第148話 重ねた沈黙
目が覚めたらすでに昼を過ぎていた。完璧に熟睡していたことに驚き、ユーリィは呆然とした面持ちで体を起こした。
自分には人並みの体力がないことを、そろそろ認めなければならない。男らしくなんて夢のまた夢。ならば皆が言う“美しく”や“可愛らしく”という方向で___
(うー、なんか認めたら負けな気がする)
それにしても、出会った時にはあれほど嫌悪感剥き出しだった男が、いつの時点で良からぬ欲望を抱くようになったのか。
(あの隠れん坊の時……?)
今考えればかなり密着した状態だった。
そのせいであの男の欲情を呼び起こしたのだとしたら____
(ってか、密着しただけでそんなこと思われるのが問題だし!)
自分から発せられるなにかがそういう気持ちにさせるのだとしたら、呪い以外のなにものでもない。
(まさかあの呪い、本当は解けてないのかな?)
しかし自分の匂いを嗅いでみたがなにも感じなかった。
(それより問題なのは、ハーンを拒絶できないということの方)
あの男以外にも、不本意ながら言い寄られた経験は何度かある。けれど気持ちより先に体が反応してしまうのは初めてだった。
欲情を知ってしまったせい?
自分の中のなにかが狂ってきている?
父親を殺しただろう相手を憎めるないから___?
(憎む……か……)
憎しみがなにかは分かっている。ドロドロとして、闇に堕ちていくようなあの感情だ。
途端、なにもかも破壊したくなったあの時を思い出し、恐怖が蘇った。
自分が自分でなくなり、抜け出せない闇に支配される感覚。それは死よりもずっと恐ろしくて、ユーリィは身震いをした。
(だけど、レネを取り戻さなきゃ)
レネのおかげで助かったことは数え切れないほどある。魔力を使えるのも、結局はレネが補佐してくれるからだと思っている。だから剣が戻ってこなければ、半身が失われたように己の力の無さをますます実感するだろう。
剣を振るう時だけが、今自分に残された自由だというのに。
それなのに剣を返して欲しくば、憎めとあの男が言った。
思い詰めたような暗い表情で、“俺を憎め”と。
それはつまり____
(つまり、えっと、だから、どういうこと!?)
要求に具体性がない。なさ過ぎて、なにをどうしたらいいか分からないレベルだ。
「いったい僕になにをしろって言うんだ」
「できればお着替えをしていただけると……」
「うわーーっ!!」
飛び上がるほど驚いた。独り言を聞かれた気恥ずかしさに顔から火が出るような思いで、天蓋から下がるレースの布越しに、痩せこけた女を睨み付ける。
「なんでそんなとこにいるんだよ」
「お声はかけました」
「嘘だ」
「嘘ではないです。それに、いつものことですし」
「ぐっ……」
思念の海に沈むと、目も耳も機能しなくなる自覚があるだけに反論できない。しかたなくブツブツと口の中で文句を言うに留めて、ベッドから降り立った。
膝まである被りの寝間着しかも裸足でうろつくのは、かなり行儀が悪い行為だけれど、見ているのがコレットだけなので貴族礼法なんて糞食らえだ。
(こんな服を着せるのが悪い)
力足で無駄に広い寝室の中央にあるテーブルへ近づいて、置いてあった水差しの水をぶちまけるようにコップに移し、一気に飲み干す。ひんやりした喉ごしは、ついさっき汲んでくれた為だろう。だから少しだけ気分が晴れた。
「あの……ご気分を害されましたか?」
「別に」
「そうですか」
振り返ると、薄紫の洋服を抱えたコレットがまだベッドのそばに立っている。フッと小さなため息を吐いた彼女に、初めて会った時のようなみすぼらしい雰囲気はほとんど残ってはいない。だからユーリィは、あることを尋ねてみようかという気になった。
「あのさ、ちょっと聞いていい?」
「なにをでしょう?」
「最初に言ってた“片腕のない旦那”とか、全部嘘なんだろ?」
「それはセグラス様がそう言えと……」
「セグラス様ね」
ユーリィの指摘に、コレットはわずかに動揺したしたようにわずかに身じろぎした。
「で、いつからジョルバンニに仕えてるの?」
「あの……」
「ジョルバンニには黙ってるから」
「ええと、五年は経っていないかと……」
「ずいぶん前からなんだね。あいつ、そんな前から間者を使ってるの?」
「昔はギルド内部での権力抗争が酷かったので、足元を掬われないためだと仰り、私もそのつもりで情報収集をしてました」
「ふぅん」
味も素っ気もない答えにユーリィは少々がっかりした。コレットからハーンへと繋がる糸口が見つかるかもしれないという考えは甘かったのだろうか?
