第163話 落ちゆく破片
神々を象った彫刻が施された二枚の扉が開け放たれた時、円卓に座っていた者たちは一様に振り返った。すり鉢状の観客席には誰も座ってはいない。
皇帝ユリアーナは大勢の兵士を引き連れて、円形の舞台へと突き進んでいく。立腹しているという気配は、靡くマントに表れていた。
「これはどういうことだ!!」
宮殿の別館に、皇帝ユリアーナの怒鳴り声が響き渡った。
二百年前に王族専用の劇場として建てられ、最近まで歌劇などが催され、今は貴族院のための円卓が置かれているこの建物は、音響効果が抜群にある。それが故に威嚇するような皇帝の迫力はいつもより増していた。ほとんどの者は、まるで台本には登場しないはずの役者が現れたかのように、狼狽した表情を浮かべる。
しかし、そんな皇帝を真正面から睨む者がいた。
ぶつかり合う視線は、互いを射るほどに鋭い。
それなのに、悲しみに似た陰りがどちらにもある。過去に想いを馳せているのだろうか。そんな二人の様子は、俺にとって都合が良いはずなのに、魔物でない部分にじんわりとした痛みを感じていた。
それより半日ほど前。
ユーリィから部屋を閉め出され、屋根で一晩ふて寝をした俺は、朝日に叩き起こされた。
魔物にしても人間にしても、実に情けない。
(やっぱり今日はなにを言われても、傍にいてやろう)
人の姿になって屋根裏部屋へ戻り、さらに繋がる細い階段を降り始めると、階下には人がいた。偶然でないと分かるのは、降りていく俺の顔をまっすぐに見上げているから。
早朝にも関わらず綺麗に髪を結い上げたその人物は、薄青いドレスの胸元で両手を組んで、俺が降りてくるのを待っていた。
やがてそばまで行くと、グッと顎を引いて口を開く。
「私、闘うことに決めました」
昨夜とは打って変わって晴れやかな表情で、彼女 ――エルネスタがそう言った時、俺は思わずその細腕を眺めてしまった。
「あら、私、今までもこれからも、剣など持つつもりはありませんわ」
「なら……」
「もちろん私のやり方で。その結果もし私が排除されるなら、この国も彼も終わりです」
言うだけ言って満足したのか、彼女は足早に立ち去ってしまった。
いったい彼女がなにをするつもりなのか、その時の俺にはむろん分からなかった。しかしユーリィに良くないことが起こる予感だけはした。
まさかと思いつつも、その足で皇帝の私室を尋ねてみる。だが控えの間から出てきたコレットに会うことを阻まれた。
「皇帝陛下はまだお休みになられています。お目覚めになるまで起こさないよう、議長から言いつかりました」
「まさか、また変な薬を盛ってるんじゃないだろうな?」
「昨夜は遅くまでお仕事をなされていたので、陛下の体力を考えてのことです」
「だったら起きてくるまで、リビングで待つ。それならいいだろ?」
曖昧な返事は承諾と解釈して、中央にあるソファに腰を据えた。昨夜はすべて付けられていた照明は全て消されている。それでも緋色のカーテンの隙間から差し込む朝日の方が、室内を明るくしていた。
(夜じゃなくて、朝やればいいのに)
ユーリィが宵っ張りだったという記憶はない。どちらかと言えば早寝早起きの質で、何度か早朝に叩き起こされた。
たったそれだけのことなのに、“闇”に囚われているという言葉を彷彿させ、組んでいる足を揺するほどに俺を不安にさせた。
(闇というのは言葉の文だ。実際の暗闇じゃない……はず……)
そうこうしているうちに、ディンケル将軍がやってきた。俺と違ってコレットに阻まれた様子もなく、室内に入ってきて俺の姿を見てギョッとした表情を浮かべた。だがなにか言うわけでもなく、横目でこちらを睨んだだけで、あとは落ち着きがなく室内をウロウロ歩き回っていた。
息苦しい沈黙の時間が流れ、ようやく寝室に通じる扉が開かれた。朝食を摂るにはちょっと遅いという時間だ。
「なにごと!?」
真っ白な就寝具に裸足という格好で、俺たちを見た皇帝は、大きな瞳をさらに丸くして驚きを表した。
「俺は特になにも――」
「陛下にお伺いしたいことがありまして、参りました」
俺の言葉を遮ったディンケルの口調は、どこか緊迫したものがある。ユーリィもそれを感じ取ったようで、眉をひそめて“なに?”というように首を傾げた。
「貴族院会議が開かれているようですが、ご存知でしょうか?」
「いや、知らない。だって貴族院議長のミューンビラーは……」
「リマンスキー子爵令嬢が今朝早く、ソフィニアにいる貴族たちを徴集したようです」
「ちょっと待って。着替えてくる」
