第139話 皇帝の決意 前編
翌朝、部隊は三分の一を街に残し、ゲルルショールフォンベルボルト城に向けて出陣した。その数は人間が三千、使い魔が八体、もちろん魔身となった俺も加わった。
俺に乗る皇帝ユリアーナは、ブルー将軍らラシアールの使い魔が守っている。後方は十人の騎馬がついてきて、残る歩兵は広くもない街道から左右の草原や麻畑にあふれて出ていた。
「こんな人数いりますか、皇帝」
行進もままならない後ろの様子に、隣にいるブルーが振り返りつつユーリィに言った。
「なにを言ってる。部隊としてはかなり小規模じゃないか」
「だけど俺らラシアールがいるし……」
「使い魔の数もまだ足りていない。将来的にはこの十倍以上には増やさないと」
「反乱軍はそんなに強敵でしょうか?」
ブルーは意外だと表情を隠しもせず、ユーリィを見返す。それに対して背中にいる彼がどのような表情を浮かべたのかは定かではないが、想像はついた。感情がこもっていない声からすると、きっと無表情に前を見ていたことだろう。
「フェンロンだよ」
「フェンロン!?」
「いずれあそこと戦う日が来る、そんな気がするんだ」
「フェンロンとソフィニアはかなり離れていますよ。間には国がいくつもありますし」
「両方からその国々を飲み込んでいけば、いずれ隣同士になるさ」
皇帝ユリアーナの口から、その未来構想を聞いたのはこの時が初めてだった。
そんな考えを抱くようになったことに俺は驚き、会わない間に彼はより皇帝らしくなっていることを実感した。
思考だけではない。皇帝としての風格がさらに増し、その姿に圧倒されて今朝は声を掛けることすらできなかった。
本人が自覚しているかは分からないが、以前の彼は暖色を頻繁に身につけていた。特に紫は好みのようで、濃淡の違いはあれどその色を選ぶことが多かった。しかし全身黒というのは、葬儀で一度着たのを除けば見たことがない。胸元を銀のチェーンで繋いでいる長いマントまでが黒だ。
そのことに違和感を覚えた。近づきがたいという印象は、いぶし銀の胸当てと揃いのサークレットにもある。素晴らしい装飾が施されていたそれらは、彼に王者に相応しい気品をさらに加えていた。
俺ですら理解した皇帝の構想に、将軍ブルーは丸い目をますます丸くて、驚きを露わにした。
「まさかセシャールを……?」
「いずれって言っただろ。今のところその予定はないから。けどフェンロンの動きによっては、そうなる可能性もあるってこと。言うまでもないけど、このことは他言無用だよ。僕がすぐに侵略を始めると思われても困る」
「了解です」
「だけど、お前に皇帝と言われるのはちょっと恥ずかしいね、ブルー」
「そう言えとおっしゃったのは、陛下ですが?」
「ま、そうだけどさ、ブルーも二人だけの時ならユーリィって呼んでもいいよ」
体毛を撫でる優しい手の感覚があった。
だからこそ、昨夜のことを知りたいと思う。
あの不安げな表情はなんだったのか?
父親が殺されたという事以外のなにかが、少年の中にはあったはずだ。あの地霊が言っていた“執着する闇”に関係したことだとしたら、信じたくはないが、まさかもう既に奪われてしまっているのか。
それを尋ねることをためらったのは、今朝の姿が原因だった。
「やっぱり皇帝陛下と呼ばせていただきますよ」
「そう……」
まだ皇帝になりきれていない少年が、その寂しげな声に現れる。
そのことに安心したのもつかの間、次の言葉が俺を凹ませた。
「その方がいいかもね。感情的にならないためにも、立場の違いは分かっていた方がいい、だれであろうと」
俺に向けられた言葉だとしたら、距離を置けということなのか?