「厨房にも一人いるよね、僕の食事に毒を盛ってた奴。ああ、それと配膳係にも」
「毒ではなく、眠り薬だと言われました」
「どうだか……」
「本当です」
「まあいいや、済んだことだし。それに僕にも間者がいる」
「ええ、存じてます。召使いの二人が私たちを見張っていますよね?」
反撃したつもりなのか、コレットの痩せこけた顔が少し得意げになって、ユーリィはおかしくなった。
「あいつら兄さんが使ってた連中。でも“あんまり使えない”って言ってたんで期待はしてなかったけど、やっぱバレてたか」
「もし私が気に入らないと仰るなら――」
「同じことをしないなら別にいいよ。どうせお前がいなくなったって、ジョルバンニはまた僕を監視するだれかを送り込むだろうし。それに別のやつらの犬は、お前が追い払ってくれるんだよね?」
肯定とも否定とも取れる表情で、コレットは口をつぐんでしまった。
どうもイマイチ上手くいかない。なんとか繋げてハーンのことを探り出そうと思っているたけれど、話が微妙に変わってしまった。
いっそ直接的な質問をしてしまおうと、ユーリィは話を切り上げたがってるコレットを見つめたまま、声色を少し落とした。
「で、お前は暗殺ってしたことある?」
「あ、暗殺!?」
そう言って驚いた顔が、演技なのか本心なのかが分からない。しかし顔色で他人の気持ちを察するような能力はそもそも薄いのだからと早々に諦めて、ユーリィは先を続けた。
「どう? したことある?」
「ありません」
「今までジョルバンニが暗殺を企てたことは?」
「セグラス様が間者を使うのはあくまで情報収集のためで、ギルド法に反するようなことはなさいません」
「模範解答だね、まあいいや。じゃあ、前にここにいたタナトス・ハーンは覚えてる?」
「はい」
「今はジョルバンニに仕えているらしいけど、あいつに最近会った?」
「いいえ、一度も」
「本当に?」
「本当です」
一瞬たりとも目を離さないように真正面から女を見つめて、薄い能力でもなんとか感じ取れるようにと頑張ったものの、やはり嘘をついているようには思えなかった。
「お話はそれだけですか?」
「あー、うん、それだけ」
きっとこの女は、皇帝が話したことをジョルバンニに伝えるだろう。もしかたら、あの男からなんらかの反応があるかもしれない。
(あんまり期待できないか……)
完全に手詰まり。レネを取り戻す方法が見つからず、ユーリィは肩を落とした。
「あの余計なことかと思いますが、先ほどのように考え込むのは控えた方がよろしいかと。陛下が暗殺されてしまいそうで心配です」
「なっ!?」
反論しようと思ったが、真剣な瞳に見つめられて断念した。だれが実行するかは別として、あり得る話だ。
「さあ、これにお着替えください」
差し出された薄紫の服がさらなるダメージを食らう。金糸の刺繍がついたそれは、寝起きに考えた方向へと誘われてしまうような代物だった。
「僕はもう黒しか着ないって言ってある」
「シュウェルトさんが、黒はお似合いにならないのでダメだと申しておりました」
「エーッ、ヤダよ!」
口をとがらせ拒絶をすると、コレットはこわばっていた表情を緩めクスッと笑った。
「陛下は大人っぽいのか、子供っぽいのか、よく分かりませんわね。とにかく今日は大事な謁見の議があるので、新調したこれを是非にと」
「謁見の議って――」
その時、リビングへと繋がる扉が鳴った。間髪を入れず開かれたその向こうから、険しい表情をしたヴォルフが入ってきて、まるで威嚇するかのようにコレットを睨み付ける。それに気圧されて、女は服一式をテーブルの上に置くとそそくさと出ていってしまった。
「お前の正体が魔物だって知ってるみたいだね、彼女」
以前なら身分だのセシャール人だのと理由を作られ、近づくことも許されなかったのに。人間じゃなくなったことは悪いことばかりじゃないのかもしれない。そんな考えが嬉しくて、ユーリィは軽く笑ってみせた。しかしヴォルフは固い表情を崩すことなくこう告げる。
「親父に会って来た」
甘いひとときの期待が崩れ去り、現実へと引き戻された。口元を引き締め直し、禍々しくも煌びやかな薄紫の服へ視線を落とす。
「分かった。すぐ着替えるから、リビングで待ってて」
笑っている場合ではなかった。
数分後、二人はリビングの中央にあるソファに、向かい合わせで座っていた。
(レネをハーンに盗られたこと、ヴォルフに言わなくちゃなぁ……)
屋根の上にいたのがそのハーンだということを、ヴォルフも気づいているに違いない。しかも抱きつかれていたことも見えていただろう。それなのになにも言わないのはどう考えたらいいのか、ユーリィは少々混乱していた。
(なんか疑われてる……?)
