第140話 皇帝の決意 後編
「よし、跳ね橋を降ろすぞ、フェンリル!」
命令が下された途端、俺は考えることをやめた。
使い魔として役目を果たさなければならない。
塔の上を半周ほど旋回し、城壁の上を越え、跳ね橋へと近づく。
橋には鎖が両側にそれぞれ三本繋がれている。それらを食いちぎると、向い側の崖めがけて、橋は一気に落下した。
轟音があたりに鳴り響く。その衝撃に岩肌が崩れ、鉄と木でできた橋も一部が壊れてしまった。
一瞬ひやりとしたものの、渡るには支障がさそうだ。そう安心したのもつかの間、城壁で呆けていた敵がこちらの動きに気づいて、ふたたび矢を放ち始めた。
「フェンリル、上昇しろ!!」
言われるまでもない。自分一人なら矢の一本や二本どうということはないが、主は絶対に守らなければならないのだから。
矢が届かない場所まで上がると、諦めた敵兵は我々と違う方へと矢を構え直した。方角は跳ね橋が繋いだ山道の先。刹那、登ってくる味方の姿が目に入る。
味方はまだ矢が届くほどの距離にはいなかったが、動きを止めるのに十分な一斉射撃に、進行を止めてしまった。
手を出すなと言われてはいたが、これでは埒があかない。
威嚇程度ならいいだろうと、炎を呼び覚ますべく口を開きかける。だが、その意志を察知したらしい少年が鋭く言った。
「フェンリル、手を出すなって言っただろ!」
異議を示すべく、首を巡らせて主の方を見る。
このままでは敵が近づけないと心で訴えた。
すると主はフフンと小さく笑い、
「しょうがないなぁ、ヴォルフは。フェンリルならちょっとぐらい味方がやられても気にしないだろうのに。でもいいや、本当に融合したんだって分かったからさ」
以前のように少しなじるような物言いが、嬉しかった。
改めて下を見直す。敵兵たちは次々に矢をつがえようとしているが、よほど慌てているのか手際が悪い。
「魔物の姿を見て、焦ったみたいだね」
どうやら少年も同じことを考えていたようだ。もっとも彼だけでなく、だれが見ても敵兵が右往左往していると分かるだろう。
「僕を甥殺しの悪者にしようにもモデストは人気が無さ過ぎたし、そろそろ食料も尽きてきた頃だから、兵士たちの志気が下がっていたしね。さあ、ベイロンがイライラしてるだろうから、やるなら早いとこ片付けようぜ。でも狙いは城壁だ」
少年の声は心なし明るかった。過去との決別をしたせいかもしれない。そう思うと嬉しくて暴れ回りたいのをぐっと堪えた。
「兵を威嚇する、殺すなよ」
念を押す声を聞きつつ、城壁に向けて小さな炎を二三度吐き出す。もちろん崩れるほどの威力ではない。周囲にいたブルーたちも城壁への攻撃を始めたが、俺を真似して威嚇程度のものだった。しかし塔の崩壊を目の当たりにした敵兵たちは、弓を掴んだまま蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。その様子を見て、無抵抗な奴らを脅すのはあまり面白くないなと思ったのが、俺にはなぜか新鮮だった。
「来たみたいだ」
そう言われて振り向くと、味方はずいぶん近くまで来ていた。
これで完全にアーリング軍に勝ち目はない。いや、最初から勝ち目などなかった。だから無駄な抵抗など止めて、早く降参すればいいものを。いくら英雄といえども多勢に無勢だ。だがアーリングという男は想像以上に往生際が悪かった。
突如、金属が擦れるような音とともに、アーチ型の大きな鉄門が二つに割れた。城壁に彫られた紋章をくぐり、一頭の馬が躍り出てきた。その背には鉄鎧の戦士が跨がっている。鼻と頬は鉄兜に覆われていたが、眼光鋭い双眸だけでそれがアーリングだとすぐに分かった。
