めておいたようじゃのぉ……』
「エルフってジュゼのことか!?」
『大昔、竜との戦いでエルフが使った魔法じゃよ。ほれ、よく効いておる』
ジュゼまで戦っているというのに、いったい僕はなにをしている?
せめて風さえなかったら、竜の動きを止められるのに。
突如閃きをもたらした。
「そうか、攻撃できないなら止めればいい」
『やっと気づきおったのぉ』
やれるのか、この僕に?
エルフと罵られたが真実ではない。
人でもエルフでもないこの中途半端な存在でも本当にやれるのか?
『何度でも申すぞ。そなたはそなたをただ信じればよい』
「――分かった」
意識を集中した。
できる、絶対にできる。
ヴォルフの信じる自分を今は信じるだけだ。
「風よ、僕に従え!! 今すぐ消えるんだ!!」
叫ぶと同時に、体中が熱くなった。刹那、自分を包んでいた空気の膜が、なにかに吸われるように一気に空へと上がっていく。風の輪郭は確かに見えた。
それが遥か上空まで到達すると、弾けるように四方に散る。
晩夏の風が吹き荒れていた空に、大気に散った風の破片が溶けていき、一瞬にして静まった。揺らいでいた枝も、聞こえていた風音もすべてが止まる。
それでも、上手くいったのかどうか分からなかった。
だがその直後、森の上空にいた竜が揚力を失って落ちかけた。
成功した!!
竜は激しく翼を羽ばたかせ戦いを再開したが、スピードは明らかに違う。
「ヴォルフ、行け!!」
届いてはいないだろうはずのその声に反応するように、竜が吐いた火炎へとフェンリルが突っ込んでいく。
また弾かれるのではというユーリィの懸念をよそに、狼魔は真っ赤な炎を突き破り、襲いかかった竜の両腕を者ともせず、そのまま竜の懐へ飛び込んで喉元に食らいついた。
「よし!!」
そのまま竜を海へと連れ去っていくフェンリルに、ユーリィは最高に感動した。
なんと勇ましい魔物だろうか。
あれこそ、自分が心から愛する者の姿だ。
しかし___
海上間際で、何を思ったのか竜を咥えたままで狼魔が吼えた。
「ちょっ! なにやってんだよ!?」
案の定、竜が暴れて簡単にフェンリルの拘束が外れてしまった。
「バ、バカ!!」
遠目でよく見えないが、まだ致命傷には至ってないようだ。
天空には本物の月が徐々にその姿を取り戻そうとしている。だからもう一度戦ってもフェンリルが勝つだろう。
だが竜の意志は再戦ではなかった。
“ならば! 最後に見届けようぞ、この地にいる光あるモノが真であるか!”
意識の中に流れ込んでいた声がして、竜の顔がこちらを向く。
「なるほど、狙いは僕か」
覚悟を決めたその時、視線の端に煌めくモノを見た。
月光を反射してこちらへと落ちてくるそれは―――
勝てる!
その確信を以て、竜に応える。
「来るなら来い!」
青き狼魔がふたたび吼えたのは、ほぼ同時だった。