第141話 君側の奸 前編
『少女は王様にこう言いました。“私は貴方のお命を救いました。食事もご用意しました。ですから私になにかをくださいませ” けれど王様は少女に与えるようなものを何一つ持っていませんでした。すると少女はふたたび言いました。“でしたら、私を王女にしてください。そうすればみな、私に跪くでしょう”』
――『カンティバ王物語』より
久しぶりに夢を見た。
どんな内容だったかは忘れたが、養父と養母が出てきたことは間違いない。
しかしそれだけだ。感傷に浸れるほど、タナトスは家族に愛情を抱いていなかった。
そのことを不思議に思っていたが、理由を知れば納得はできる。自分の場所はここではないと幼心に気づいていたのだ。
そして、今もここではないと感じている。
広くはない半地下の室内はカビの匂いが充満していた。天窓からは差し込む薄い光が朝日か夕日なのか。体がやけに気怠くて、もう少し寝ていようかとぼんやり考えた。
(喉が渇いたな)
ベッド際のサイドテーブルを見やる。水差しの横に空の酒瓶が、数時間前の自分を思い出させてくれた。
あの城から昨夜ソフィニアに戻ってきたのだった。馬は途中で農家らしき庭先に繋いでおいた。ここまで連れてこなかったのは、なるべく目立ちたくなかった為。それでもほんのわずかに名残惜しさを感じて、自分に言い訳をする。
(もう俺は世話をしてやれないから……)
だから、平穏な日々は馬にくれてやった。
ソフィニアに戻ってすぐ、タナトスはジョルバンニの従兄弟だというあの男に連絡を取った。町外れにあるガラス屋に伝言を頼むのがいつもの連絡方法だ。半時も待たずに、以前に連れてこられた建物に行くようにと指示を受けた。
深夜に一度その男が現れて、酒と着替えと軽い食事を置いていった。当分はここから出ないようにと言われたが、あの城でのことは一切聞かれなかった。
(ヤツは知ってるんだろうな、俺がなにをしたかってことを)
もちろんジョルバンニが指示したのだから、その手下が知っていても不思議ではない。しかし無視されたような対応には腹立たしさを覚える。
それ以上に腹立たしく思うのは、会いたいという気持ちが抑えられない自分自身だ。
魔法のせいだと何度思っても、指が覚えている肌触りが、鼻が覚えている芳香が、唇が覚えている潤いが、欲情を呼び起こす。
きっと俺は気が狂ったのだろう。
そう思うよりなかった。
(いずれ手に入れるさ)
その時は、喉が枯れるほどむせび泣かせてやる。あの生意気な顔が、卑猥な表情になることを想像しただけでゾクゾクした。
きっともう父親が死んだことは伝わっているだろう。
そしてだれが手を下したかも分かっているはずだ。
とりあえず水でも飲もうと体を起こすと、途端に毛布から埃が舞って、薄明かりの中を漂っていく。結局はここが俺には似合いの場所だ。意味もなく薄笑いを浮かべ、水差しに手を伸ばし、直接口を付けた。
夕べは深酒が過ぎたようだ。
(もうそろそろ、あっちは片が付いても良さそうな頃だな……)
今頃は、あの魔物に乗って嬉々として戦っているのだろうか?
「チッ……」
舌打ちで苛つきを抑えて、水差しをテーブルに戻した。
平穏はいらない。欲しいのはただ一つ。
あの魔身のそばにいて、俺のことを考えているなら、今はよしとしよう。
そんなことをしばし考えていると、やがて室内が薄暗くなっていくのを感じた。
窓から差し込む光が赤く変わっている。この時になって初めて、ほぼ丸一日寝ていたことを知った。
水差しの隣にあったランプに火を灯すと、夕日は薄らいで、部屋の隅に闇が現れた。
また夜が来る。
いったい何日ここにいればいいのだろう?
そう思った時、存在すら忘れていた扉の向こうに人の気配がした。
向こう側には木箱が積み上げられている部屋がある。椅子も机もなく、上に登るハシゴと外に繋がる扉があり、前回も昨夜もそこでバレクと話した。だからあの男が来たのかと思ったが、室内をうろつき回る足音が軽かった。女のようだ。
あのエルフだろうかと、そっと開けた扉の隙間からのぞき見る。すると予想通りの相手がそこにいた。
手にしているランタンの光に浮かぶその表情はずいぶんと険しい。なにか焦っている気配も感じられた。
(まさか皇帝になにかあったのか?)