眉間に皺を寄せたままユーリィは寝室に一度戻ると、黒い上着と揃いのズボン、さらに黒いマントを着けて戻ってきた。
なぜその色を選択したのか聞きたいのを我慢して、俺は二人のやりとりを聞いていた。
「エルネスタ嬢の他には?」
「サガンティー男爵やスミッツ子爵など収監には至らなかった十数人と、それから――」
「それから、だれ?」
言いにくそうに口を噤んだディンケルを、ユーリィは急かすように促した。
「オーライン伯爵です」
「――!?」
ユーリィが動揺したのは明らかだった。俺自身も少し驚いて、二人を見比べていた。
長年の付き合いではあるが、アルベルトがなにを考えているか分かったためしがない。だから彼の名前が挙がって納得するかと言えば、それとこれとは別な話だ。
「とにかく行ってみる」
ちょうどその時、朝食を持ってチョビ髭が入ってきた。手にしたトレイの上には、湯気を上げているスープ皿が乗っていた。
「あ、あの、皇帝陛下。ご朝食を……」
「あとでいいよ」
そう言って皿の中を覗き込んだユーリィの顔は、ますます険しくなった。その理由が山羊のミルクであると俺が知ったのは、チョビ髭の横を通り過ぎた時だった。
そして訪れたのが、円卓場と今は呼ばれている劇場だ。
対峙した二人の若者はしばらく黙ったまま睨み合っていて、それは過去に一度だけ見た様子とそっくりだった。俺はハラハラした気分で皇帝の背後からそんな様子を眺め、他の者たちも固唾を呑んで二人を見守っていた。
そしてついに、皇帝が先に口を開いた。
「いったいだれの許可を得て、ここに集まっている?」
「変事の時には、貴族院は緊急で開かれて良いと新法で決められたはずです」
「変事? そんなことがあった?」
「貴族院議長ミューンビラー侯爵が収監されている現在、仮議長が必要です」
「それは僕が……」
「議長選出は、貴族院会員がすることになっています」
聡明な彼女らしく、エルネスタは淀みのない口調で次々と反論した。それに対してユーリィはいつもの明瞭さがほとんどなかった。
「それともう一つ。今後、貴方にどのように付き従うか話し合う所存です」
「僕に刃向かうってことか?」
「そんなこと、申し上げていませんわ」
「なら――」
「それについては、私の方から申し上げましょう」
そう言って立ち上がったのは、エルネスタの向かいに座っているオーライン伯爵だった。
「情報によりますと、バタレーク子爵内にて死亡していた者たちは、表玄関の方へ足を向けているか、背後から刺されたような傷があったとのことでした」
「つまり?」
「つまりこの事実から推察すると、彼らは内から出ていく者ではなく、外から入ってきた者に殺害されたことになります。だとするならば、逃げ出す貴方を邪魔したという殺害理由には符合しないことになってしまいます。もし仮に外から入ってきた時に殺されたのなら、一つ目は人質である皇帝を連れたバタレーク子爵自らが、従者達を手に掛けた。二つ目は人質である貴方が子爵の目の前で殺害した。三つ目は一度外に出た貴方がふたたび屋敷に戻って殺害した。四つ目は第三者が貴方を救うためか、もしくは別の理由で殺害した」
「倒れていた姿なんて、ただの偶然だろ」
「もちろんその可能性もありますね。ですが我々も身を守るためにどうしたら良いか、考える必要がありますから」
「僕が嘘をついているって言いたいんだな?」
「真実ではないという可能性です」
「どっちでも一緒だ」
「でしたらはっきり申し上げましょう。本当のことをおっしゃっていただけますか?」
普段薄笑いを浮かべているような男の真顔ほど、凄みを感じさせるものはない。しかも彼はかなり核心を突いていた。
さすがにユーリィは動揺を表には出さなかっただろうが、俺にはその肩がわずかに震えたように思えた。
「どんな可能性があろうとも、バタレークが僕を捕まえたことに違いはない。いいさ、好きなだけ話し合えよ。どうせお前ら全員、僕を卑しい血だと見下したいだけなんだろ?」
「そ、そんなこと……」
「全員、親が死のうが妻が死のうが、領地にも帰ることを禁止する。リマンスキー令嬢、君は宮殿の部屋から一歩も出てはならない。もし命令に背いたら地下牢に収監するから。オーライン伯爵は、弟フィリップを返してもらおう。早いうちにオーライン領を継受させる。彼が正式な伯爵家の継承者だ。前任者であるお前は、あの女とともにどこにでも好きなところへ消えろ。兄がいるパラディスだろうとどこだろうと、邪魔はしない」
