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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第六章 炎天
156/208

第156話 少女は不安を胸に抱く

 ホールの壁際で、エルナは着飾った人々を眺めていた。

 白や緑や黒のクラヴァット(スカーフ)とそれを留める色とりどりの宝石が、シャンデリアの光に輝いている。上着もまた様々で、立て襟があり、裾が長いものがあり、金糸や銀糸の刺繍がついているものがあり。彼らが明るい表情で談笑する様子を見ていると、少しだけ心が軽くなる。貴族社会に生まれ育ってきたエルナにとって、やはり煌びやかなこの世界が自分の場所だと思うのだ。

 けれど出席者はとても少なかった。ミューンビラー侯爵家といえば、イワノフ、フォーエンベルガーに次ぐ名門で、その当主の生誕会ともなれば五百人は軽く集まっただろうに。


(百人はいないわね……。でもこういうパーティが開けるようになっただけ、良くなったと考えるべきなのかな?)


 トーマ・バルターク子爵の提案に従って、エルナが姉の舅にあたるサガンティー男爵に会ったのは昨日の午後。姉の懐妊について祝いを述べたのち、ミューンビラー侯爵の生誕会に皇帝陛下がご興味を示されていると告げた。

 仏頂面の老人は、初めは余りいい顔をしなかった。どうやら皇帝が非難しているのだと勘違いしたらしい。


(あの時、乗り気じゃない気持ちが、顔に出ちゃっていたのかしら……)


 これはいけないと思い改め、『陛下も気晴らしをなさりたいのでは?』と付け足すと、サガンティー男爵は少し穏やかな表情になって、“なるほど”と頷いてくれた。


(でも、貴族制度ついては色々改革することがありそうよね)


 そういうことを考えるのは好きだった。特にこの宮殿に来てからは、様々な噂や憶測や耳にして、エルナなりに想像してみることもある。その想像は時には当たり、時には外れ、皇帝ユリアーナが起こす予想外の行動に驚く。

 けれどそれは一人だけの楽しみ。なぜならソフィニアでは女が政治のことを語るのは、昔から嫌われていた。


(私が男だったら、なんて言ったかしら? “陛下のおそばにギルドの人間ばかりがいるのは良くない”なんて言うのは、説得力がありそう)


 そんな非現実を抱きつつ、エルナはまた現実へと意識を戻した。

 ミューンビラーの屋敷はかなり大きい。このホールも二百人程度なら余裕で入るだろう。だから余計に、出席者の少なさを実感してしまう。

  屋敷の一階中央にあるこのホールは、庭に少し飛び出している。その庭に面した壁にはめ殺しの細長い窓が十ほど並ぶ。そこから見えるのは、綺麗に手入れをされた左右対称の庭。花壇は十字に、低木は丸く植えられ、灌木の幹にはどれも蔦が絡ませてある典型的なソフィニア庭園だ。

 ホールの両側と天井の壁は真っ白な漆喰で、所々に花をモチーフにした装飾が浮き出ている。ソフィニアにある別邸にしてはとても豪華で、リマンスキー家の別邸とは比べものにならなかった。

 けれど領地にある城では、ホールだけではなく何室も解放されて、片隅では男女が集うちょっとしたサロンが開かれ、噂話や色恋の話に花が咲いていたことだろう。それが幼い頃からエルナが何度も見た舞踏会やパーティの様子だった。


(質素だけど、時勢を考えればでも良いパーティだわ)


 あちこちに置いてあるサイドテーブルは、真っ白なクロスが掛けられて、果実酒の入ったグラスが並んでいる。それ以外にも、チーズや肉の乗せられたパンや、赤や黄色の果物がたっぷり用意されていた。数十人いるメイドや召使いたちは、それらが切れることがないよう注意を払い、時には奥から新たな料理や酒を持ってきて、そのたびに初老の執事が皆に薦めていた。


(それにしても、女性がこんなに参加するなんて思ってもみなかった)


 宮殿にいる女性は、使用人以外はエルナ一人だった。だからてっきりここでも、自分一人だろうと考えていた。ところが、ザッと見たところ十人以上はいる。ソフィニアで暮らすオーライン夫人はともかくとして、ミューンビラー侯爵夫人とその娘二人、フィッツバーン侯爵とその夫人、他にも見知った顔がいくつもある。


(彼女たちはいったいいつここに来たのかしら? あの方はフォルミゲル子爵夫人? 以前お目にかかったことあったはず。ご挨拶した方がいいかな)


