第167話 魔物の身にてこの地を守り
ジュゼは軽やかな足取りで森の中を進んでいく。まるでこれから始まることが、楽しい余興であるとでも言うように。魔物に戻った俺は、そんなエルフの後を付いていった。
彼女の左手には拳ほどの大きさの光の球が一つ。光源は水晶。彼女の作り出した明かりは仄かに、しかし確実に森の中を照らしていた。
「ユーリィが心配かい?」
先ほどように嘲るような口調ではなく、やや沈んだ声で彼女はそう尋ねてきた。
だが返事はしなかった。そんなことは言わなくても分かるだろうという意志を込めて。
「心配だろうね。こう見えてもアタシだって心配してるんだよ、本当は」
どうだか。
そう思いつつ女から顔を背ける。鬱蒼とした森の中には、人には見えない精霊たちが綿毛のように漂っていた。
「試したことは認めるよ。あの子があの子である前に皇帝になってしまっていたら、もうアタシにしてやれることはなにもない」
――リュットは“闇”に囚われ始めていると言っていたな……。
「“闇”ねぇ。ま、そんな感じの暗い顔をしてたかな。でもアタシには迷ってるように見えただけだった」
――迷ってるとは?
「立場とか感情とか理想とかプライドとか、どれを優先したらいいのか分からなくて迷ってる。あの子は優しすぎるほど優しくて、しかも負けず嫌いだから。そうだよね?」
以前にこのエルフがユーリィの母親のようだと思ったことがあったが、正しくそんな言葉だった。
「でもどう決着をつけるか、それはあの子しか決められないよ。なにしろ頑固だから」
ふふふと笑う声に反応するように、精霊たちがゆるゆると揺れた。
恐らくこの森にいるモノたちすべてが、彼の行く末を気にしているのだ。
心地良い音楽が、耳障りな音に成りはしないかと。
けれど俺自身はそんなことを気にしていない。
ただ、この先もユーリィがユーリィであってくれればそれでいい。
「でもアタシはアタシ自身を信じてるよ」
――!?
「あの子を信じるアタシ自身を、あの子が可愛いと思ったアタシ自身を。ねえ、知ってるかい? ユーリィは嬉しい時楽しい時、視線を右に寄せて、口の端をほんの少し上げるんだ。照れてるんだろうねぇ。それを初めて見たのは、古着の黄色いシャツを渡した時さ。雨で着ていた服がビショビショで、いかにも寒そうだったから。ま、渡したのはただの興味本位だったけどね」
ジュゼは立ち止まると、光玉ごと左手を高く上げた。
少しだけ光の届く範囲が広くなる。すると、先の方で数本の枝から葉がすべて落とされている木が見えた。
この島の樹木はあまり高く伸びないが、代わりに枝が真横に張り出している。葉は丸みを帯びた楕円で、本土と違って色も浅かった。
ユーリィなら名前を知っているだろう。
そしてこんな木の名ですら彼の口から聞いた瞬間から、俺には宝の隠し場所を聞いたと同じほど、心に残る言葉となってしまうのだ。
「あ、子竜は別に移したよ。リュット様が少し飛べるようにして翼を広げるもんだから、あの虚は狭くてね。ほら、あそこ」
指さされた先には、俺の頭を優に超える大岩が、巨木と巨木の間に挟まっていた。両側の太い幹は岩を避けるように歪んでいて、この岩が遙か昔に火山から飛んできたことが窺い知れる。岩の上には無数の精霊たちが舞っていた。
「向こう側が大きくえぐれていて、下に子竜はいるよ」
そう言ったものの、彼女はそこから動くことなく、木々の間に見える夜空を見上げた。
頭上には三分の一が欠けた赤い月がある。一度欠け始めてからは、溶けるが如くその姿を消す速度が増しているようだ。竜が来るのも時間の問題だろう。
――それで、手伝うってなにをするつもりだ?
「んー、あんまり考えてはいなかったけど……」
――ふざけてるのか!?