嫌な想像が浮かんでついノブから手を離すと、扉は軋みながら開いてしまった。
「ひぃっ!?」
軍服を着た女が、悲鳴を上げて後退る。すぐ相手がタナトスだと分かったようだが、怯えたような表情は消えなかった。
「な、なんでここに……」
「ねぐらを借りてるだけだ。あんたこそ、なんの用だ?」
「あなたには関係ないわ」
「ずいぶん苛ついていたみたいだな。緊急事態ってやつか?」
「だからあなたには関係が……」
「魔将軍も反乱を起こしたか?」
「ちがっ……、ブルーは討伐軍として出かけてるわ!」
「そこを否定するってことは、反乱が起こるって言ってるようなもんだ」
「そんなの揚げ足取り」
「今度はラシアールか。皇帝陛下もなかなか多難だな」
「一部だけよ」
ぽそっと呟いた女はしまったという表情になり、外へ通じる扉の方に視線を向けた。
ここで出て行かれては面白くない。新たな事変は新たなチャンスでもある。皇帝には何度でもこの存在を思い出してもらわなければならないのだから。
タナトスは足早に扉の前へ移動して、女の視線を遮った。
「な、なに!?」
「俺がここにいるのを承知でここに呼びつけたってことは、俺に聞かれても問題ないと思っている証拠だ。むしろ俺に相談しろというつもりなのかもしれないな」
「そんなの、勝手な解釈ね」
「いいから言ってみろって。俺になにかできるかもしれないだろ? 俺たちは同じ泥船に乗った仲なんだから」
最後の言葉が効いて、女は肩の力をわずかに抜いた。
「……いいわ、話だけはする」
女が語った事情は、思った以上に深刻で急を要していた。
一部のラシアールが反乱を起こそうとしているのは確かなようだった。この街を占拠する計画を立てていて、動き始めているらしい。
「一部ってどれくらいだ?」
「たぶん数名。大した人数じゃないなんて思わないでよ」
「魔物一体でもかなりの破壊力だからな」
「ラシアール全員が使い魔持ちじゃないけどね。どっちにしても、人間のあなたにできることはなにもない。彼らはその人間が気に入らなくて暴れようとしてるから」
「そのことはあの男に伝言したのか?」
「ブルー将軍と連絡を取りたいと伝えただけ」
「自分で行けばいいんじゃないのか、使い魔でピューッと」
「ソフィニアにいるラシアールは無許可で召喚できない規則があるの」
「へぇ……」
どうも焦臭い匂いがする。それにバレクも、この女も対応がおかしい。バレクが女をここに呼び出す理由はないし、女は女でギルドに頼むのではなく上官にでも相談すればいい。
このことから、タナトスは二つの結論を導き出した。
「それでここに呼び出されて、のこのこやってきたってわけか」
「しかたないじゃない……」
「バレクが俺になにかをさせようと考えているのは間違いないようだな」
小馬鹿にしたような表情で、女の細い眉が軽く上がった。
その過小評価に満足して、タナトスは見なかったことにした。今は手の内を晒さない方が得策である。
「もしかして暴れようとしてるのは、あんたの上官か?」
「違うわ」
「今さら嘘吐くな。長老連中や上官に頼まずここに来た理由がそれ以外あるか」
「上官って言うか……まあ、上官ね。ブルー将軍の副官よ」
「名前は?」
「ミラン」
「名字だ」
「エルフが家族名を晒さないのを知らないわけじゃないでしょ!」
どうやら戦法を変える必要があるようだ。この女はバカではないが、浅はかではある。タナトス自身はくだらないと思っている“情”というものに訴えてみようと考えた。
「なぁ、なんであんたが俺に敵意をむき出しなのか分からないんだが?」
「信用できないからに決まってるでしょ。あなたはソフィニア人じゃないんだから」
「ソフィニア人ではないが、皇帝陛下に仕えたいと思ってるのは確かだ」
「その陛下に捨てられてくせに」
険しい表情を消さない女に、タナトスは真顔で答える。
「ああ、そうだ。少々愛情を出しすぎたせいでね。だからこれから私欲じゃない忠義だとあの方に知ってもらいたいと願ってる」
