第162話 静夜
一通りの報告を済ませると、軍服の男はどこか落ち着かない様子で身動ぎをした。それを薄らとした視界に入れつつも、セグラスはわざとらしく机の書類へと視線を落とした。
「ええと……議長……あの……」
男の困り果てた声が聞こえてくる。
「ああ、そうだったな」
忘れていたように装い、無造作にポケットへと手を入れ、指先で金貨を一枚つまみ出すと、セグラスは男の足元へと放り投げた。
転がっていくコインをあたふたと追いかける男の姿が、なんとも小気味良い。それを見るために毎回同じようなことを繰り返す。あまり褒められた趣味でもないのは知っていた。
しかしこの儀式には別な意味もある。この程度のことで不満を表すような者など用はないのだ。欲しいのはどんな状況でも己を消せる犬だった。
「良かろう。次は十日後だ」
「はい」
何事もなかったかのように出ていった男を見送ると、握っていたペンはペン立てに戻し、書類は引き出しにしまって、鍵をかけた。
ランプが一つだけ灯っている室内を見回す。むろんなにかが見えるわけではないことはセグラス自身も分かっていた。窓がある方に視線を移しても、そこには真っ暗は闇があるだけだ。
ここ最近の視力低下は酷かった。それでも今夜は調子が良い方で、それほど苦労せずともサインができた。
この世界をいつまで見ていられるのだろうかとふと思えば、もの悲しさがないわけではない。だが諦めという境地に達して、すでに数年は経過していた。
(ニコが思ったほど使い出がなかったのは残念だ。バレク家への貸付金を精査して、近々回収をしておこう)
欲しかったのは従順な犬であり、主人のふりをして働く犬ではない。所詮、似非者は似非者にしか過ぎなかった。
だが満足することはいくつかあある。
早い段階でギルドの制裁と弾圧を済ませたおかげで、今は逆らう者が皆無になった。いずれ面白い者が現れるかもしれないが、その時は全力で叩き潰してやろう。出来ることなら自分にまだ戦力があるうちに出てきて欲しいものだ。
そんなことを考えながら、セグラスは銀製のペン立てに刻まれたギルドの紋章である車輪を、指の腹で撫でつけた。
(まあいい。いずれ潰しても構わない組織だ)
椅子の背に掛けてあったコートを掴むと、手探りで立ち上がり、足元に気をつけならがドアへと歩いた。ほんの少し前までは、大量の明かりがあれば見えると考えた。だがランプが一つでも二つでもさほど変わらない現実を知ってからは、一つだけと決めた。自分が見えないのなら、相手も見えなくすればいい。発想の転換によるリスク回避が、セグラスに残った防具なのだ。
ドアを開けた外には、衛兵が一人立っている。顔がないと思うほど表情がない男で、セグラスに仕えて数年が経っていた。
顔のない犬は、まさに理想的な従者だ。
(あの男もこうなるかと期待したが、堕ちるのがずいぶん早かった)
皇帝自らが刺し殺したらしい。その報告は、セグラスを十分に満足させた。
美しき闘鳥となる日が、また一歩近づいているのは良い傾向だ。
フォーエンベルガーにはどう報告するか少し考えたが、皇帝と相談する必要があると思い直して、あっさり思考を放棄した。
廊下に出て数歩行くと、暗がりから女が突如現れた。恐らくそこにずっと立っていたのだろう。狭くなったセグラスの視野に入っていなかった。
今後は護衛を付ける必要があるなと考えつつ、女の横で立ち止まる。枝のように細い女は、膝を軽く折り曲げて挨拶をした。
「皇帝陛下が就寝なされたことをご報告にあがりました」
「この時間ということは、明日は予定の時間を少々ずらす必要がありそうだ。お目覚めになるまでは起こさないように」
「はい」
「それからご朝食には山羊のミルクのスープを用意しなさい。お嫌いのようだが、滋養をお摂りになっていただかねば」
あの薬草の一件以来、食べ物に関して皇帝の警戒心が強くなってしまった。別に毒殺しようという意図はなく、ギルドを一掃するまで大人しくしてもらおうという魂胆だったが、短慮であったことはセグラス自身も認めるところである。おかげで毎日体に良さそうな物を考える羽目になってしまった。
もっとも闘鳥をしていた頃も、餌の管理はきちんとしていた。貧相な鳥ほどセグラスを嫌悪させるものはない。美しい羽艶を保つのも、闘鳥では重要な課題だった。
「他になにか?」