 と思うものの、今日は目立ちたくなかった。それはミューンビラー侯爵に挨拶と祝辞を述べた時、皇帝と親しい仲だということを何度も言われたからだ。さらに「皇后候補のお一人」などと言われて、身が縮こまった。


(そんな話がユーリィ君の耳に入ったら、避けられちゃうかもしれない)


 それが一番怖かった。

 ところが、壁の花でいられないことがすぐに起こった。

 このパーティでは目立つだろう者たちがエルナへと近づいてきて、その中の一人バルターク子爵がこう言ったのだった。


「今夜のヒロインがこんな場所に立っているとは!」


 軽く酔っているらしい彼は周囲の者を振り向かせ、エルナは今すぐ帰りたいという気分になった。しかも彼の両側にいるのはミューンビラー家の娘二人。彼女たちのドレスに比べて、自分が着ている浅黄色の服はなんて地味なことか。侍女のミラの勧めに従って、ドレスを新調すれば良かったと少々後悔もした。


「ご、ごきげんよう、バルターク子爵」

「ごきげんよう、エルネスタさん」

「ご紹介していただけますか、子爵?」


 バルタークの左隣にいる明るい髪色の娘が、愛らしく小首を傾げてそう尋ねる。その仕草とは裏腹に、彼女はとても大人ぽい。年齢はエルナより一つか二つ上だろう。着ているのは、両肩が大きく露出した上部は白いレース生地、腰から下はドレープを何枚も重ねた濃紺のゆったりとしたスカートのドレス。


(この光沢は、きっと蝶繭の糸を織り込んでいるのね……)


 輸入でしか手に入らない高価な糸で、小さな子爵領ではとても手が出ない品物だった。


「こちらはリマンスキー子爵家の令嬢エルネスタさんです。このお二人はミューンビラー家のご令嬢ティーナさんとアナリザさんです」

「ごきげんよう、エルネスタさん。お噂は聞いてますわ。なんでもあの惨劇で、一人の領民も失うことなく、勇敢に魔物たちと戦ったとか?」

「ごきげんよう、ティーナさん。ですが戦ったというのは大げさですわ。皆を城にかくまっただけですから。狭い領地ですし」

「それで今日のヒロインってどういうことですの?」


 バルタークの右隣に立ち、好奇心に目を輝かせてそう尋ねた娘は、妹のアナリザだろう。彼女が十九歳であることは、同い年なせいもあってエルナも知っていた。彼女が着てい薄いピンク色のドレスもやはり美しい光沢があり、ちりばめられた細かな銀糸の刺繍もまた輝いていた。


「ああ、それは今宵、このパーティに皇帝陛下がご出席なされるのは、彼女の薦めがあったからですよ。侯爵もとても喜んでおいでだった」

「エルネスタさんは陛下ととてもお親しいのね。皇帝陛下ってどんな方?」

「アナリザ、ご挨拶は?」


 姉にたしなめられて、妹はぺろりと舌を出してから真顔に戻り、


「ごきげんよう、エルネスタさん」

「ごきげんよう、アナリザさん」

「それで、皇帝陛下はどんな方ですの?」


 食い入るように見つめられ、困惑したエルナは助けを求めてバルタークを見た。それに応えて子爵は娘たちに和やかに言う。


「お二人とも陛下にお目にかかったことはないのですか?」

「だって私たち、昨日ソフィニアに来たばかりですもの。それで皇帝陛下はどんな方なの?エルフにそっくりなの?」


 何度も同じ質問をする妹は、ズケズケと物を言うタイプのようだ。


(この子は要注意ね)


 母や叔母に連れられて、幼い頃から社交界を見てきたエルナは、この手のタイプはあることないこと噂をばらまくことをなんとなく気づいていた。


「おっと、噂をすれば、ほら、いらっしゃったようですよ」


 三連の鐘がホール内に響き渡り、バルターク子爵がそう言った。

 貴人を向かえるその鐘にホールにいる全員が扉へと顔を向ける。やがて開かれた両開きの扉から、金髪の麗人が姿を現した。

 金糸の刺繍があるグレイの上着、真っ白なズボン。首元の白いクラヴァットはとても薄い生地のようだ。もちろんそのどれにも光沢がある。右肩にあるえんじ色のマントも華やかで、金の留め具には大きな紫の宝石が付いていた。