「いよいよお出ましだ」
未だ少年の声は明るい。むしろ楽しげだと言っても良いくらいだ。きっと勝ち戦に浮かれているんだろうとそう思った。
彼だけではない。エルフの操る使い魔も上昇を開始している。だれもかれもこの戦いの終わりが近いと考えているに違いない。
だが実際に、そう考えていたのは俺独りだった。
あとで知ったことだが、エルフたちが離脱を始めたのは皇帝の指示によるもので、次になにが起ころうとしているのか、だれ一人知らないというのがこの時の状況だった。
「フェンリル、橋のたもとに降りて。山側の方だぞ」
アーリングに降参を促すつもりなのだろうと考えつつ、俺は言われたとおりに跳ね橋の手前に降りる。背後にはもう味方が集結していて、皇帝の動向を見守っていた。
「お前の負けだ、アーリング」
鋭く厳しい少年の声が飛ぶ。
すると、橋の中央まで来たアーリングはそれ以上に鋭い声で返事をした。
「負けてはいない! 戦いとは、最後までしてみなければ分かりませんぞ!」
「後ろにいる連中を犠牲にしてか?」
「私に従うと決めた時から、彼らの運命は私の手中です」
そんな運命は嫌なのか、アーリングの背後にいる兵士たちは城門の外には出てこない。司令官らしき二人の騎兵も、橋のたもとで動かなくなっていた。
だがそんな部下の気持ちなど意に介せず、英雄アーリングは大剣を振り上げ号令する。
「みなの者、我に続け!!」
英雄の絶対命令が下された。
戸惑っていた騎兵は手綱を緩め、半開きだった城門は内側へ大きく開かれ、中から槍兵が数十人流れ出てくる。城壁の上では、逃げ去っていたはずの弓兵がふたたび矢を構え直していた。
もちろん味方も大人しく見ていたわけじゃない。背後でベイロンの号令が飛ぶ。ブルーら使い魔も頭上にいた。
やがて両軍の鬨の声が、山肌にこだまする。そんな中、ベイロンが必死な面持ちで、俺の横へと馬を付けた。
「皇帝陛下、お下がり下さい!!」
もちろん、ベイロンに言われるまでもない。最前線から脱出すべく、俺が宙に駆け上がろうとしたその時だ。
「ちょっと待て!」
「なんですか!?」
「お前に言ったんじゃない、ベイロン。あいつに言ったんだ」
その言葉とともに、彼は背中から俺の横へと降り立った。
「ラウロ・ロベル・アーリング士爵、皇帝である僕から一つ提案がある!」
「提案ですと?」
和睦の提案だと思ったのだろうか。アーリングは振り上げた大剣をやや下げる。彼だけではない、俺もそれだろうと考えていた。
だが、若い皇帝の提案は予想の遙か上にあった。
「お前に一騎打ちを申し込む」
「一騎打ち!? だれとです!?」
「もちろん、僕とだよ」
馬上の男はハッと笑う。
それから、有り得ないというように小さく首を横に振ってみせた。
「その魔物と戦えと?」
「僕とだって言ったはずだ。僕も馬に乗る。それなら文句はないだろ。ただしエルフとしての誇りもあるから、魔法は使わせてもらうけどね」
冗談じゃない。
魔法を使ったところで、彼が馬上の猛者と戦うなど正気の沙汰とは思えなかった。体格だってアーリングの半分もないではないか。
またバカなことを考えているに違いない。
こうなったら俺がやってやる。
そう思って、橋の中央でこちらを睨んでいる男へと一歩踏み出す。
「止めろ、フェンリル」
すぐさま少年が目の前に立ちはだかった。
「これは僕の戦いだ」
そんなことは認められないと、少年に近づく。
だが彼はサッと後ろに飛び退いた。
「もう一度言う。これは僕の戦いなんだ、フェンリル」
青い瞳にはよどみのない光があり、確かに彼は決意していることが伝わってくる。
それでも、しもべとして愛する者として、止めなければならない。