「ご就寝前に、例の化身とリマンスキー家のご令嬢がいらっしゃっていたようです」
「その件ならすでに報告は受けた」
「そうでしたか。でしたらご令嬢が……」
「分かっている。だがお前が気にするには及ばない。また明日、報告に来なさい」
「分かりました」
静かに立ち去っていく女を見送り、セグラスは真っ暗な廊下を一人歩き出した。
見えているふりをして歩くのは、なかなか苦労する。数日前はほとんどなにも見えなくなり、いよいよその時が来たと覚悟したが、一日休んだお陰で回復はしてくれた。今後はあまり無理ができないだろう。
急がねばという焦りが胸に込み上げる。
完璧な覇者が治める、理想的な世界。その覇者が自分の作り上げた闘鳥になることを思えば、暗黒が待ち受ける未来などどうということはない。
(皇帝がミューンビラーを一掃したのは、手間が省けて良かった。あとはラシアールだが。いっそ闘わせるか……)
皇帝にはそれに耐えられる力と精神力がもう備わっている。ならばもう少し試練を与えるのも悪くはない。羽根を切ってもなお舞い上がる力を持つ鳥だけが、勝利できる闘鳥のように。
そのことを考えるとわずかに気分が高揚し、セグラスは闇の中でほくそ笑んだ。
宮殿の前にはすでに馬車と表情のない御者が待機をしていた。やや古ぼけたそれに乗り込んで腰を落ち着かせると、ゆっくり馬が走り出す。すると、まるで見計らったかのように大聖堂の鐘が、静かな夜に鳴り響いた。
日が変わったようだ。窓の外に目を転じれば、暗い前庭を憲兵や衛兵が警らしていた。セグラスの馬車に一人が敬礼をしたようだが、たとえ舌を出されていても見えないだろう。
やがて滑らかに開いた正門を出ると、道のあちこちに浮浪児らしき子供が屯していた。この辺りは貴族の馬車が行き来するので、物乞いをする機会を狙っているのは毎晩のことだ。今夜もセグラスの馬車を見つけると、角を曲がる手前で数人が寄ってきて両手を差し伸べた。
走行を妨げられ、それを追い払おうと御者が鞭を振り回す。ほとんどが逃げていったが、まだ二人ほど食い下がっていた。
ふと思い立ち、セグラスは窓をわずかに開けて、ポケットにある金貨を一枚、外へと放り投げた。
コインが堕ちた音に気づいた子供はそれを追いかける。一人は車体にぶつかったようで、鈍い音が車内に響く。たぶんもう一人が拾っただろうが果たしてどうなったか。そのすべてを見るだけの視力は、今のセグラスには残されていなかった。
だがあの浮浪児の上前を跳ねる大人たちがいることを知っている。もしかすると明日の朝、子供の死体が二つ転がっているかもしれない。
しかしどうなろうと知ったことではない。こうした気まぐれで、人の運命が変わることを想像するだけで楽しかった。
屋敷に到着すると、年老いた執事が扉を開けた。その足元には瞳を光らせ白い猫が座っている。以前気まぐれに拾った猫だが、一度たりとも餌を与えたことはなかった。出入りは自由にさせているので、ネズミか小鳥を捕まえ生きているのだろう。それでもこの家に居座って、我が物顔で徘徊する。そんなプライドの高さが、セグラスは気に入っていた。
手を伸ばして、頭を軽く撫でてやる。もちろん喉など鳴らさない。微かに鼻をこすりつけ、猫は闇の中へと消えていった。
「お帰りなさいませ。ご夕食はどうなさいますか?」
セグラスのコートを受取ながら、執事がそう言う。
「今夜は軽くでいい」
「かしこまりました」
執事の横に目をやると、華奢な少女が戸惑い気味に立っている。彼女も拾い物だが、猫ほどにはプライドもなかった。
「髪を切ったのだな?」
「はい、お言いつけ通りに……」
首筋が見えるほど短くなった金の髪に手をやり、恥ずかしげに少女は言った。
「ならば、今夜は私の閨に来なさい」
「はい……」
その青い瞳にはどんな表情なのか見えないのが残念に思えて、一歩近づき少女を見下ろす。案の定、媚びた色が浮かんでいた。
生きるために体を売ったこの少女の名前すら、セグラスには興味がなかった。
容姿が似ているというだけの拾い物。ある者を想像して陵辱する存在。
その程度の価値だ。
「今夜はやけに静かだな」
「きっと風が止んでいるせいでしょう」
だがいずれ強風は吹き荒れるだろう。
それが待ち遠しく思えるほどに、静かな闇は息苦しい。
(美しく、より高く、舞っていただかねばな……)
慣れ親しんだ屋敷の闇に目を向けて、セグラスは足音を殺し歩き出した。