真実ではないが大嘘でもない自分の言葉に吐き気すら覚えた。それに耐えて、女の反応を静かに待つ。
果たして、女はフゥと吐いた息とともに、肩の力をわずかに抜いた。
「分かった、ちゃんと話すわ。でもその前に、私たちが乗っているのは泥船じゃなくて、黄金の船だって言わせて」
「なんでもいいさ、沈まなければ。で?」
「できれば未然に防ぎたいの。長老に言ったら、ミランたちの処罰は免れないから、その前にブルーにどうにかして欲しいと思ってる」
「将軍がその処罰をしないと思う根拠は?」
「私とブルーとミランは幼なじみで、赤ん坊の頃から互いに知ってる仲。あんなことがなければ、みんな普通の生活をしてたはずよ」
組織に私情を挟むなど愚の骨頂だと、タナトスは心で悪態を吐いた。もろん自分も私情で動いていることは忘れることにして。
「それにミランのせいじゃない。ククリが一人紛れ込んでて……証拠はないけど……。ブルーの親戚ってことで配送部配属になった男よ。でもその男が来てから、ミランの様子がおかしくなったの。ブルー自身も魔法をかけられたんじゃないかって疑ってるわ。親族という記憶が曖昧だって。だから私がその男を調べように頼まれていたんだけど……」
「配送部ってことはギルド所属か」
「そういうことになるわね」
例の休戦協定があって、ククリは正面からではなく搦め手で攻めてらしい。なかなか面白いことになりそうだ。特に魔将軍とその幼なじみが関係していると思うとワクワクした。魔将軍は、皇帝が絶大な信頼を置いている男だ。
またあいつは、俺のことを思い出すはず。
これからもずっと、皇帝の前に落ちているゴミを取り除き、何度でも思い出せてやろう。そして最後には___
「どう、わかった?」
「なにがだ?」
「あなたに出来ることなんてなにもないってこと」
「さて、それはどうかな」
とは言ったものの、今のところ女の言うことに反論できる材料はない。
(どうやって俺が入る隙を作るかだ。うまいことククリの犬と副官を始末する方法があればいいんだが、エルフ絡みとなると少々厄介だな……)
その後、あれこれ考えてタナトスは沈黙をした。女は女でもう話す必要はないと思ったのか、そんなタナトスを無視してイライラと扉の前を行ったり来たりを繰り返していた。
やがて女は帰ると告げた。諦めたらしい。または他の手段を思いついたのか。いずれにしても彼女がもう一瞬たりともこの場に居たくないという顔をした時、まるでタイミングを見計らったかのように扉が開いた。
「待たせ過ぎよ! それに私はブルー将軍に連絡したいと頼んだだけなのに」
顔を見るなり文句を言い始めた女に、入ってきたバレクは極めて素っ気ない態度で、「分かっています」と答えた。
「分かってる……?」
「貴方がなぜ将軍と連絡を取りたいのか、その理由です。謀反が起きそうなのですね?」
「それは……」
「我々の情報収集力を過小評価しないでいただきたい」
「まだなにも起きてないし、本気で謀反を企ててるって証拠もないわ」
「まあ、そうですね。彼らはただ密会しているだけです」
女は本当に泣きそうな表情になった。男と女に友情など有り得ないと思ってるタナトスは、幼なじみ以上の感情があるのだろうと考えた。いずれにしても、ジョルバンニたちを頼ろうとするなど、つくづくバカな女だと哀れみすら感じていた。
「魔将軍には連絡をしたので安心して下さい」
「シュランプ長老には……」
「我々からは伝えてません」
「だったらブルーが戻る前にもう一度だけ。私が必ず彼らを説得するわ」
「今夜も密会を開いているようですよ、あの酒場で」
「行ってみる」
ランタンを片手に飛び出していった女を、タナトスはもちろんバルクも引き留めなかった。ただお互いに分かっていたのは、もう今さら遅いということだった。
コホンと一つ、乾いた咳払いをしてバレクはタナトスへと向き直った。
「皇帝陛下は、すでに帰路についているようです」
「勝ったのか?」
「アーリング士爵と一騎打ちをなされたとのこと」
