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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第六章 炎天
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第151話 汚れし水

『彼女の一つ一つを丁寧に切り離していく。指、手首、肘、肩、そして首。すでに凝固し始めた血は、どこからも滴ることはない。けれど頭部だけになった彼女の鼻と口からは、最後の赤い苦しみが流れている。私はそれを舌先で舐め取り味わった。これで私は彼女を支配したと満足して』

                        ――奇書『我が殺意の考察』より



 テーブルにある水差しには、茶色に混濁した水が入っている。手にしたコップの水もかなり濁っている。しかもそこはかとなく臭い。上澄みだけを注げば少しはマシだろうと思った結果がこれだ。やはり水売りから買ってくれば良かった。

 飲むことを諦めコップを置くと、コトンという音が室内に薄く漂う。

 酷く憂鬱な気分になった。

 部屋の片隅では、茶色いなにかが爆発したような髪型の青年がうずくまっている。身につけている皺だらけの白いシャツ、埃にすすけた黒いズボン、履きつぶされた黒い靴。まるでみすぼらしい捨て犬だ。それを見てタナトスの気分はますます悪化した。

 殺すと脅して連れてきたのだから、泣いたり叫いたりすればいいものを、膝を抱えて動くなってしまったのでは面白くもなかった。

 面倒なのでやはり殺してしまおうかと、ポケットから折りたたみ式のナイフを出す。その木製のハンドル()にはエルフの血が黒ずみとなって付いていた。

 青年を横目で眺めつつ、鈍く光る刃をハンドルから引き出しては、ラッチを押してふたたび中へと収め、それを何度も繰り返す。


(こいつを殺して死体をどっかに捨てておけば、俺の犯行だと気づいて、あのガキもさすがに俺を憎むだろうさ)


 憎まれればきっと、この感情を捨て去ることができるはずだ。

 あの瞳の中になにかを期待して、つい見てしまうこともなくなるはずだ。

 そうなれば、身をよじるほどに息苦しい呪縛から解き放たれるはずだ。

 胸の中で幾重にも折り重なる確信のない望み、むしろ絶望。

 心は完全に、金色の髪の少年に蝕まれている。


(くそ、いい加減にしろ、俺!)


 堂々巡りの感情を払拭し、開いたナイフを片手にタナトスは青年へと近づいた。

 覇気がない視線が、さまようようにしてナイフを捉える。


「やっぱり……オレを殺すのか……?」

「考え中だ。お前が泣いて助けを乞うなら考え直してもいい」

「そんなことしたって、どうせやるんだろ?」

「どうしてそう思う?」

「ユーリィがオレを殺したいと思うのは当たり前かって。一度あいつを殺そうとしたから」

「ほお」


 なかなか面白い話になってきたなと思いながら、ブレード()をハンドルにしまう。カチッという金属音が室内に響き、それに驚いて青年は肩をふるわせた。


「それで?」

「それだけ。昨日ヴォルフさんに“友達だったことは忘れて欲しい”なんて伝言を頼んだけど、考えたら向こうはそんなこと、とっくの昔に忘れてるに決まってる。最後に会った時、殴りつけた相手なんだから。ホント、くだらない伝言をした」

「けどお前は抵抗もせず俺に付いてきて、逃げるわけでもなくずっとここにいる」

「あんたの言うことが本当だったら、あいつはオレになにをさせようとしているのか気になっただけ。でもオレを始末したいなら早くやれよ」

「ずいぶん諦めがいいな」

「支配者に逆らったらどうなるか分からないほど、オレも馬鹿じゃないぜ。故郷の家族に迷惑をかけるぐらいなら、大人しくやられる。今度こそ逃げない」


 ワケありげに“今度こそ”と言った青年は、怯えた目でタナトスを見た。

 どんなワケかは知らないが、興味がないのでそれには敢えて触れず、ナイフの刃を引き出して、男の頬に当てた。


「じゃ、大人しくやられてもらおうか」


 ヒッと小さな悲鳴を上げ、それでも歯を食いしばる様子は実に心地よい。こうでなければならないし、こうであるべきだ。

 今この瞬間、俺が支配したと思えればそれで満足するものを、恐怖を前にしても顔色一つ変えずにいるから気にくわないのだ。


(そうだ、支配だ。俺はあのガキを支配したいんだ)