 そんな皇帝の姿に、ミューンビラーの令嬢たちは「まぁ」と小さな感嘆の声を漏らす。彼女たちでだけでなくエルナも、見るたびに美しさと威厳が増していく少年に驚かざるを得なかった。

 スティール家の庭で、恥ずかしげに挨拶を交わしたあの少年はもうどこにもいない。室内に入ってくる立ち振る舞いも堂々として、年頃にしては低い背もまったく気にならなかった。


「思ったほどエルフっぽくはないわね、女の子みたいだけど」


 ユーリィが聞いたらきっと怒るだろうことを、アナリザは平気で口にした。


「アナリザ、失礼ですよ」

「だってそう思ったんですもの、お姉様。でも綺麗な方とも思ってるのよ」

「ええ、そうね」

「お年は十七歳だったかしら? 私より二つ下か。年上の皇后でも……」

「アナリザ!」


 姉ティーナのきつい声に、妹はびくっと肩を震わせた。


「そういう話はこういう場所でするものではないわ、分からないの?」

「だけど、お姉様……」

「お父様が手招きしているわ。きっと陛下に挨拶をしなさいってことよ。行きましょ?」


 ごきげんようとふたたび言って、娘たちはそそくさと皇帝のいる方へと消えていった。


「まるで盛った雌猫のようですな」


 その後ろ姿を見て、バルターク子爵がポソッと呟く。


「まあ、子爵、そのようなことを……」

「ああ、これは失礼、レディの前でした。皇帝陛下も大変だなと思ってしまってね。酔っ払いの戯れ言だとお忘れ下さい」

「それよりも子爵、どうして貴方は私に、サガンティー男爵に会うようにおっしゃったのですか? 貴方自身が侯爵におっしゃって頂ければそれで済んだはずですのに。だってあのお二人ととてもお親しい仲なのですから、侯爵におっしゃることなど難しくはなかったでしょ?」

「まあ、そうですが。ですがあの場で私が侯爵と親しいと知ったら、陛下は良い顔をなされなかったでしょう? さて、私も挨拶に行ってきましょう」


 得体の知れない闇のような物がその一瞬見た気がして、浮かべられた笑みにエルナはゾクリとした。


(なんだか怖い人ね……)


 それがただの幻想であれば良いと願いながら、その後エルナは大人しく人々の様子を窺っていた。

 ユーリィのそばにはあの娘二人がいて、なんだかんだと話しかけているようだ。それに対して少年は、初めてエルナと会った時と同じく、気後れした表情で対応している。そんな様子になんだか安堵するとともに、妙な不満も胸に覚えた。


(大丈夫、彼は女の子には興味がないはずよ)


 それが不満を解消する理由にはまったくならなかったけれど……。


 それからしばらくは何事もなく、夜が更けていった。

 エルナもそろそろ疲れてきて退散しようかと考えた矢先、ちょっとした事件が起こった。皇帝が持っていたグラスを落としたのだ。ただの不注意かとも思ったが、どうも足元もおぼつかない。よく見れば、目の周りが真っ赤になっていた。


(まさか、お酒飲んじゃったのかしら……?)


 以前彼がスティール家に宿泊した時、果実酒のケーキを食べて酔っ払った話を、ジェイド・スティールが笑いながら話してくれたことがある。


『あいつ、酒一滴でも酔っ払える体質っぽいよ』


 その言葉を思い出して、エルナは青くなった。青くなったのはエルナだけではない。皇帝の身になにが起きたのかと一同騒然としていた。

 エルナは慌てて皇帝たちがいる方へ行き、顔を赤くした少年に話しかけた。


「陛下、お酒を飲まれたのですか!?」

「あ……エルナか……。うん、ちょっとだけね」

「やっぱり」

「やっぱりとは、どういうことなんだね?」


 狼狽えてはいなかったが、さすがに困惑しているミューンビラー侯爵に尋ねられた。


「陛下はお酒にお弱いのです」

「それはとても面白い」


 含み笑いを浮かべるバルタークの意味深な言葉が気になったエルナであったが、侯爵の荒げた声がそんな懸念を吹き飛ばした。

 