まさかと思いつつも、過去のことを考えれば有り得なくもなかった。しかも色々言い訳できないことをしたし、されたしでこちらからあの男のことは言い出しにくい。
(ヴォルフが話題にしたら言おうかな)
もちろん一生言わないつもりでもなかった。
そんなユーリィの気持ちを知ってか知らでか、ヴォルフはまず自分の父親についてから話し始めた。
「セシャールの三人は、夕方までに港へ行き、明日の朝早く帰国する予定だそうだ」
「ああ、だから謁見の議なわけか」
「もう少しすればだれかが呼びに来るよ」
面倒臭い連中が消えるのが分かり、ユーリィは正直ホッとしていた。そのうちの一人がヴォルフの父親なので、もちろん口にはしなかったが。
「グラハンス子爵はなんだって?」
「セシャール人とは考えず、誠心誠意、皇帝陛下にお仕えしろと」
「あの人らしいね。でも難しい立場になってしまったんじゃないの?」
「確かにセシャールにも権力抗争のような確執が色々あり、俺がここにいればそれに巻き込まれるかもしれない。けれど気にするなと俺に言ったよ。あとは戴冠式でセシャールに来るなら十分注意して欲しいとも」
「あ、うん」
しばし沈黙。その間ヴォルフは口を開いては閉じたりして、なにかを言いあぐねている様子だ。他人の表情を上手く読めないユーリィでも、彼が迷っているのだということはさすがに分かる。
(ハーンのことかな……?)
しかし彼が次に口にしたのはまた別の話題であった。
「ベルベ島のことだが子竜は無事だ。ただ親竜との決着はついてないから近々また戻ることになるよ。ジュゼたちはちょっと色々あって、少し困ったことになっているが」
「困ったことって?」
「色々だ。だが心配はいらない。それにリュットが付いている」
その色々を聞きたいのにとユーリィが口を開きかけた矢先、ヴォルフの方が先に話題を変えてしまった。
「昨日の事件だが、死者が出ていたよ」
「貴族か?」
「いや、北地区に住んでいた老人二人。崩れた家の下敷きになったようだ」
貴族でないことにどこか胸をなで下ろす自分がいて、それが堪らなく嫌で、ユーリィは視線を落とす。落とした先にあるテーブルは、金の縁取りと、色とりどりに染められた小花の飾りがついた王宮時代の遺物である。それを見て、ますます凹んでしまった。
こんな場所にいなければ、大切な者たちのところへ今すぐ行っただろう。
きっとそうしただろうに。
「それともう一人、ラシアールの女が瀕死の状態で見つかった。犯人の男と一緒にいたらしいが、共犯だったかどうかは不明。ブルーは違うと言い、証人も一応いる。手を下したのは憲兵の一人。名前は“カイ・ルオス”、身分証が残っていた」
「偽物だろ?」
「いや、三日前に発行された本物。けれどジョルバンニは発行した記憶はないとは言っている。半月前、全員に配ったあとは一度も発行してないそうだ。ディンケルは議長を完全に疑っている。彼はイワノフ公爵暗殺もジョルバンニが一枚噛んでいんじゃないかと打ち明けてくれた。ただし証拠はないとのこと」
一枚どころか首謀者だろうとユーリィも思っていた。けれどジョルバンニを今すぐ排除すべきかどうか迷っている。それに一つだけ不可解なことがあった。
「でもさ、疑われるのは目に見えているのに、本物だって言ったのはなんか変だよね。あいつが偽物だと言えば、だれも疑わないだろ?」
「あれだけ嫌っていたジョルバンニをなぜ庇う?」
探るような目付きで見返され、その理由が分からずにユーリィは少々戸惑った。
「か、庇ってなんてないよ。疑問に思ったことを言っただけ」
