第154話 未だしがみつくこの世界にて 前編
『もうすぐ終演だ。その時横たわるのは貴方か私か。だが私が卑怯者であることをお忘れなく、子爵夫人』
――戯曲『ロロット子爵夫人』第六幕 ハルツァー男爵台詞より
男の首にナイフの刃先を軽く食い込ませると、赤い血が一筋流れ落ちた。
(血は赤いのか)
つまらないことで驚きつつ、タナトスは中に入れと顎をしゃくって促した。色違いの双眸を持つ男は、今にも火を吐き出しそうな形相で一度タナトスを睨み付けると、口を閉ざしたまま扉の内側へゆっくりと入ってくる。油断をすればなにかしかけてきそうな気配に唇が乾き、それを舌で舐めると、嫌らしい笑みを浮かべることに成功した。
「扉は閉めないのか?」
男がちらりと見た石階段の付近は、夕闇の赤が染みのように滲んでいる。
「まあ、焦るなって。まずはここに来た目的でも聞こうか?」
「皇帝陛下から、お前を捜せという命令を受けた」
「陛下が俺に会いたがっているとは、感動だな」
「勘違いするな。お前には様々な容疑がかかっている」
「ほぉ」
バレていることは分かっていた。分からせるために、何度もアプローチをしたのだ。
そう、俺を忘れさせないために……。
「ナイフを下ろせ。こんな物で俺が殺せやしない」
「だろうね」
ナイフを引き、ラッチを押して刃を閉じると、金属のぶつかる音が手の中で鳴る。その無機質な響きが心地よく、タナトスは二度三度と開いて閉じた。もちろん、そんな意味のない行動がスティールの時のように効果があるとも思っていない。多少なりとも相手を苛立たせればそれで良かった。
「で、容疑って?」
「ひとつはイワノフ公爵殺害の件だ」
「へぇ、証拠は?」
「いずれ見つかる。それからもう一つ、エルフの女を刺したのもお前だ」
「おやおや、俺はずいぶん活動的な暗殺者だ」
相手が歯ぎしりを見て、煽りはこれくらいにしておこうかと一歩身を引いた。
外からは微かに子供の笑い声が聞こえてくる。だから扉は閉めるつもりはない。ここで変化はしないだろうと思っていても、確信はなかった。
「ところでお前と一緒にいた男はどうした?」
「いつの話だ?」
「もちろんエルフを刺した時だ」
「スティールとかいう若い男が来たのは確かだが、いつ会ったヤツかは覚えてないな。そいつがどうした?」
「どこへ行った?」
「知りたいか?」
にやりと笑った瞬間、魔身に胸ぐらを掴まれ、タナトスは内心ひやりとした。しかし顔には出さず、目前で異様な光を放つ双眸を睨み返す。右の黄色い瞳は間違いなくあの狼魔のものだ。この人外が皇帝を舐っているのかと思うと、どうしようもなく腹が立った。
「知りたいなら離せ」
「痛めつけて口を割らせると言ったら?」
「自慢じゃないが、俺は口が硬いぞ」
またも睨み合いがしばらく続き、子供たちの歓声が一段と高まった時、ようやく魔身は手を離した。
魔身を睨んだまま、胸元を軽く払い、それから襟を正す。軍服ではない皺だらけのシャツでは意味はない。ただ汚らわしい魔物の匂いを取り去ろうとしただけだ。
「もうすぐ終演だ。その時横たわるのはあんたか俺か。だが俺が卑怯者であることをお忘れなく」
「どういう意味だ?」
「意味などない。ある戯曲で悪役が吐いたセリフさ。この話で俺はこの男が一番好きな登場人物でね。もっとも俺が今まで読んだ本は、子供の頃に町外れにいた変人の爺さんが貸してくれた五冊のみだけどな」
「その爺さんと、ジェイド・スティールになにか関係があるのか?」
「ないね」
「貴様……」
いきり立つ魔身に、タナトスは片手を上げてそれを制した。
もう子供の声は聞こえない。夜が訪れて家の中に戻ったのだろう。代わりに鼻をくすぐる香辛料の匂いが漂ってきて、腹の虫がうごめいた。
