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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第七章 夜露
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第160話 圧政への臨界線

 暗闇に二つの瞳。

 片方は暗く、片方は明るく。

 今すぐに駆け寄って、抱きしめたいとユーリィは心から思った。

 けれど、犯した罪に足がすくむ。

 彼を間違いなく裏切った。傷つき、倒れ、あんな姿になっても傍らにいる者を。あのおぞましい行為を知られれば、きっと見捨てられる。どんな言い訳をしても、許されないことを知っているからこそ怖い。

 だから一歩も近づけず、ユーリィは闇に沈んで立ち尽くしていた。

 指でつまむほど短くなったロウソクの、黄色い炎が儚げに揺れる。足元にはなにかが壊れた破片が散乱している。そのどれもがまるで自分の心のようだ。


 長いためらいのあと、ユーリィはようやくその一歩を踏み出した。

 どこからか水が溢れているのか足元は水浸しだ。石や金属片は絶えず行く手を阻む。背丈ほどの石があって、一度迂回しなければならなかった。


(ポンプか、水撃式の。たしかこの辺りに上水を汲み上げていた物があったはず)


 数日前に、ソフィニアにおける治水設備についての書類を読んでいたので、王宮時代の遺物については知っていた。それをタナトスは破裂させたのだ。フェンリルを倒すために。

 やがて大狼の輪郭が見えてきた。四肢を折り曲げうずくまっているらしい。


(きっと動けないんだ……)


 どれほど傷ついているのだろう。彼が耐えている間、自分はなにをしていたか思い返せば、ふたたび罪の意識がぶり返す。死ぬまでずっと繰り返すだろうその呵責は、考える以上に重かった。

 もう互いのすべてが見えるほど近づいた。

 すぐ前にある狼魔の鼻先に手を伸ばしかけ、手の甲にこびりつく血に気づいて引っ込める。不義の証はまだ残ったままだった。


――どうした?


 頭の中に染みこんできた声は、辛くなるほど優しかった。


「怪我が心配で……」


――心配ない。傷口はふさがった。


「そう……」


 触ることをためらった鼻先で右頬を撫でられると、なにもかも見透かされそうで、ユーリィは体をこわばらせた。


――血の臭いする。まさか怪我をしたのか?


「してないよ」


――あの男はどうした?


 その質問にますます体が硬くなり、顔を背けてぽつり呟く。


「死んだよ。僕が殺した」


――君が!?


「うん……」


 あれは自殺だった。けれどそう仕向けたのは自分なのだ。


――君はミューンビラーのパーティに出席していたはずだが……。ジェイドのことは知っているか? 彼は侯爵の命を狙っているらしい。


「知っているよ」


 ここに来る前に、縛られて井戸の中に放置されていたエルナを発見した。恐怖に怯えて青くなっていた彼女だったが、しっかりとした口調でなにがあったのかを説明してくれた。

 その気丈さを感心すると同時に、タナトスが彼女を殺さなかったことをユーリィは疑問に思った。


『たぶん殺すつもりだったと思う』


 縛っていた縄をほどくと、彼女は首元を飾るドレスと同じ浅黄色のレースチョーカーをずらして、小さな傷を見せてくれた。


『“なにもしていない私を殺すのは皇帝陛下のためじゃなくて、貴方のエゴだ”って言ったの。そうしたらあの人、行ってしまったわ』


 たったそれだけで諦めてしまったタナトスを愛おしく思う。本人が気づかなかっただけで、彼はずっと誠実だった。リカルドの思いつきで始まった賭けに利用され、ソフィニアに来ることになっただけなのに、護衛という役目を投げ出すこともなく。最初から執着されていたとは思えない。きっと本質は生真面目で、そして誠実な男だったのだ。


――ユーリィ?