「本物だと証言したのは、補佐官のバレクという男だ。身分証の刻印はジョルバンニが管理して、発行台帳にもその名前が残っていた。もちろん議長自ら刻印を押しているわけではないが、発行された身分証と台帳の照らし合わせはしているらしい」
「本物の“カイ・ルオス”がいて、そいつから盗んだ物かもしれない」
「その辺りも含めて調査中だ」
一度言葉を切った彼は窓の方へと顔を向け、それに釣られてユーリィも外を眺めた。
空は夏らしい深い青色。遠くには、綿を積み重ねたような白い積乱雲があった。
天候を気にしなくなってどれくらい経つだろう。これからずっと室内でだれかと話す日々を暮らすことを思えば、飛び去る鳥の群れが羨ましい。もしあの中の一羽が自分だったら、今見ているのはテーブルに刻まれた花ではなく、萌える草原と畝る川。そんな景色が脳裏に浮かんで流れていった。
(そういえば昔もそんなことを想像してたなぁ。でも幽閉されていた時はただの想像だったけど、今はフェンリルの上で見た記憶だから少しはマシか)
心はいつも自由に焦がれる。
きっと一生消えない気持ちだ。
「―――リィ?」
久しぶりに呼ばれた名前に、ハッと我に返る。本日二度目。
「ゴメン、聞いてなかった」
「いつものことだ」
「コレットには暗殺されるから気をつけろって言われたよ」
あまり上手い冗談ではなかったので、ヴォルフはいっさい笑わなかった。笑わないどころか目尻がピクピクと痙攣している。ユーリィも言わなければ良かったと思ったが、後悔先に立たず。
「それからアルベルト・オーライン伯爵と少し話をした」
「へぇ、なんだって?」
するとヴォルフは二人しかいない室内をきょろきょろと見回し、次いでおもむろに立ち上がり、廊下に繋がる扉まで行って外を眺めて戻ってきた。
「なんだよ、その儀式」
「外にいる衛兵たちに話を聞かれる可能性は?」
「そんなデカい声で話すつもりか!?」
「それなら大丈夫だな」
そう言いながらも彼はふたたび室内を見回し、ようやく声を殺して話を始めた。
「アルベルトによると、ミューンビラー侯爵いか数人が、秘密の集会を開いているそうだ。もしかしたら良からぬ陰謀を企んでいるかもしれないと言っていたな」
「へぇ……」
「さっき言っていた暗殺の可能性もあるとも」
「ふぅん」
驚きはしなかった。想定内であるし、むしろ今さらという気持ちでもある。彼らの動きが鈍いのは、混乱した状況を自分たちで収めたくないから。ある程度落ち着けば、頭のすげ替えを考えるだろう。それと、フェンリルやレネの存在も大きかった。
「ふぅんじゃないだろ。分かってるのか?」
「分かってるよ。そもそも支配者になる道を選んだ時から、それは覚悟していたし」
「覚悟なんてしなくていい」
またもやヴォルフは黙り込む。これで三度目だ。だからユーリィも思念の海へ三度目の潜水をすることにした。
(レネを盗られたこと、言わない方がいいか。ますます心配しそうだし。ジョルバンニにも、ミューンビラーにも知られたらマズい。そういえば、バレクって男もよく分からないな。ジョルバンニの手下だと思ってたけど)
もしもジョルバンニが従兄弟に裏切られているとしたら小気味がいい。ざまあみろとまでは思わなかったが。
それから過去や現状や予想や可能性や疑惑などを、浮かんでくるに任せて取り留めなくあれこれ考えた。
「おい、ユーリィ、起きろ」
「え、なに?」
「また考え込んでるぞ」
「ヴォルフが黙り込むからだろ!?」
「すまん。ちょっと言いにくいことがあって……」
「そんなの最初から分かってたよ」
言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに、グズグズと煮え切らない態度でいるお前が悪いとユーリィは恋人を睨み付けた。