しかしその言葉の意味を説明することもなく、少年は沈黙をした。
もう違和感がなくなった四つ脚で、その後しばらく街道を北西へと進み続ける。半時ばかり歩いたがまだ城の影は見えては来ない。城の傍にて監視をしているエルフを何度か現れて、城に動きは一切ないと報告があった。
辺りは一面綿畑である。その中で呆然と立ちすくむ農民たちの姿がちらほらあった。また戦いが始まるとでも思ったのだろう。中には逃げるように走り去る者もいた。いずれにしても広い畑を管理するには少ない人数だ。
収穫が間に合わなかったのか、多くの綿花が茶色に変色し、固くなっている。今年の公爵家の収入はあまり良くはなさそうだ。ユーリィはどんな表情で景色を眺めているのだろうか。
やがて街道が大きく左へと曲がり、南西から延びてきた道 ――ソフィニアに直接続く道だろう―― と合流した頃、周辺の様子はにわかに変わってきた。
綿畑が減り、草地と林が増えてくる。それまでは平地と言ってもいいほどなだらかだった丘陵地も、丘が連なるようになっていった。
途中、細い川にかかる橋を渡る。この川はソフィニア北にある小さな湖に続いていて、ソフィニアの水売りはそこから汲んできているらしい。
その橋を渡ると、道は徐々に登り坂となっていった。
前方には緑に包まれた山が一つ。その頂点にある建造物が、木々の間からチラチラ見える。あれこそが皇帝ユリアーナの育ったゲルルショールフォンベルボルト城だ。
いったいどこまで、こんな雑な隊列で近づくつもりだろう。
それが気になり始めた頃、隣を行くエルフがふと口を開いた。
「皇帝である貴方に、今一度お伺いしても良いでしょうか?」
彼には似合わない堅苦しい言い回しである。
「なに?」
「ベイロン司令官も今朝申し上げ、自分も以前申し上げたことですが、なぜ皇帝自らご出陣なされるのですか?」
「僕が行かなきゃダメだって、朝も言っただろ」
留守中に何があったのか大まかなことは、昨夜ブルーに俺も聞いていた。身内を殺された怒りは分からなくもないが、そんなことでというのが正直な感想だった。
ユーリィが折れないのは、ブルーによると“皇帝としてのプライド”だそうだ。確かに彼にはそういう意固地なところがある。
アーリングもそれは分かっているはずだ。だからこそアーリングという男がなにを考えているのか、俺には全く分からなかった。
けれど心のどこかで、この反乱は茶番として収まるに違いないと俺は信じていた、次に発するユーリィの言葉を聞くまでは。
「僕がこの手であいつを殺る、殺らなければダメなんだ」
それは氷柱のように鋭く冷たい声だった。
もしだれかが聞いていたら、冷徹な皇帝であると確信したことだろう。幸いなことにブルー以外のラシアールはやや距離があり、しかも敵襲に備えて警戒していたために、二人の会話を気にする者はいない。ベイロン以下人間の将校は背後にいるが、やはり声が届くほどではなかった。
「本気ですか?」
「もちろんそれができるとは限らないし、返り討ちにあうかもしれない。けれど頂点に立つ者は一人でいい」
「だからアーリング士爵を……」
「フェンリルもどうやら驚いてるみたいだ」
ふたたび背中をなでつける指に優しさが溢れているというのに、声はいつまでも冷たいままだ。
「覚えてるか、フェンリル、いやヴォルフ。あの屋根の上で僕が言ったこと」
忘れるわけはない。
あれは春風が吹いていた頃で、過去と言うほどは遠くないあの時、彼はその願望を語っていた。
“僕はソフィニアが完全なギルド国家になって欲しいんだよ”
それなのにたった半年で、彼の信念は変わっていた。
「やっぱり覚えてるみたいだね。そう、あの時僕はギルド国家を作りたいと願っていた。だけどこうして色々なことを経験して実感した。この国にはまだ無理だ」
「無理とは?」
「みんな、自分のことしか考えてないし、帝国のために尽力しようなんてヤツは一握りしかいない。そんな連中に主権を握らせたら、たちまち内紛と腐敗で滅ぶ。さっきブルーにも言ったけど、このソフィニア軍程度の人数では、“軍隊”なんてとても呼べやしない。あの革命の時だって二十万の兵士はいたんだから」
「でもそれはあの悲劇で……」