「なんと! そのようなことは先におっしゃって頂かないと困りますぞ! まさか、今宵の大事な式典を台無しになされようとは思っていたわけではありますまい!?」

「ゴメン、ちょっと軽率だったよ。僕のことは気にしないで。帰るから」


 そう言って皇帝は歩き出そうとしたものの、すぐにぐらりと身体が揺れて、それをバルターク子爵が慌てて支えた。


「侯爵、皇帝陛下をこのような状態でお帰しになっては、ギルドや軍部の連中になにか言われるのでは?」

「う、うむ……」

「こうしてはいかがでしょう。陛下には少しお休みになって頂いて、酔いが覚めた頃にお帰りになっていただくというのは?」

「なるほど」


 狼狽と怒りを押し殺し、ミューンビラー侯爵は少し声を張り上げて、「衛兵衛兵」と言って辺りを見回した。しかし十人ばかりの衛兵たちが到着する前に、バルターク子爵が皇帝を抱きかかえる。


「私がお運びしましょう。お部屋は“密会の間”でよろしいですか?」

「しかしあそこ少々狭い」

「ちょうど良いではないですか。陛下もゆっくりお休みになれましょう。よろしいですね?」

「あ、ああ……」


 いつになくテキパキした様子の子爵に、ミューンビラーばかりでなくエルナも戸惑った。少なくても、先ほどまでホロ酔いだった男とは思えない行動力だ。それが妙に不安で、エルナは自分もついていくと申し出た。

 しかし____。


「それには及びませんよ、エルネスタさん。それに私には陛下をお誘いした責任がありますから」


 きっぱりと断られ、大勢の目もあって、エルナはそれ以上食い下がることはできなかった。

 皇帝を抱えたバルターク子爵を先頭に、十人の侯爵家衛兵と五人の皇帝付き警護兵が部屋から出ていくと、一同は安堵のため息を漏らした。しかし侯爵はまだ憤然とした表情で扉を睨みつけている。このまま場の雰囲気が悪い状態が続くのかと思われたが、機転を利かせた執事が部屋の片隅に控えていた楽師たちに合図を送った。

 軽快な音楽が流れ始める。それとともに侯爵の機嫌も回復してきて、立派な口髭を指先で撫でつけつつ、まだ動揺している一同にこう言った。


「さあ、皆様方、今宵はまだ始まったばかりですぞ!!」


 それからは皇帝が現れる前の雰囲気に徐々に戻っていった。エルナも少しだけ気が軽くなり、このまま皇帝が回復するのを待とうか、それとも帰ろうか迷っていた時だった。


「皇帝陛下のこと、どうお思いになって?」


 その言葉に驚いて振り返ると、すぐそばにミューンビラー侯爵令嬢の二人がいた。言ったのはどうやら妹アナリザのようだ。二人はエルナが聞き耳を立てていることに気づいていなかった。


「どうって、とてもお綺麗な方だと思ったわ」

「私はもっと男らしい殿方の方が好き。でもお姉様は昔から見目の良い男性がお好きですよね。でしたら皇后の座も悪くないかもしれないわ」

「ちょっと、アナリザ!」


 妹のからかいを、姉はほんのり頬を赤らめてたしなめた。

 エルナはそんな姉ティーザを横目でじっくり観察した。背は皇帝より高いようだ。顔立ちはごく普通。下唇が少々厚すぎる。胸はとても豊満で、白いレース生地がずいぶんきつそうに見えた。


(わざわざそれを強調するドレスを選ぶなんて、なんだかちょっと、はしたない感じがするわ!)


 自分の胸元を見ないようにして、負け惜しみではない感想を思い、それからユーリィのことを思い出して、


(それに彼は女性の胸が大きいとか小さいとか意識しないはずよ)


 すると、今度はそこはかとない虚しさが胸を刺した。


「バルターク子爵は、まさか陛下が女の子だと思っているのかしら? お姉様、どう思います?」

「そんなことはないと思うけれど……」

「でもあの“密会の間”よ? わざわざあそこを選ぶなんておかしいわ」

「考えすぎ」

「私が、昔“密会の間”で、王女とミューンビラー家の侯爵が密会していたとお話した時、子爵はとても熱心に聞いていらしたわよ。王女はどうやってこの屋敷に来たのだとかお聞きになったりして。私がした秘密の通路の話、絶対信じたと思うわ」

「あんな伝説を信じるはずないわ」

「そうかしら? それに私は本当の話だと思っているのよ」


 どうしようもない胸騒ぎに耐えられず、エルナは彼女らに話しかけようとした。だか一瞬遅く、二人はエルナのそばから離れていってしまった。


 一人残されたエルナは本当にどうしていいか分からなかった。相談できそうな相手もなく、明るい曲が流れる中、ホール内をおろおろと彷徨きまわる。せめて“密会の間”がどこか分かればいいのにと、そんなことを考えて窓際まで来た時だった。