「僕はやり方を変える。今まで以上に強く、締め付ける方法で。僕に従わない人間は容赦しないし、どんな理由があろうと切り捨てる。地位だけではなく命をいう意味も含めて」


 立場を重んじてタナトスに死を選ばせたのだから、もう先に行くしかないのだ。


――君がそう決めたなら、なにも言うことはない。


「ジェイドのことは、もう手遅れかもしれない。でも覚悟して行っただろうから、同情はしない。とにかく侯爵邸へ戻ろうとは思っているけど」


 言っているそばから胸がチクチクと痛む。それを感じたのか、もう一度頬を撫でようとする鼻を、ユーリィは汚れた手で押し戻した。

 抱きしめたい抱きしめたいと心が泣く。

 でも今そんなことをしてはいけないと諦めた。

 それなのに真実を知らない狼魔は、なおも優しく語りかけてくる。


――なら一緒に行こう。


「いいよ、お前は怪我しているから」


――大丈夫だ、もう動ける。


 狼魔はゆっくりと立ち上がり、確かめるようにその場でなんどか四肢を動かした。


――早く背中に乗ってくれ。


「分かった……」


 狼魔の後方へと周り、消えかけたロウソクを投げ捨てると、手探りで伏せた背中に這い上がった。

 なにかあったとしても、今フェンリルと一緒に行くのは効果的だろう。しばらくは恐怖で支配するのも悪くはない。邪魔なミューンビラーは始末するしかないだろうか。ジェイドがもし殺害を実行していたなら、侯爵に対していくつかの罪状を用意する必要がある。バルタークが単独であったとしても、その証拠はいっさいない。ならば過去に酷い仕打ちをした連中を全員まとめて地獄へと……。

 ふと我に返り、ユーリィは動き出した狼魔の体毛を強く握りしめた。


「お前に頼みがある。もし、僕が存在してはいけない者だと思ったら、すぐに殺せ。お前だけがその権利を持っている」


 滑るようにして狼魔は真っ暗なトンネルを駆け抜けた。視界にはなにも映らない。時折腐った水の匂いがした。コウモリなのかネズミなのか、小さな生き物の気配もする。だから世界がとてもちっぽけで、くだらないものに思えてきた。

 そんな世界をしばらく行き、やがて狼魔の体が斜めになった。


――しっかり掴まれ! 落ちるなよ!


 ユーリィが言われたとおりにしがみつくと、フェンリルはほぼ直角になった。手だけでは支えきれなくなってずり落ちていく体を、足で食い止める。刹那、水の匂いが消えて、代わりに風の香りがした。

 狼魔の背中がふたたび水平になった時、ユーリィは世界を見るために目を見開いた。

 真下には丘があり、その先に宮殿が見え、彼方に丸い月が見える。ここは僕の場所だと実感した。


「フェンリル、あの一番大きな館が侯爵邸だ!」


 そう叫ぶと、狼魔は指さした方に向きを変え、怪我をしていることすら感じさせないほど勇壮に空を駆けていく。


――俺は何度でも君とこうして空を飛びたい。


 しかしその信じ切っている言葉が辛すぎて、小さな呟きでしか返事ができなかった。


「ヴォルフ、ごめん」



 ミューンビラーの邸宅にはすぐにたどり着いた。鉄格子の門の前には、数十人の衛兵たちがたむろして、その先頭にはディンケルらしき男がいた。彼は馬に乗ったまま、門の向こうにいる衛兵らしき男たちとなにか話をしているようだった。

 フェンリルに指示を出して、そんな彼らの上と飛び越え、広くはない前庭に降りる。全員が驚きの表情でユーリィの方へと振り返った。


「皇帝陛下!!」


 叫んだのはディンケルの方は見ず、ユーリィは狼魔から飛び降りた。体制が少し崩れ、血らしきものがこびり付いている体へに手を突いてしまった。指に当たった体毛を少し絡ませ、名残惜しくそれを離す。ここからはもう甘えたことは考えてはいられないと分かっていた。