乱暴に吐き捨てると、ユーリィは踵を返して彼らに背を向けた。青い瞳はどこかくすんでいて、俺を見ることなく通り過ぎていった。
エルネスタたちの方に目をやると、彼女は悲しげに、アルベルトは逆に険しい表情で皇帝の背中を眺めていた。
その日の午後、ユーリィはジョルバンニを呼びつけて、今後の予定について様々な指令を出していた。軍の拡大のために徴兵制を布くこと、収監している貴族たちの領地を早急に没収すること、ベレーネクの遺児のうち長子を牢獄に入れ、残り二人は外国にいる親族へ預けること、ククリの捕虜のうち男は全て処刑し、女はフェンロンへ奴隷として送ること、国家と皇帝に逆らう者は全て処刑することなど。もちろんエルネスタたちに言ったこともそこに含まれていた。
「すいぶん急なご命令ですな……」
今までとは百八十度違う皇帝の方針に、さすがのジョルバンニも少々ためらいを見せた。
「なにを言ってる。お前はそれを望んでいたんだろ?」
「もちろん反対はいたしませんよ。ただし多くの反発があることはご覚悟下さい」
「どうせ僕がなにを決めても、だれかが反対するし文句を言うし見下すだろうさ。だったら恐怖で支配するのが一番楽でいい」
そう言ったユーリィの様子を見て、俺はひたすら悩んでいた。
別に彼の政策に反対するつもりはない。けれど、まとわりつくような影が全身から溢れているようで、まるで別人を見ているような気分になる。棘はあるけれど純真さこそが、彼本来の姿ではなかっただろうか。俺はそんな彼に惚れたのではないだろうかと。
その翌日はさらにユーリィにとって良くないことがいくつかあった。
まずはリマンスキー子爵令嬢を軟禁したことが、驚くほどの早さでソフィニア中に知れ渡った。俺は知らなかったが、ディンケルによれば彼女は皇帝と二分するほどに人気があり、ゆくゆくは皇后になるだろうと噂されていたらしい。宮殿に使える従者や召使いの中には、彼女の行く末を心配して泣き崩れる者が大勢いたらしい。
さらに悪いことに、皇帝に関しての噂が広まっていった。
皇帝陛下は男色家で、宮殿内には皇帝の愛人が大勢いるらしい。
一緒にいる人間の姿をした男もその一人だろう。
あの眉目もあり、噂は瞬く間に広がって、たった一日で街の隅々まで知れ渡ったとディンケルが厳しい表情で報告に来た。
「なので、グラハンス殿にはしばらく宮殿を離れてしていただきたい」
「嫌だね。そんな噂は放っておけばいい」
「しかし、マヌハンヌス教徒として……」
「僕は、神なんて一度も信じたことがないから。もしそんなのが本当にいるなら、全部一人で素晴らしい世界を作って欲しいね」
「皇帝陛下、そのようなことは今後いっさい口になされないで下さい!」
さすがにユーリィの暴言を放置することが出来ないようで、ディンケルは慌てて苦言を呈した。幸い室内には皇帝とディンケルと俺しかいなかったが、もし兵士らがいる前でそんなことを言ってしまったら、悪評はさらに高まってしまったことだろう。
午後になると、今度はブルー将軍が凄まじい剣幕でやってきた。
「皇帝陛下にお伺いしたいことがあります!」
挨拶もそこそこに、そう言ったブルーの口調はらしからぬ棘があった。
「なに?」
「ジェイド・スティールという者を地下牢に閉じ込めているそうですが、彼は貴方のご友人ではないのですか?」
「友人だったこともある、今は違うけど」
「しかし話によれば、彼は陛下のためにミューンビラーの殺害を企てたとか」
「別に僕が頼んだわけじゃなく、彼が勝手にやったことだ」
「だったら、アーニャの殺害を謀ったのも、貴方のご指示ではないとおっしゃるのですね?」
「アーニャというのは、謀反を起こしたラシアールの仲間だろ」
「彼女はそんなこと、企んでなかった!!」
部屋の外まで聞こえるようなブルーの怒鳴り声に、さすがのユーリィも驚いたように目を丸くした。しかしそれも一瞬のこと。すぐに冷たい表情になって、ブルーを睨み返す。
「企んでいなかった弁明は聞いてないんだから、そう疑うのはしかたがない」
「本人がまだ意識を回復していないんだから、しかたがないでしょう。しかもジェイドは、彼女を刺した奴と一緒にいたという証言もありました」
「その件はもう解決済みだ」
「ええ、俺の知らない間にね。だからさっき、ちゃんと確かめようと彼に会いに行きました。彼が言うには刺したのは自分ではないし、刺した相手も知らないとのこと」
「だろうね」
「けれど、犯人の容姿を説明させた時、俺にはピンとくる者がありました。陛下、あの男はどこにやりましたか?」