 窓の外に動くものを感じて何気なく庭を見る。端の方に人影らしきものが見えた気がしたのだ。

 なにかしらと目を凝らし、暗がりを凝視する。すると憲兵の服を着た人物が立っているのが見えてきた。


(きっと警備の兵士ね)


 そう思ったけれど、男の横顔があまりにも知り合いに似ていて目が離せない。目の錯覚か他人の空似だと自分に言い聞かせてみたもののダメだった。

 今夜は不安なことばかりが続いている。だからかもしれない。

 散々迷った挙げ句、やはり確かめに行こうと決意した。


(違ったら違ったでそれでいいわ。だって違うということを確かめに行くんだから)


 ホールをそっと抜け出し、どうやって庭に出ようかと廊下にて迷っていると、たくさんのグラスが乗ったトレイを片手に歩いてくる執事に出くわした。どうしたのかと尋ねられたので、少々気分が悪くなったので庭に出て夜風に当たりたいのだと言い訳をした。

 初老の執事は、一瞬訝しげな表情を見せたものの、「こちらへ」と言って廊下の奥へとエルナを案内した。

 角を一つ曲がり、正面にあった細い階段までくると、執事はその横にある小さな扉を開け放った。


「ここを左へ。建物にそって曲がれば庭園へ出られます。正面玄関からですと、ぐるりと屋敷を回らなければならないので……」


 申し訳なさそうに言った執事に、エルナはそれでいいと告げた。

 扉は開けておくと言って執事が立ち去った後、エルナは薄暗い野外へと足を踏み出した。

 夜風はほとんどない。正面に見える丘の横に、黄色の月が輝いている。それだけが今のエルナの味方だった。

 言われたとおり左手に少し行くと、低い木立の陰になにか丸くなっているような物を発見して、ギョッとなる。しかしそれが井戸だと分かると、あまりにもビクビクしている自分がおかしくなってきた。


(バカみたいだわ、私。ここはソフィニアにある貴族屋敷の中よ。恐がり過ぎね)


 自分に言い聞かせてから、今までよりしっかりした足取りで先に進むと、やがて庭園に続くらしい小道を発見した。たぶん正面玄関から続いているのだろう。

 一度振り返り、誰も来ていないことを確認して、それから道に従って歩いて行くと、やがて道は直角に折れ曲がった。先の方に先ほどまでいたホールの光に照らされた庭園が浮かび上がっている。けれど庭園よりもエルナが注視したのは、細い灌木の横で庭の方を伺っている人物だった。