こんな時に空腹を感じている自分が面白く口の端をゆがめると、馬鹿にされたと思ったらしい相手は拳で壁を殴りつけた。
「そう苛つくな。爺さんは俺が十二の時にベッドの下で、泡を吹いて死んでたよ。最後まで面白い爺さんだった。だがスティールとかいう男と、爺さんは関係ないな。ま、俺が言いたかったのは悪役ハルツァー男爵の方でね」
「そんなくだらない話はどうでもいい!!」
その声に驚いたのか、天井裏でネズミが走る。その上にあるガラス屋の店主にも、もしかすれば聞こえていたかもしれない。けれど店は日が暮れる前に閉店するのがほとんどだった。
あの戯曲の中でハルツァー男爵がいかに卑怯に、主人公である子爵夫人を追い詰めていったのか聞かせてやろうと思ったタナトスだったが、止めにした。
まだ手のうちを晒すには早すぎる。
「で、どうなんだ?」
「あの男は今朝出ていった」
「どこへ?」
「もし知っていても、俺を捕まえようとする奴に、そう簡単に言うかよ」
「だったら貴様を、今すぐ殺す」
なぜこの魔身がこうも苛ついているのか、タナトスは分かっていた。
(あの屋根で見たことが原因だろうな)
あえて見せつけたのだから、この手であの少年を汚していく様を。
そうせずにはいられなかった。
見るほどに魅せられている青い瞳も、色香に濡れる唇も、嗅ぐだけで抱きしめずにはいられなくなるあの香りも、壊れることのない強固なプライドも、そして逃げるなら今だと囁く甘さも、お前だけのものではないと分からせたかった。
「そんなに知りたければ、案内してやろうか?」
「な……に……?」
「スティールがなにをしに行ったのかは、道々教えてやる」
楕円をした丘道の外側には、建物がぐるりと並ぶ。道を挟んだ内側は木と芝草が生えるちょっとした緑地帯だ。その向こうは小高い丘で、ソフィニアの中心に位置していた。
ねぐらを出た二人は大通りから丘道まで来ていた。タナトスと魔身は並んで歩いていたのだが、肩を並べていたわけではない。どちらも後ろを歩かれるのを嫌がって、結果的にそうなっただけだ。それでも人と荷馬車が行き交う広い通りでは、人ひとり分ほどの距離しか取らなかった。
「ずいぶん今日は上等な服を着てるじゃないか?」
無言のまま歩くのも飽きて、裾の長い黒の上着を横目で見やり、タナトスは話しかけた。だが相手は返事をするつもりはないとばかりに、口を閉ざしたまま。だからしつこく話しかけた。
「もしかして皇帝陛下から戴いたのか?」
「――…ああ」
「それは羨ましいこって」
おどけて言ってみたものの、本心だ。
今着ている服はバレクから渡された皺だらけの黒いシャツ。いくらあがいても、俺はその程度の存在だと思うと、無性に腹が立つ。気付けば手のひらに爪が食い込むほど、拳をきつく握っていた。
やがて丘道の緑地帯から伸びるやや狭い道に入る。すると自然に、二人は道の端と端を歩く形になった。
(大人しく付いてくるとは、お前も甘い)
馴れ合うつもりなど一切ない相手だ。
そもそもタナトスがあのねぐらで鉢合わせをしてしまったのは、ただの偶然だった。水を取りに来て、そしてこのざまだ。その水の入った革袋さえ置いてきたのだから始末に負えない。だが逃げることを早々に諦めたのは良かった。
魔物を撃退する方法を考えつつ、タナトスは黙々と歩いていた。
辺りは気持ち悪いほどに静かだった。木々に邪魔されて、街の明かりも届かない。持ってきたランタンに火を灯せば、管理を怠って久しい両脇の公園が薄ら見えた。
丘の下には旧王家の墓があるらしいので、さぞや綺麗な公園だったことだろう。丘の上も街を見下ろせる景観が人気で、一年前までは観光客や恋人たちが集い、夜遅くまで賑わっていたという。
(想像すらできないな)
過去一度もこの街を訪れたことがないタナトスにとっては、まるで大昔の話だ。所々にある石像らしき物も、今は不気味にしか見えなかった。