「ふざけてなんてないさ。なにか計画したって、その通りになるとは限らないからね。それに戦うのは竜とあんただ」
当てにしていたわけではない。こんなちっぽけな体で竜になど立ち向かえるものか。ユーリィほどの機才があるとも思えなかった。
「どうせバカにしたこと考えてるんだろうね、あんたのことだから。戦うならユーリィの方が良かったとか思ってるんでしょ。ま、いいさ。それより来たみたいだよ」
大岩の上で舞う精霊たちの動きが、にわかに激しくなっていた。前回のように甲高く哭く子竜の声はない。親が甘えられぬ存在だと知ったためか。怯えるような波動が岩の向こうから、わずかに流れてきた。
「フェンリル、上!!」
見上げれば、半分より少し小さくなった月に重なって、黒い影が一つ。いよいよ来たかと覚悟を決めて、俺は宙を駆けて森から抜け出した。
火山から下りてくる風が程なくして強くなり、全身の体毛が乱される。このまま一気にと思ったものの、どうしても下界を見ずにはいられなかった。
ユーリィを探し、風にざわめく黒い森へと視線を移す。残念なことだが、人間のものである左目にはなにも映らない。しかし上昇する毎に人と思しきいくつもの影が、森の先にあることを右目が捉えた。
驚くほどに、なにもかもがはっきり見える。弓を、鍬を、鎌を手にしている男たち、その中心にいるローブ姿の少年、彼の後ろに立つ盲目の少女、少女をかばう男。
――クソッ!! リュットのヤツ、いったいなにをやってるんだ!!
俺は子竜を守るためにこの世界にいるわけではない。本当に守らなければならない者を守れないのなら、意味がないではないか。
迫り来る竜を無視して、俺は降下を開始した。
すぐに背後に殺気を感じ、瞬時に左へと軌道を変える。
ほぼ同時に赤いなにかが右の脇腹を掠め落ちていった。
長い尾の先にある鉤爪が泳ぐように揺れている。二枚の翼を持つ赤き竜だ。
次の瞬間、その翼が大きく広がり落下を止める。それも束の間、二度三度羽ばたくと、地上の木々が突風に煽られ、大量の葉が辺りに散った。
舞い散る葉の中を、淡い月光を浴び、長い首を伸ばして赤い肢体が空へと昇っていく。やがて広がった翼が夜をなぞるように弧を描き、竜は反転した。
頭が下を向くと同時に、俺の方へ一気に突っ込んでくる。
その間わずか数十秒。
竜の前脚は四つ脚のものとは明らかに違い、手と言っても過言ではなく、その先にある四つの爪が鋭く伸びている。闇に光る赤い双眸、開いた口に四本の牙、そのどれもが俺を怯ませようと威嚇していた。
――残念だな! 俺はそんな雑魚じゃない!
迎撃など考えも及ばす、まして避けるなどあり得ない。真っ向勝負なら望むところだと、俺は躰を垂直にして駆け上がった。
敵の揚力は二枚の翼。一方俺は魔力にて、上下だろうが左右だろうが動くことができる。小回りが効くこちらに分があるのは、過去二回の高いで学んでいた。
やがて距離は半分に縮まった。厳つい顔にへばりつく鱗が見える。四本の牙の奥に赤い炎が渦巻いていて、ならばこちらもと灼熱の力を内から引き出した。
ほぼ同時に二つ熱線が夜を焼く。一つは煌々たる火炎、もう一つは赤黒い邪炎。それらが中央で触れと、刹那繋がり、しかし混じり合えない異質の焔は互いに反発して左右に分かれる。
敵は聖、俺は邪。
数万年前にこの世界が割れたと同じく、衝突した二つの力が空間を歪ませ、唸るような轟きが夜空に響いた。
それを嫌ってか、竜は軌道を変えて左へと旋回。俺は構わず突進したが、気流を捉えた翼竜が早すぎる。追いかけ回すことしばし、森近くまで下降した竜は、上昇気流に乗って見上げるほどの高さまで舞い上がった。
そこからふたたび下降しつつ炎を吐き、下から俺も駆け上がって焔を放つ。
同じことを三度繰り返した。ユーリィへと向かう隙などどこにもない。前回とは違い、敵は子竜ではなく明らかに俺に狙いを定めているのだ。
――いい加減、手間取らせるなっ!