「なにかあった?」

「なにかって……、陛下がいらっしゃらないと護衛らから連絡があって来たのですが、この者たちが阻んでいたのです」

「陛下の捜索は我々がすると伝えるように、侯爵から言いつかりまして……。それに今は少々取り込み中で……」

「皇帝の身を案ずるより優先することがあるとでも言うのか!?」

「あの、ええと、その……」


 しどろもどろになる衛兵の様子に、ユーリィはおおよその見当をつけた。問題はミューンビラーが生きているかということ。衛兵の態度だけでは判断ができない。


「分かった。僕が直接行って、無事であることを知らせよう。その前にまずディンケル将軍を中に入れろ」

「ですが……」

「皇帝に逆らうとは良い度胸だな?」


 見下すように睨み付けると、中年の兵士は困った表情で瞳を揺らした。


「早く結論を出せ。僕に逆らうか従うかだけなんだから、簡単だろ?」

「わ、わかりました……」


 門が開かれると、馬から下りたディンケルが駆け込んできた。その後から兵士たちも入ろうとするのを手で制し、ユーリィは踵を返して正面玄関へと歩き出した。


「ディンケル、お前は余計なことを言うなよ」


 歩きながら徐々に表情を殺す。感傷的になってしまっては致命的だ。

 渋々とした様子で明け放れた扉をくぐり、中に入ると同時に陸将軍が驚きの声をあげる。


「陛下、その血は……」


 明かりの下に晒された姿はよほど酷かったらしい。これなら効果がありそうだと満足してそれには答えず、険しい表情の執事が案内するままにユーリィは歩き出した。バルタークの屋敷とは違い、この邸宅はかなり大きい。ミューンビラーが強気なのもこの広い廊下のせいだと改めて心に刻み、つま先が沈むほどの分厚い絨毯を踏み続けた。

 いくつかの扉を通り過ぎ、やがて執事が立ち止まったのは数時間前に通された両開きの扉の前だった。

 物々しい雰囲気で、ミューンビラー家の衛兵とユーリィの護衛兵が佇んでいる。その一触即発な気配はいよいよ中でなにかあったことを示していた。

 ユーリィの姿を見て護衛兵の一人が安堵のため息を漏らした。


「ああ、陛下、ご無事で……」

「なにがあった?」

「陛下がいらっしゃらないと分かって、屋敷内の捜索を求めたのですが、侯爵は自分たちで探すと言って聞かず、そのことでもめている最中に侯爵が襲われて……」

「お前たちの仲間だとはっきり言え!」


 護衛兵の言葉に、衛兵の一人が声を荒げた。


「違うと何度も言っているだろう。見た事もない男だ」

「嘘を言うな。護衛兵の制服を着ていたじゃないか!」

「あれは憲兵の服だ!」

「どちらも同じだ」

「裾の長さが違う」

「言い訳をするな。我らはミューンビラー侯爵をお守りする役目があるんだ。暴漢の仲間かもしれない連中を……」

「扉を開けろ!!」


 喚き散らす衛兵を遮って、ユーリィはあらん限りの大声でそう叫んだ。

 その剣幕に押されて衛兵は口をつぐみ、どうしていいか分からないという表情を作った。


「しかし――」

「このソフィニアでの治安維持は、ここにいるディンケル将軍が担っている。貴族屋敷内でもそれは同じだ。逆らうなら反逆罪として捕まえるぞ!」

「わ、分かりました……」


 諦めた様子で衛兵が開けた扉の向こうには、もぬけの殻だった。居たはずの者たちの姿はいっさいない。しかし飲み物や食べ物が置かれた片隅のテーブルはそのまま、明かりもまだ煌々と灯っている。


「陛下、私が――」

「僕が先に行く」


 歩き出したディンケルを引き留めて、ユーリィは室内へと入っていった。

 数歩入って、まず右手を眺め、それから左手に顔を向けると、果たして十数人の男たちが(たむろ)をしていた。その周辺のテーブルはなぎ倒され、割れたグラスが転がっている。それはまるで、数時間前の華やかさが欠片のようだ。

 ユーリィに気づいて、小さな驚きの声を数人が漏らした。見覚えのあるいくつかの顔は、ミューンビラーの取り巻き貴族のものだ。その男たちが少し動くと、ミューンビラーの顔が見えた。どうやら生きていたらしいと知って、ユーリィは安堵とも不満とも付かない複雑な思いでそれを眺める。侯爵の後ろには衛兵たちがいて、その中の一人は拳を作った片手を振り上げたまま止まっていた。