 閨でもいい、穴蔵でもいい。俺の汚れをなすりつけ、お前の支配者だと教えてやりたい。あの顔を恐怖に歪ませ、泣きながらすがりついてくる姿を想像すると、ゾクゾクしたものが背中を這い上がった。

 前にいる青年は完全に怯え、青くなって震えている。皇帝の代替え品にはならないが、多少気分が良くなってタナトスはナイフを頬から離した。


「皇帝に許しが欲しいか?」

「――それは……」


 固く閉ざされた目がゆっくりと開く。恐怖が涙となって目尻に浮かんでいた。


「皇帝陛下には今、沢山の敵がいる。あのエルフもその一人だった。だがエルフだけじゃなく貴族にもギルドにもまだ残っている。そいつらを皇帝が一人一人片付けていたら、いつまで経ってもこの国は動き出さない。分かるだろ?」


 ほんのわずかに相手が頷いたのを見て満足し、タナトスは先を続けた。


「お前は一昨日、俺が皇帝を好きなのかと言ったな? ああ、そうだ、俺はあの方の下僕として仕えたい、あの男のように」

「あの男って……」

「言うまでもないだろう。あいつは皇帝を守っているかもしれないが、俺も皇帝の命令で何度もこの手を血に染めた。とても満足して下さってるよ。だからもしお前が皇帝に許しを乞いたいのなら、協力させてやるって言ってるんだ」

「でも……」

「友達に戻りたいんだろう?」


 その瞬間、青年の目付きが変わったのを見て、タナトスは大いに満足した。


(自分はすべての者を地の底へ堕としていく運命にあるんだと、苦しめ、嘆け)


 そうして地の底から俺がお前を支配する。




 夜の帳が下りるをの待って、二人で穴蔵のような部屋を出た。

 街は昨夜よりも人で賑わっていた。道の両脇には野菜やパンを乗せた荷車が数台並ぶ。群がる者たちは、物が悪いだの値段が高いだの文句を言いつつ金を払っている。配給が減った最近では、近くの農夫が売りに来るこうした露天が生活の糧だ。

 北地区には原型もわからないほど壊れた家があちこちにあった。しかしいつも踏みつけられている平民は立ち上がるのも早い。その証拠に、足元もおぼつかない酔っぱらいや、物乞いをしている子供や年寄りや、客引きをしている女が数人が角々に立っている。路地裏では怪しげな赤い液体を、ハンター崩れの男から受け取っている者もいた。

 天子が住む帝都とは思えぬ情景に、タナトスは口の端を上げた。

 しかしのんびりと眺める暇はなく、憲兵に見つからないように早足で通り過ぎる。着慣れない黒いシャツは、軍服や制服よりも目立ってしまうような気がしていた。


「どこに行くんだよ……」


 タナトスの隣を歩く青年が、切れ気味の息でそう言った。憲兵をしてたとは思えないほどの有様に半ば呆れ、使い物になるのだろうかと半ば疑う。


「お前、名前は?」


 一瞬怯んだ相手だが、すぐにモグモグとした声で“スティール”と呟いた。


「ではスティール」

「なんだよ……」

「黙って付いてこい」



 北地区から帝都中央にある丘の横をやり過ごし、しばらく行くと西地区に到着した。

 憲兵たちのの目を気にしつつ道を進む。すると辺りの雰囲気が変わっていった。通行人の数が減り、露天も出ていない。形も大きさもまちまちな石が並べられているガタガタの道から、形が整い、凹凸もなく、ところどころ幾何学模様を綺麗な石畳に変化した。

 しばらく行くと、一昨日の事件で壊れたらしい屋敷が数軒あった。道も所々えぐれていて、それは北地区と同じ状況ではあるのだが、どの屋敷も憲兵たちが守っていた。


(さすがは貴族様。扱いが違う)


 きっと修復も速やかに行われることだろう。

 そんなことを考えつつ、以前下見した脳内の地図を頼りに歩いて行くと、古い噴水のある公園が右手に現れる。憲兵の姿がないことを確認し、さらに歩を早めて、奥にある樹木の陰へと隠れる。大人しく付いてきたスティールも渋々と薄闇に身を潜め、タナトスの隣に立ってチラチラと不安な視線を投げかけてきた。