短時間でケリがつくと思っていた。
前回と同じ轍を踏まず、急所である首の付け根だけを狙えば勝てる。実際、最後は俺の方が優位にあった。
だが、竜は一切俺を近づけようとはしない。
(最初の一撃で決めれば良かったのか……)
後悔先に立たず。
竜が旋回している一瞬に下を覗くと、ユーリィに対峙している者たちは呆けた顔でこちらを眺めている。ユーリィはというと、無表情のまま小首を傾げて俺を見ていた。
“カッコイイ姿見せるんじゃなかったっけ?”
そんな声が聞こえてきそうな面持ちだ。
(評価が厳しいご主人様だからな)
有言実行しなければならない。
それに、あの状況なら慌てて守る必要はないだろう。よしんば奴らが我に返ったとしても、今の彼なら風刃の一撃ですべてを終わらせられる。
俺は上空へと意識を戻した。
例の如く落下する竜の全身から、赤いオーラが噴き出している。ならばこちらもと、体毛のすべてを逆立て青白き光を夜空に放つ。
視界の端にある月は線のように細い。不思議なことにその月から、さらに細い光線が地上へと降りていた。むろんそれがなにを意味するか考える余裕などあるはずもなく。
次の瞬間、月が消えかけた夜を、赤い炎が切り裂いた。
(対抗しても結果は同じか!)
ならば迫り来る火炎の中へ、青の光を纏って自ら飛び込む。
炎なら負けるはずなど絶対にない!
しかし信じがたいことに、全身が焼き尽くされるほどに強烈な熱さを感じると同時に、炎に弾かれ躰ごと吹き飛ばされた。
この俺がっ?!
内なる魔物が驚愕した。
この身は炎から生まれ出たはずだ。
なぜだ?!
吹き飛ばされた躰が火山の頂へと激突し、その衝撃に意識がやや霞み、積もった灰土が、煙のように噴き上がって視界を潰す。
(ぐっ……)
だか竜の気配を五感に伝わり、やにわに立ち上がって宙へと逃れた。
直後、火の粉を散らす炎の渦が尾の先を掠め来る。
間一髪。
その破壊力は凄まじかった。爆音が轟き渡り、地響きとともに火口の一部が一瞬にして崩れゆく。火山そのものも揺すぶられ、真っ赤な溶岩が火柱のように噴き上がった。
幸い量は大したことはなく、火口からわずかに出ただけで、ふたたび底へと落ちていった。
昨日、小規模な噴火が起こったらしいことは、上る噴煙で気づいていた。しかし珍しいことではない。火口から溶岩湖まで距離があり、小さな噴火は日常茶飯事だとひと月の滞在でも十分分かる。
だがこの先も日常でいられるのか?
黒い煙を吐き出していられる崩れた火口を眺めて、俺は不安を覚えた。
ところが竜の方はそんな懸念など持ってはおらず、火口の横に滞空する俺に新たな火炎を噴射する。火山の状態などお構いなしだ。炎はまたも火口の縁を破壊した。
空を蹴って上昇しつつ、込み上げてきた怒りが抑えきれない。
――貴様は精獣なんだろ!!
人の声で怒鳴る代わりに、俺は激しく咆哮した。
奴は聖、俺は邪。
奴はこの世界を守る側で、俺は壊す側ではなかったのか? 島を、獣を、人を、エルフを、そしてなにより愛する者を守ろうと考えるのは、なぜ俺の方なんだ?!
その答えは見つからなかったが、別の答えが見つかった。
(そうか! 聖と邪か!)
竜の炎に弾かれたのはそのせいだ。聖なる力が増したに違いにない。
追撃から逃れて駆け上がれば、月があった場所には黒よりも黒い深淵。その周りには霞のようなものが取り囲む。まるで月が巨大な穴へと落ちたかのようだ。
が、それ以上考える余裕が俺には一切なかった。赤いオーラを纏う竜の勢いは、比べものにならないほど早く激しくなっている。晩夏の風をも味方に、空中を縦横無尽に飛び、聖なる炎と聖なる爪が何度も何度も執拗に襲ってくる。月が消えた今を狙って終わらせようとしているのだ。
上へ下へと翻弄させられ、カッコイイ姿を見せるどころではない。反撃しようにも聖炎によって遮られ、近づこうにも風が敵を連れ去った。
こっちは火山を気にして近づけず、森への延焼を恐れて容易に下降もできずにいるというのに。完全に動きを縛られている状態だ。
(月蝕ってのは、いったいどれほど続くんだ!)