「なんの騒ぎだ?」


 そう言って近づいていくと、衛兵たちの後ろにいる者が見えてきた。その姿を見て、ユーリィは動揺を抑えるのがやっとだった。

 ひざまづいたその男は、背後にいる衛兵に両手を取られていた。見るも無惨なほど腫れ上がった顔は、何度となく暴行を受けたことを物語る。それでもユーリィには、憲兵姿のその男がだれなのか、一瞬で分かってしまった。


(ジェイド……)


 楽しい日々を一緒に過ごした友、身を案じてくれた友、憎しみに怒りを露わにした友、そして哀しみを残して立ち去った友だった。

 様々な想い出が脳裏に浮かんでは消える。今すぐにでも駆け寄って守りたい。幼い頃にずっと憧れていた日々を与えてくれた大切な友のために。

 けれどあの温かい日々には永遠の別れを告げ、この世界に鎖で繋がれた。

 止まりかけた片足を前に出す。動き出せばそこに鎖があることなど思い出すことはない。だから動き続けなければならないんだ。


「皇帝陛下、ご無事でしたか」


 無事を喜んでいるとはほど遠い剣呑な表情で、ミューンビラーが言った。左手には大げさなほど白い布が巻かれている。しかしそのどこにも赤い染みは見当たらなかった。


「そこにいるのが暴漢か?」

「そうですが、どこで――」

「外にいる衛兵に話は聞いた。怪我は深いのか?」

「深いというほどでは……、おおっ!? 皇帝陛下はどうなされた。お召し物に――」

「僕の血ではない。それよりなぜその男に暴行をしているんだ。速やかに表にいる憲兵たちに引き渡すべきじゃないのか? ソフィニアでの私刑は禁止されているはずだ」

「その前にこの男を差し向けた相手を知りたかったのですよ。私を刺す直前に“皇帝陛下のために”と叫んだものですから。陛下がそのようなことをお考えとは信じたくはありませんが、きちんと確かめなければ忠誠心が薄らぐやもしれませんからな? 我らは皇帝の家臣ではなく、この国のために忠誠を誓っただけの者ですから」

「つまり、僕がその男を差し向けたと言いたいんだな?」

「自らはお隠れになり、その間に私を暗殺しようとしたという懸念はなきにしもあらず」


 いよいよ玉座から引きずり下ろそうとしている態度を表に出し、ミューンビラーが前に出る。取り巻きたちも彼に同調して、今にも飛びかかってきそうな形相となった。


「さあ、陛下、なにかおっしゃりたいことは?」

「自分はバルタークに命じて僕を誘拐したわけじゃないって言いたいのか、ミューンビラー侯爵?」

「は?」

「事と次第によっては、お前を捕まえる必要があると思っていたんだが」

「ええと、なにをおっしゃっているのでしょう……?」

「この血は、バルターク邸にいた連中の血だ。命の危険があったのでやむを得ず殺した」


 言われていることを理解できないと、ミューンビラーを呆然として、他の者たちも困惑を露わにして、ユーリィと侯爵をなんども見比べていた。


「ディンケル、今すぐだれかをバルターク邸に行かせて中を調べさせろ。奥に拷問室があるはずだ。僕のクラヴァットをそこに残しておいた。それとこの屋敷にある“密会の間”の暖炉もだ。地下道へ繋がる穴がある。具合が悪くなった僕を、侯爵がわざわざそこに放置したことも、ここにいた大勢が証言するだろうさ」


 いきなり形勢が不利になったミューンビラーの狼狽ぶりは、あまりにも見苦しかった。顔を真っ赤にして喚き散らし、挙げ句にはユーリィに“不貞の子”だの“エルフもどき”だの“卑賤の血”だのと暴言を吐き散らした。


「ミューンビラー侯爵、お前は失脚だ」

「な……」

「そこにいる暴漢は預かっていく。お前は家族との別れを済ませておくんだな!」


 そう、これでいい。

 だれの手を借りずとも、僕はクズどもを排除ができる。

 絡みついた鎖はもう二度と外せないのだから。


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