彼をこの場から連れ去り、高い場所へ、遠い場所へと___。
すると、彼はフッと破顔した。
眩いほど美しく、強かなほど澄んだ笑みだ。
「お前はもっと僕を信用しろ。そう簡単に負けはしない」
刹那、後ろにいるベイロンが叫び声を上げた。
「陛下!!」
その意味を知る前に、城壁の縁に一斉に矢尻が並ぶのを目が捉えていた。さらにアーリングの背後にいる敵兵が矢を構えているのも目端に見える。
やられたと思ったのはその直後。
あの男は最初から分かっていたのだ。こちらが油断することも、少年が大人しくしていないだろうことも、そして優しすぎることも。
何百という矢が放たれた。エルフの使い魔たちが動く気配は感じたが、もうそれでは間に合うはずがない。あのすべてをこの魔身で受けて、なんとしてでも助けるだけだ。
「フェンリル、大丈夫だ!!」
俺が動く前に少年が怒鳴る。同時に、敵の方へと体を向けた。
か細い体から噴き出した風に、黒いマントが舞い上がる。さらに四方に飛び散った疾風はそのまま、重なるようにして飛んでくる矢を次々と落とし、または矢筋を変えた。
一瞬とも言える出来事だった。
敵も味方も呆然として、アーリングさえも馬の上で呆けたような顔をしていた。
しばし時が止まったような静けさが続き、やがて英雄が口を開く。その口調はやけに穏やかだった。
「どうやら貴方を見くびっていたようですな」
「僕もお前を見くびっていたよ」
穏やかな会話に和睦の予感がした。
もともとアーリングは皇帝に敵意を持っていたわけじゃない。今回はたまたま身内のことで理性を失っただけのこと。少年もアーリングを信用していたからこそ、将軍に据えたのだ。
きっと解り合えれば、ソフィニアを支える二本の柱になるだろう。
そう思った。
しかし__。
「先ほどのご提案は受けさせて頂きましょう、ライネスク大侯爵」
アーリングが皇帝と呼ばなかった意味を分かる前に、少年がそれに応える。
「ベイロン、馬をここに牽いてこい!」
「こ、皇帝陛下、まさか本気で……」
「これは僕とアーリングのプライドと名誉を賭けた戦いだ。何者にも邪魔はさせない。そうだろ、アーリング士爵」
「その通り」
「もし僕が負けたら、お前にソフィニアを任せるよ。もちろん卑怯な真似をしなければ。そんなことをしたら、フェンリルと上にいるエルフたちがお前らを殲滅する。骨も残らないぐらいにね、覚えておけ」
「正々堂々と戦うことを誓いましょう」
「その言葉を信じるよ、英雄アーリング」
俺はどうすべきか悩んでいた。先ほどのことを考えれば、彼が易々と負けるとは思えない。けれどもしも、負けるようなことがあれば……。
そんなことを想像するだけで震えるほどの恐怖に襲われる。
しかし彼の意思に逆らって連れ去ってしまったなら半年前の繰り返しで、二度と彼は許してくれないような気がした。どちらを選んだとしても、俺にとっては地獄だ。
渋い顔をしたベイロンに牽かれた馬が、横を通り過ぎる。決断の時が迫っていた。
嫌われてもいい、守るべきだ!
そう心が訴えたその時、手綱を受け取ろうとした少年は、ふと手を止めた。
陰りのない青い瞳が、まっすぐに俺を見つめる。
まるで心の中を読み取ろうとするように。
ゆっくりと近づいてきた彼は、俺の鼻筋を撫でて、いつになく優しい声で囁いた。
「心配するな、簡単には負けやしない」
それは分かっている。
分かっていても、やっぱり……。
「それに、僕が逝ったらお前も来てくれるんだよね?」
小首を曲げ、上目遣いに甘えるような口調で少年は、いや、ユーリィは言った。
こんな場面なのに、以前に習得したくだらない処世術で、俺を騙そうというのか?