「また無茶なことを」
「お勝ちになったのですから、問題はありますまい」
その方法がタナトスには問題があった。
一騎打ちで想像できるのは、あの魔物の背中にいただろうということ。きっと嬉々として戦っていただろう。
忘れていた吐き気が、急にぶり返してきた。
そんなタナトスの様子など気にも留めず、バレクは話題を変えた。
「そんなラフな姿をしているのは、初めて見ましたね」
「あんたが渡した服だろ」
綿製の白いかぶりシャツに黒い半ズボンというこんな格好は、子供の時以来だ。軍人になってから特に、軍服以外はほとんど着たことがなかった。
「ああ、そうでした。憲兵の制服は?」
「ベッドに掛けてある」
「ならば、すぐに着替えてもらいましょう」
「どっかに出かけるのか?」
「その前に身分証をお渡しします。新しい名前はカイ・ルオス。着替えたら東に四ブロック行った場所で待っていて下さい。憲兵たちが現れるので、彼らに紛れてもらいます」
それから手を出せと促されて、手のひらに銀のプレートと金貨が三枚乗せられた。今のところ、彼らの金払いはすこぶるいい。もっともそれを使う機会は与えられてはいなかったが。
「で、行き先は?」
「密会が行われている酒場へ」
「それを予定しておきながらあの女を行かせるとは、想像以上にえげつないな」
「彼女の価値は、ブルー将軍と親しい間柄ということだけですから」
「どんな方法で騙した?」
「騙したとは人聞きが悪い。たまたまモデスト氏を毛嫌いしているのを知って、声を掛けてみたら乗ってきただけです。皇帝陛下とソフィニアの為にという言葉は、思った以上に功を奏しまして」
まるで偶然と言わんばかりの物言いだが、きっと前々から狙いを付けていたに違いない。ジョルバンニとはそういう男だ。
その後、バルクから計画の詳細を説明された。今現在、酒場にいるのは五人。うち一人はククリだと思われる男、もう一人は密通者とのこと。しかし店に居る者は残らず逮捕すればいいので、だれがククリでだれが密通者かは気にしなくてもいいらしい。店側にも、さらにシュランプ長老にも、今夜検挙することは伝えてあるそうだ。
「ちなみに、さきほど彼女に長老には伝えてないと言ったことは嘘ではありませんよ。ギルドからはあえて伝えてはいませんから」
しれっとした言ったバルクの顔は、穏やかな表情の中に悪意が満ちていた。
「魔法を使って抵抗する者がいたら、始末してください」
「もし逃げられたら?」
「すぐに陸軍へ連絡が行き、ディンケル将軍が非常事態宣言を発令する予定になっています。ラシアールにはシュランプ長老から伝令が飛び、ブルー将軍が戻るまでは待機を命じられるはずです。すべての使い魔は封印。もし召喚するような者がいれば、追放処分となるでしょう」
「あの爺さんへの鼻薬はずいぶん強力なようだな?」
「来年、我々は“シュランプ子爵”と呼ぶようになりますよ」
「なるほど。本当に想像以上にあんたらはクソだな。もちろん褒め言葉だ」
「褒められたついでにもう一つ。万が一、この街で戦闘が行われたとしても、皇帝陛下がお戻りになるので、なんの心配もしていませんと言っておきましょう。陛下のお力を民衆に見せつけるのもまた、我々の計画通りです」
なかなか楽しいことになりそうだと、タナトスは内心ほくそ笑んだ。俺の存在を皇帝に見せつけるのも、その計画に加えてもらおう。
さて、今回はいくつゴミを処分することになるか。その中にあの女を含めるのも悪くはない。
「そろそろ時間です。支払った金額分ぐらいは働いていただきますよ」
そう言って出ていこうとしたバルクだったが、扉に手を掛けたままふと振り返った。
「ところで、あなたはいつまで議長の犬でいる予定ですか?」
「どういう意味だ?」
「彼が永遠に議長の座にいるとは限りませんからね。足下を掬われることは、だれにでもあることです」
「だれが足下を掬うんだ?」
「さて、だれでしょうね?」
バレクが立ち去ったのち、タナトスはしばらく笑いが止まらなくなっていた。