「あの男?」
「フォーエンベルガーから連れてきた男ですよ。しばらく見ないようですが?」
「さあ、知らないね」
そっぽを向いて返事をいた様子は、ユーリィをよく知っている者なら気づくだろう。
嘘をついていると。
元来嘘がつけない質だ。親しくなればそのことはすぐに気づいてしまう。ブルーもまた、ユーリィの正確をよく知っていた。
「なるほど、分かりました」
「分かったってなにが?」
「あいつの言っていたことは、真実だったかもしれないということです。貴方はラシアールを排除して、人間だけの世界を希望しているのだと死んだ友は言っていましたよ」
「人間だろうと、エルフだろうと、僕に逆らう者は排除するだけだ」
「少なくてもアーニャはそんな考えはなかったはずです」
「彼女が刺されたことは、僕の与り知るところではない。それだけは言っておく。それを信じるかどうかはお前の自由だ」
「そうですか。ではじっくり考えさせていただきます!」
激しい音を立てて閉められた扉を見つめるユーリィは、こちらが辛くなるほど悲しげだった。その肩がゆっくり下がっていく様子を見て、俺はとうとう我慢ができなくなり、ソファに座る彼の隣へと腰を下ろした。
「結局、だれも信用できないし、信用しちゃいけないんだ……」
「ユーリィ?」
「僕はただ、僕が好きな人たちがもう傷つかないようにしたくて、だから早くこの国を治められる者になりたいだけなのに。僕を陥れようとしている連中を排除してなにが悪い? ミューンビラーは僕に逆らいたくてうずうずしてたじゃないか。エルナの義兄は、僕を裸にして鞭を打った連中の仲間なんだぞ。僕が復讐心を持つのは当然だ。ハーンしたって僕のためにあんなことをしでかしたんだ。だから勝手にやったことだと、悪人に仕立てるなんて僕にはできない。そうだろ?」
同意を求めて見上げたユーリィに、俺は頷くことも首を振ることもできなかった。
でも全ては君らしくないやり方だと思っていたけれど、同時に彼が過去にどれほど傷ついたかも分かっていたから。
「それとも、ヴォルフも僕が間違っているって言いたいのか?」
「俺には良いか悪いか言うことはできない。けど君はじっくり考えるべきだとは思う」
すると突如ユーリィは俺に抱きついてきて、唇を強引に重ね合わせた。
それは劣情とはほど遠い、乱暴なキスだ。まるですがるかのように、彼は俺を必死に求め続けた。
やがて顔を離した時、彼の表情は見たことがないほどに悲壮感に満ちていた。
「未熟だってこと、僕だって分かってる……。でもどうしたらいいか分からないんだ」
「君らしくあればいいと、俺は思う」
「僕らしくって、どんなんだよ?」
ないを言うべきか迷っていると、おもむろに聞き覚えがある声が漂ってきた。
『取り込み中、すまぬのぉ……』
本当にすまなそうな声だったせいか、ユーリィもいつものような反応をしなかった。代わりに俺から体を離し、なにもかもが夕闇に染まる室内を見回す。
窓際にボロをまとった老人が、ゆらゆらと揺れながら立っていた。
「リュット、なんのよう?」
表情は険しいままだ。
きっと地の精霊にも裏切られると思っているのだと俺は想像した。
『今宵、日が変わったら親竜が来る。なのでゲオニクスには島へ戻ってもらいたいのじゃ』
「そう、分かった……」
一瞬だけ表情を曇らせたものの、俺の方を見た時にはユーリィの顔からその暗さは払拭されていた。
「ヴォルフ、早く行ってやって。ジュゼもハイヤーもきっと待ってる」
「いいのか?」
「僕だって大切な者たちを傷つけたいわけじゃないんだ、だれも信じないだろうけど」
泣き言を言いつつも、負けまいとしているそんな姿が俺の胸を打つ。
だからふと思いついて、彼の手を握りしめた。
「ユーリィ、一緒に行こう」
「僕が……? いや、ダメだよ」
「親竜をきっちり仕留めて、明日の昼には君をここに連れてくる。約束する」
「でも……」
「俺を信じろ、ユーリィ」
数分後、狼魔に戻った俺は、窓を突き破って空へと飛び出した。
月明かりを反射して、ガラス片が落ちていく。その下には右往左往している兵士たちの姿が見えた。
「このまま、二人でどこか遠くに行きたいね……」
背中に乗ったユーリィの声が、風音とともに聞こえてきた。
きっとそうしたいと心から思っていることだろう。
けれど、彼はそうしないだろうと俺には分かっていた。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。