それが可愛くて、男らしくて、もしこの姿じゃなかったらきっと泣いていたことだろう。
「僕を信じろ、ヴォルフ」
その一言を残し、彼は馬の背に乗った。
跳ね橋の両端に、二頭の馬が向かい合わせに立っている。
城側には、鹿毛色の馬に跨がった戦士。兜を脱いでいるのは、公平な勝負であると見せるためか、それとも勝利を確信しているためか。赤い髪と、顔を覆う髭が、夕日でさらに赤く燃えていた。
山側にいるのは、青毛(※)の馬に乗る少年。黒い服に身を包んだその体は、馬の色と同化している。それがかえって透き通る肌の白さと、輝ける金髪を際立たせた。
跳ね橋は長くはない。つまり二人の距離はかなり短かった。だから馬が襲歩に入る前には決着がついてしまうかもしれない。アーリングはもちろんそれを理解してるだろう。今は片手で手綱を絞り、もう一方に剣を持っているが、開始直後に迷うことなく両手を使い、全力で攻撃をしかけてくるはずだ。彼の持つ大剣は切り裂くためでなく、打撃により相手の骨を粉砕するためのもの。この場合は、谷底に落とすために。
一方、少年はあの小さな短剣を手綱とともに握っている。瞬時に決まる決戦で、剣を持ち替えている暇などないというのに。
両陣営は固唾を呑んで見守っている。正々堂々という言葉通り、どちらも全ての弓をひとところに集めてあった。ブルーたちエルフは、かなり上空で待機させられている。
そして俺は、俺だけが彼を助けられる位置にいた。
けれど、信じろという言葉が、俺を縛りつけている。
「本当によろしいのですか、皇帝陛下」
青毛の馬のそばで、ベイロンが最後にもう一度そう確かめた。
「勝つさ、たぶん。でももし負けたらお前はアーリングを信じろ」
彼らしい言葉だった。
睨み合いが続いた。どのタイミングでどちらが先に行くのか。願わくは、この時間が永遠であって欲しいと思わずにはいられない。だが____。
「ハッ!!」
アーリングが叫ぶと、彼の馬が橋板を蹴った。案の定、彼は手綱を放して下半身で馬を操り、両手で握った大剣を馬の右側で水平に構えて、こちらめがけて突っ込んでくる。それなのに少年は迷うことなく、馬の腹をかかとで蹴って、剣の方へと向かっていった。
「バカなっ!」
ベイロンの言葉は、そのまま俺の気持ちだ。
水平に構えた剣に向かって突っ込んでいくなど自殺行為。あの大剣を避けられるほど橋の幅はない。なぜ先に魔法でアーリングを攻撃しなかったのか。崖の下に落とせなくても牽制にはなるはず。魔法を発動する時間を作らず、自ら距離を縮めていくなどあまりにも無謀すぎだ。
アーリングの馬は少年の間際まで迫っている。あのままでは剣は間違いなく彼のか細い体に直撃してしまうだろう。
そう思った途端、俺は決意した。
俺がやる!
炎を呼び起こし、吐き出そうとしたその時、なにかが伝わったかユーリィが叫ぶ。
「フェンリル、僕を信じろ!!」
一瞬にして炎が押さえつけられた。
その刹那、大剣が少年の体を打ち砕こうと迫ってくる。少年が逝く悪夢に、我を忘れて俺が咆哮した直後、想像をすらしていなかったことが起こった。
馬の頭すれすれにアーリングの大剣が空を切る。だが少年の体は、すでに強烈な風が吹き上げていた。
空中で宙返りをした少年は、逆さまになったまま手にした短剣で振るう。
人の目には見えない無数の刃が、通り過ぎた英雄の背中へ襲いかかる。
鋭い音とともに、厚い鉄鎧に亀裂が入る。鎧だけではない。魔刃は容赦なく、馬も橋板も攻撃をした。
恐怖と痛みに馬がいななく。その瞬間に決着はついた。
馬の暴走に、不安定だったアーリングの体が完全にバランスを失い、橋の外へと投げ出される。落ちていくその先には、暗く深い谷があった。
しかしホッとしている暇はない。無茶な戦法にでたユーリィの体も、谷底へ落ちようとしている。
すぐに俺は宙を駆けるのに躍起になった。その甲斐あって、背中に彼の体を受け止めた時に、ようやく地獄の門が閉じられた。
「やっぱ、お前がいないと僕はダメだね、ヴォルフ」
背中を撫でたその指が本当に愛しかった。
この一騎打ちで、ラウロ・ロベル・アーリング士爵は即死こそ免れた。鎧と強靱な肉体と起こした奇跡だろう。しかし瀕死の重傷は免れなかった。
その英雄を、皇帝ユリアーナはゲルルショールフォンベルボルト城には入れず、討伐軍の一部を残した街へと連れていった。のちの歴史家は、もし皇帝がすぐにアーリングの手当をしたならば助かっただろうと分析している。そのことで、皇帝ユリアーナは非常なる方法で反逆者を葬ったのだと言う者もいた。
アーリング士爵はその後、十日ほど苦しんでこの世を去った。残された遺品の中に、英雄の半生を綴った手記が残されていた。その内容は、アーリングのプライドと自尊心があふれたものであったが、甥が死ぬ直前で終わっていた。
だがその最後に、解読不可能なほど乱れた文字で一文が入っていた。それを書いたのがアーリング自身だったのか、それとも他のだれかだったのかは永遠に分からないだろう。
その最後の一文はこうだった。
「皇帝ユリアーナに永遠の忠誠を」
※青毛=黒い体毛の馬のこと