程なくして浮浪者らしきボロをまとった薄汚い老人と、その後を付いていく薄汚い犬に出くわした。
タナトスたち二人を見て、老人は今日一日虚ろだっただろう瞳を恐怖に染める。こんな人の来ない薄闇で、怪しげな男二人と対峙したらそうなるだろう。低く唸り始めた犬すらも、老人の恐怖をさらに煽っているようだった。
「そんなに睨んでると、あのジジイがしょんべんチビり始めるぜ」
タナトスがからかい、魔身はフンと鼻を鳴らして怯えた者たちから目を逸らした。
そんな二人の間を、壊れかけた吊り橋でも渡っているような形相で、老人と犬が通る。やがてすれ違った直後、微かなため息が聞こえてきて、タナトスはふと振り返った。
片足を引きずる老人は、今生きている喜びを噛みしめていることだろう。だが闇に消えていく後ろ姿に、きっと幸せな死は迎えられないだろうと想像できる。だからタナトスにはあの浮浪者より、ベッドの下で死んだ老人の方が幸せに思えた。
「おい、なにをやっている!」
怒りを滲ませた声が聞こえてきて、タナトスは老人が消えた闇から目を離した。
すぐ先にある坂道の前で、魔身の両目が暗がりの中で不気味に光っていた。
「スティールはこの上にいるんだな?」
近づくタナトスにそう言って、相手は丘の上まで続く坂を上り始めた。
「だれがそんなことを言った」
「それ以外、ここに来た理由がないだろ」
「こっちだ」
坂道は、今来た道と同じく石畳になっている。だから一本道のようにも見るが、実は細い土の道が枝分かれしていた。
タナトスがその道を歩き出すと、魔身は素直に付いてきた。
後ろを歩かせるのは気に入らないが、今はなにもしてこないだろう。それに膝まである雑草が伸び放題の場所を進む道は、並んで歩くには狭すぎた。
「この先になにがある?」
「まあ、来いって」
しばらく行くと、雑草の間に石でできた円柱状の物体が、薄明かりの中に浮かんできた。
高さはちょうどタナトスの腰の辺り。四角い石蓋の片方が横に立てかけてあり、縄ばしごに繋がっている鈎型のフックも縁にちゃんと引っかかっている。昼間見た時と同じ状態に少々ホッとして、タナトスは下を覗き込んだ。むろん中は闇が満ちていてなにも見えない。腐った水の匂いが鼻をくすぐった。
「どういうことだ」
「見ての通り、井戸だよ」
「そんなことは分かっている」
「ソフィニアには、網の目のように張り巡らされた地下通路があるのを知ってるか?」
返事がないところをみると知らなかったようだ。
「正確には上下水溝」
「井戸が使えなくなって、もうずいぶん経つはずだ」
「その昔は使えたんだとさ。放置していたせいで、地下水と下水とが混じって使い物にならなくなった。通路はその水路の両脇を通っている。入ってみれば分かるが、石レンガ作りの立派なもんだぜ。少なくてもこの街を作った頃は、庶民のための都市を造ろうと考えていたようだ」
「つまりスティールはここに入ったと言いたいのか?」
一瞬にして魔身が殺気だったのを感じて、タナトスは数歩飛び退いた。
疑われているのは明白。自分も同じ立場なら疑うだろう。
もちろん余裕の態度で腰に手を当てる。この魔物の前では弱気な態度は命取りだ。
「別に信じなければ信じないでいい。スティールがどうなってもいいならな」
「だったら入った理由と、どこへ行ったのかを説明してもらおう」
「下でしてやるよ」
「俺たちも入ろうって言うのか?」
「案内すると言ったはずだ。さて、先に入るか後から来るか選ばせてやる」
しばらく考えていた魔身は、ようやく「後だ」と呟いた。
「賢明な選択だ」
そう言ったものの、縄ばしごを切られないという保証はない。
だが覚悟を決めて、タナトスはランタンの把手を口にくわえ、ゆったりとした動きで井戸の縁に足を掛けた。