今を耐え忍べれば、反撃の余地はある。
月光さえ戻ってくれれば……。
しかしそれすら徐々に自信を失ってきた。聖炎を避ければ、尾先の鉤爪に狙われる。それをかわして炎を吐くも、下降されて追い打ちの炎を食らう。回り込んで弱点である首の付け根を狙おうにも、風が標的を連れ去って追いつけない。火山と森の方向に聖炎がいけば、邪炎でそれを防ぐ。このまま島の上空に時空のゆがみを作り続けるのは非常にマズい。ならばと海上へと誘おうにも、敵の素早くすぎ、何度も炎の直撃を食らって吹き飛ばされた。
山に激突するたびに、木々をなぎ倒し地表へ叩きつけられるたびに、体力が激しく消耗した。無駄に吐いた炎も、体内の魔力を削っていく。全身あらゆる箇所に傷ができ、体液が滴り、風に飛ばされた。
(こうなったら、山も森も気にせず戦ってやる)
そうは思ったものの、ジュゼたちにもしものことがあれば、悲しみに暮れるユーリィの顔がちらついて決行できない。反撃する体力もあまり残ってはいなかった。
“まったく、見てらんないねぇ”
突如、耳の奥に聞こえてきた呆れ声。
それがジュゼのものだと分かったのは、鉤爪の先が背中を掠めた時だ。言葉の意味など考える隙もなく上昇して逃げる。追ってきた聖炎を避けたが、その炎よりも早い速度で移動した竜が、俺の目前に迫っていた。
“月光は集めておいたよ”
月光!?
疑問符を脳裏に浮かべた刹那、森から上がる光玉が右前方に見えた。
真っ直ぐに上へ。
やがて薄い雲の流れる上空まで昇ると、ピタリ留まる。
星彩だけになっていた夜を、まるで消えた月のように仄かに確実に、薄い赤が彩った。
――――グァアアッ!!
珍しく竜が哭く。
その肢体からは赤いオーラがすっかり消えていた。
“この声が届いているかは知らないけど、あとは自力でなんとかしな”
言われるまでもなく。
すると、今まで吹いていた風がなぜかぴたりと収まった。
気流を失った竜の翼が激しく動く。
(今か!)
竜をめがけて宙を後ろ脚で蹴った。
聖炎が襲ってきたが、勢いも太さも先ほどとは比べものにならないほど弱い。一か八かで飛び込むも弾かれることなく火炎が裂けていく。こちらの瘴が勝ったのだ。
(やれる!)
確信を得て、炎を辿って竜の懐に突っ込んだ。狙いは首の付け根。急所であるそこに一息で噛みつく。さすがに鱗に覆われた装甲は厚かったが、二本の牙は猛然と食い込んでいった。
――――グァアアアアアアッ!!
竜の悲鳴がにわかに広がるが、まだ断末魔ではなかった。
俺を引き剥がそうと両手の爪が、脇腹に刺さって激痛が走るが、それすらも俺には心地よい刺激となっていた。
やがて抵抗を止めた竜を咥えたまま夜空を飛ぶ。なんにせよ島を傷つけすぎた。
あちこち痛いが気分だけは上々、まるで戦利品を咥えた犬のように。
どうだ、見たか!
ユーリィに向けて、咆哮一つ。少々調子に乗りすぎていたのは事実だ。だから島から海へ差し掛かる頃、突如暴れ始めた竜に少々焦った。
八つの爪が深く食い込んでくる。動きを止めていた両翼がふたたび動き出し、さらに尾がのたうち回り、すっかり存在を忘れていた鉤爪で俺を狙い始めた。
さすがにこれは無理だと急所を噛みちぎる。
すかさず敵は反撃を中止して、俺から放れていった。
“ならば! 最後に見届けようぞ、この地にいる光あるモノが真であるか!”
竜は鱗の破片を胸にだらりと下げたまま、未だ鋭く光る双眸を島の東へと向ける。
夜空では月が、徐々にその姿を取り戻し始めていた。