「さっき証人って言ったのを覚えてるか?」
「刺されたラシアールの女は共犯者じゃないって言ったっていう証人?」
「その証人っていうのは―――――」
その名前を聞いて、一瞬息が詰まる。胸の奥に刺さったままの棘が、チクリチクリと心を刺激した。
「あいつ……故郷には戻ってなかったんだ……」
「ずっとソフィニアにいたらしい」
「なんで憲兵に?」
「それは聞いてない。というかほとんど話は出来なかった。君宛の伝言を頼まれただけだ」
「伝言?」
「友達だったことは忘れてくれと」
「そんなの……」
とっくの昔に忘れている。
憎まれた瞬間から、僕は友達なんていらないと諦めて。
“オレは友達第一号なんだね”
そう言われた瞬間の喜びも全部捨て去って。
「そういう目をして欲しくないから、言い出しにくかったんだ」
「ヴォルフは色々気にしすぎ」
「なら、気にしすぎついでにもう一つ聞きたい。昨夜あの屋根の上にいたのは、タナトス・ハーンだな?」
やっと来たか。
ユーリィは小さく頷き、それから身構える。
どこまで言うべきか、どこまで言っていいのか、まだ覚悟は出来ていない。
「ラシアールの女を刺したのもあいつだな?」
「たぶん」
「公爵を殺したのもハーンか?」
「可能性はある」
「それなのになぜハーンを放置してるんだ?」
「放置なんてしてないよ。証拠がないだけだ」
「君の立場を以てすれば、証拠なんかなくてもヤツを捉えて、処刑はできる」
「しなければならなくなったら、そうするさ」
「つまり、今はしたくないってことか?」
揚げ足取りに辟易として、ユーリィは口を閉ざした。
だけど自分でも分かっていた。
どうやってもタナトス・ハーンを憎むことできないことを。憎まれるのは当然だと諦められても、執着されることを拒絶が出来ない。ずっと無視をされて育ってきたから、どうしても出来なかった。
「ユーリィ、どうなんだ?」
「どうって言われても……」
「それともあいつを庇いたい理由があるのか?」
「そんなつもり、ないし」
「昨日あんなことをされたのになぜ怒らない?」
「怒ったよ、お前が見てなかっただけで」
「だがハーンの話は極力避けたがってるな?」
執拗な追及に、視線が泳ぐ。
(僕だって、まだ迷ってるのに……)
皇帝という立場とレネを失った不安、ヴォルフへの想いと裏切ったという罪悪感、ハーンの人生を狂わせてしまった負い目と交わした会話。それらすべてがグチャグチャに折り重なる。心の落としどころが見つからなかった。
「それともあの男に仕事をさせているのは君か?」
「え……!?」
「公爵が殺されて一番得をするのは君だ。ジョルバンニを庇うのも、コレットを追い出さないのも、ハーンを捕まえないのも君が指示したことだからか?」
「なに言ってるんだよ、お前」
「それが皇帝としての必要悪だとしても、まさかジェイドまで利用するつもりじゃないだろうな?」
「ふざけんな!!」
一瞬にしてなにかが吹っ飛び、なにかが突き刺さる。だから腹立ち紛れに立ち上がり、扉を指さした。
「くだらないこと考えている暇があるなら、お前はベルベ島に帰れ!」
四度目の沈黙はそれまで以上に重苦しく、泣きたくなるほど辛かった。だからもし次に沈黙が破られた時は怒鳴ったことを謝ろう。そしてちゃんと話すんだ。そう決めてユーリィはひたすら待った。
けれどヴォルフは二度と口を開かず、そのまま部屋から出ていってしまった。
閉じられたその扉を呆然と見つめ、後悔を繰り返す。
僕たちはまた、ボタンを掛け違えてしまったと――――。