「問題はここからだな」

「もしかして貴族を……?」


 今頃になって急に怖じ気づいたような男の腕を掴み、タナトスはふたたび例の殺し文句を口にした。


「お前ももう泥船に乗ったことを忘れるな」


 あのエルフの女に使ったのと同じセリフだ。スティールもそれを覚えていたらしく、ますます怯えた目になった。


「心配しなくてもいい、今日は下見だ」

「まさかと思うけど、リマンスキー子爵のお嬢さんじゃないよな?」

「リマンスキー? ああ、あの娘か。いや、その予定はない。相手はある侯爵だ。かなり鼻持ちならない男で、皇帝陛下を見下している。貴族院の議長的立場にあり、貴族たちへの影響力も徐々に強めているようだ。いずれ彼らを結束させて、反逆の意を示すことになるだろうと陛下も考えている」


 貴族界のことなどなにも知らないだろう相手は、疑うような目付きになった。

 タナトス自身も本当のところはよく知らない。宮殿にいた頃に召使いやコックたちから聞いた話と、皇帝に対するあけすけな態度を何度か目にして想像しているに過ぎなかった。


「疑ったところで、お前の意思なんて関係ない。俺たちは受けた命令をこなすだけだ」

「本当にユーリィは……皇帝はその侯爵がいない方がいいと思ってるのかよ?」

「陛下がアーリング将軍を排除した事実は、さすがに知っているだろう? 治政のために邪魔者は排除するのが、陛下のご意思だ。あの方は平民たちを安堵させたいと願っている。“友”だったんなら、ご性格は分かるな?」


 それはタナトスも認めるしかなく、だから自分に向けられた言葉も感情もその他大勢、たとえばあのチョビ髭男とさして変わらないのだと思うのが辛かった。


「侯爵の屋敷はこの先にある。憲兵が定期的に巡回しているが、侯爵自身はほとんど宮殿にいる。数日に一度、あそこに戻っているようだが不定期だ」

「不定期って、いつ来るか分からないってことだよな? あ、まさか屋敷の中に隠れてて、来たら襲う……」

「一日程度ならまだしも、三日も四日もとなると無理だろうな」

「じゃあ、どうするんだよ!?」

「この辺りにきっと……」


 噴水のところまで戻り、馬の彫刻が吐き出す水を眺め、それから下に溜まった水を見た。

 コップに入れた水と同じような匂いがしている。暗くて見えないが、たぶん相当汚れているだろう。

 問題はこの水がどこから出てきているということだった。


(俺の記憶だとソフィニアには……)


 噴水をぐるりと周り、それらしき場所があるかどうか確かめたが見つからなかった。

 曖昧な記憶を頼るにするものじゃないなと半ば諦め、元の場所に戻る。スティールはずっとそんなタナトスの動きを注視していた。


「なんで噴水を……?」

「お前はソフィニア出身じゃなかったな、確か。なら知らないか」

「なにを?」

「この辺りは地下道があって、屋敷の地下に繋がっているらしいって話を聞いた。水溝もあるらしい。だとしたら、噴水はその上水溝に通じているだろうと思ったんでね」

「ああ、それなら……」


 スティールは記憶を引き出そうとしているのか、上目遣いで少し考えて、それから自信なさげに話し始めた。


「この街を作るために採石を地下でやって、その穴を繋げて通路にして、地下水と湖の水を流して、上水溝と下水溝を作ったって話は、オレも魔法学校で習ったよ」

「おおむね、俺が知ってることと一緒だな」

「でもここだけじゃなくてソフィニア全部。古い井戸はその上水溝と繋がってるらしい。でも王宮時代、その井戸を使うのに税金掛けたり、水売りが登場したりして、あとは所々壊れて、上水と下水が混じったりで、今は放置されてる」

「そういうことか……」


 噴水の水も、コップの水も濁っている理由がようやく分かった。あの水も、裏路地にある小さな井戸からくみ出したものだ。


「井戸か。だが人が入れるほどの幅がある井戸は見たことがないな」

「丘に……」

「丘?」

「丘の入口に結構大きいのがあったような……」

「ほぉ」


 思いの外スティールは使えそうだ。しかも作り話を真に受けている。


(あとはどうやって、こいつにやってもらうかだな)


 闇に染まった手のひらに、生暖かい血が滴り落ちたようだ。

 そんな感覚を味わい、タナトスの胸は久しぶりに踊っていた。


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