 先ほど見たとおり、憲兵服の男だ。そして先ほど思ったとおり、その横顔は友人にそっくりだった。

 まさかと思いつつ、その場で立ち止まったエルナは小声でその名を呼んでみる。しかしホールから漏れ出る音楽にかき消されて、エルナの声は届かなかったようだ。

 もう一度、今度は確信を持って、その名を呼ぶ。


「そこにいるの、ジェイドよね?」


 すると男はびくっと肩を震わせ、軽い悲鳴を上げて振り返った。


「だれだ……?」


 聞き覚えのある声である。間違いなく友人だとエルナが確信した。


「ジェイド、どうしてこんなところにいるの?」

「その声は……まさかエルナ……?」


 近づいてきた彼は、心底驚いた表情をしてエルナの前に立った。


「あなた、ソフィニアの憲兵をしているの?」

「あ、ええと、そうなんです、エルネスタお嬢様」

「今さらそんな丁寧に喋らなくてもいいわよ」


 領主の娘と領民という立場を超えて、二人は領地内を駆けずり回って遊んだ仲だった。年齢とともにそれはできなくなったけれど、幼なじみであることには変わりはない。


「ねえ、どうしてこんなところでコソコソと――」

「すべて皇帝陛下のためですよ、お嬢様」


 首筋に当たった冷たい感触に驚いた時には時既に遅し。腕をしっかり掴まれて、身動きができなくなっていた。もちろん首にあるナイフが動けなくなった最大の理由である。


「その声は、フォーエンベルガー家の……」

「ご名答」

「おい、エルナに手を出すな! 彼女は関係ない!」

「声が大きいぞ、スティール。今は傷つけるつもりはないから安心しろ」

「今は!?」

「お前が皇帝陛下のご意思に従って、役割を果たすかどうかにかかっている」

「陛下のご意思ってどういうことなの!?」

「この屋敷には、陛下にとって危険な人間がいるということですよ、お嬢様」


 なんのことかと一瞬考え、突如ミューンビラーの立派な髭がエルナの脳裏に浮かんだ。


「まさか侯爵を……」

「スティールはぜひとも皇帝陛下のお役に立ちたいと考えている。そうだな?」

「ちょ、ちょっと待って。陛下は、ユーリィ君はそんなこと望んでいるはずないわ」

「果たしてそうでしょうか? たとえばイワノフ公爵の死を望まれたのだとしても?」

「そんな……」


 ユーリィの父であるイワノフ公が暗殺されたことは、エルフの耳にも届いていた。けれどそれは、あの惨劇で酷い目に遭っただれかの恨みのためだと信じていた。


「早く行け、スティール。なんのためにその服を貸したと思っているんだ。その格好なら怪しまれずに中には入れる。裏口はあっちだ」


 頭の上で伸びた男の指が、エルナが来た方向を示した。


「本当にエルナになにかしないんだろうな?」

「それはお前の働き次第だと言ったはずだ。皇帝陛下がこの娘に危害を加えたくないと思っていることは、お前も知っているだろう?」

「分かった」


 後ろ向きに歩き出したジェイドを、エルナは必死に止めた。


「待って、ジェイド。そんなことしちゃ駄目。ユーリィ君がそんなことを望む子じゃないって、あなたは分かってるでしょ。それよりも彼を探して――」

「ゴメンね、エルナ。でもオレはもう卑怯者になりたくないんだ」


 闇に消えていく友の姿に、エルナはどうしようもない絶望感を覚えた。

 どうしたらいいのだろう。今、大声を張り上げれば、彼は戻ってきてくれるだろうか?

 けれどホールから流れてくる音楽が大きすぎて、届くような気がしなかった。


「さて――」


 真後ろに立つ男の手が腕から離れ、ナイフも首から取り去られた。

 もしかしたら解放してくれるのだろうかとわずかな期待を抱いて振り返る。しかし男の鋭い両目は、この世の物とは思えないほど恐ろしく暗い影を宿していた。


「あなたもこんなことは止めなさい、今すぐに。皇帝はこんなことをしなくても、ちゃんとこの国を治められるだけの力がおありよ」

「もちろんそうでしょうとも。けれどもっと楽に治めたいとお考えだ」

「うそ、絶対にうそ。私は信じないわ」

「信じようと信じまいと貴方の勝手です。ところで先ほどの言葉、“それよりも彼を探して”のあとはなにを言おうとしたのでしょうか?」

「それは……」


 言おうかどうしようかエルナは迷った。

 もしもこの男が、ミューンビラーではなく皇帝を狙いに来たとしたら、取り返しつかないことに言うことになる。

 だけどユーリィの身になにかあるかもしれないという心配は拭えなかった。もしも本当に、ミューンビラーが危険な男なら特に……。


「黙っていたいのならそうすればいい。だがもしも皇帝陛下の身になにかあったら、俺はあんたを殺す、絶対に。あんただけじゃない、スティールもあんたの親兄弟も抹殺してやる。それを分かって口を閉ざしてればいいさ」


 男の表情も気配も、昔ユーリィが危険だと分かった時のヴォルフ・グラハンスそのものだった。そして酷く苦しんでいるようにも見えた。


(この人は本当にユーリィ君を大事に思ってるんだわ……)


 だから一か八か、賭けてみることにした。

 もしも自分の判断が間違いだったとしたら、贖罪として潔く命を絶とう。


「分かったわ」


 それからユーリィが酔った件と、“密会の間”について話して聞かせた。


「なるほど……」

「私の気のせいかもしれない。でもなにか嫌な予感がするの。だから――」

「皆まで言わなくて結構。やはりあの男が危険な人物であることが分かった」

「なんとなくだけどミューンビラー侯爵はなにも知らないような気がするけれど」

「それはどうかな? ともかく皇帝陛下を助けに行きましょう。ですがその前に」


 それは一瞬のことだった。

 みぞおちに強い衝撃を受け、エルナの意識は一瞬で飛んでいた。だから男がその後囁いた言葉を彼女は知らない。



「可愛らしいお嬢様が眠るのにちょうどいい場所へ案内してやろう。ネズミの従者が沢山いる素晴らしい場所だ」


 男はエルナを抱きかかえると、井戸がある方へと歩き出した。


「たとえだれだろうと、彼は渡さない」


 だがその声は、軽やかな音楽にかき消され、だれの耳にも届かなかった。


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