「そうさ、五十万の民を失い、田畑も荒れ、家畜もほとんどいなくなった。今は水晶の輸出で食いつないでいるけれど、この帝国は広大な土地を抱えた貧弱な国なんだよ。だから今は僕がやると決めたんだ。道を塞ぐものがあるのならこの手で壊す。だれかの手を黒く染めさせやしない」
体毛をしっかり握ったその手が、決意の強さを物語っている。
しかしその決意をさせたのは、皇帝という立場以外のような気がして、俺は密かに不安を感じ始めていた。
「しかし、アーリング士爵は……」
「戦士としては優秀だって言いたいんだろ?」
「ディンケル将軍もそうおっしゃっていましたね」
「だけど、アーリングが政略も戦略も長けてないことは今回のことでよく分かった。あいつの過去の功績がなんだったのかは知っているから。これでも一応イワノフ家の者だからね。だからこそ宣伝に利用された哀れな男を倒す必要があるんだ。僕自身がイワノフ家の呪縛を解くためにも」
「そうですか。ならもうお止めはしません」
納得したとうなずいて、使い魔に乗るエルフは前方へと顔を戻した。
城のある山はもう目前に迫ってきている。山頂は二つに割れていて、その一方にぐるりと城壁に囲まれた数本の塔が見えた。その中で一番高い塔は、ユーリィにとって忌まわしき場所だ。彼はきっとその塔を眺めていただろう。
年齢に見合わない落ち着いた口調で、彼は最後にこう付け加えた。
「ヴォルフ、僕が皇帝であるのが気にくわない、自分たちで治世を行いたいと民衆が思った時、初めて真のギルド国家になれるはずだ。そうなったら僕は喜んで彼らに倒されるさ。僕が生きているうちにそう思ってくれることを願うよ。でもブルー、この話ももちろん他言無用だぞ」
緩やかな坂が山道へと変わる直前、周囲にあった木々が減り、少し開けた場所に出た。ユーリィはそこで一度部隊を留まらせ、ブルー及びベイロン以下二人の司令官と討伐作戦の最終確認をした。
「兵士たちには今のうちに水を飲ませろ、長期戦になるかもしれない。ラシアールは上から。矢には気をつけろよ」
四人は大きくうなずくと、てきぱきと部下や雑兵らに指示を出し始めた。細かなことはすでに決めていたのだろう。
みなが水を口にして、武具などの確認を済ませると、まずブルーの使い魔が上昇を開始した。それを合図に皇帝を乗せた俺が続き、さらに七体の魔物があとを追う。ベイロン以下人間たちは山肌に沿った道を隊列を組んで登っていった。しかし道は狭く片側は崖になっている。間延びした隊列が城までたどり着くには、それなりの時間がかかるだろう。
「マントが煽られるから早く飛ばなくていいぞ、フェンリル。それにベイロンたちが到着するまでは、しばらく時間稼ぎだ」
俺の気持ちを察したのか、ユーリィはそう説明した。
「戦いが始まる前に、まずやっておきたいこともあるんだ」
なんだろうかと思いつつ、ゆっくりと旋回と上昇を繰り返して、城壁に囲まれた古城へと近づいていった。
昨夜の雨が嘘のように空は晴れ渡り、風も穏やかだ。
下界に広がるのは草の海で、ところどころに森らしき木々がある。半時前に超えた川が、一筋の線となって緑の大地を蛇行しているのも見えた。
「やっぱり橋は上がっている」
そう言われて、改めて上を眺めた。城は二つある山頂の片方にあり、山道はもう一方に続いている。双方を繋ぐ大きな跳ね橋は、城壁に貼り付いていた。
「大丈夫、外から入れないってことは、中からも出て来られないってことだから。それより、そろそろ来るぞ」
まるでその言葉が合図かのように、城壁の上に潜んでいた敵兵がラシアールの使い魔に向けて一斉に矢を放った。
むろんそれに怯んだモノはいない。今回連れてきたのは使い魔の中でも、戦闘能力に優れている魔物たちだ。さらに城壁からは一定の距離を取っていたので、数百の矢は、弧を描いて次々と落ちていった。
ユーリィは小部隊だと言っていたが、魔物が九体もいれば一万人の軍隊に匹敵する。むしろ人間を連れてきた意味があるのかと、俺は疑問に思った。
「ブルーたちには手を出すなと言ってある」
そのわけを知ったのは後々のことである。彼は、エルフとその使い魔が諸刃の剣であることを、味方に印象づけたくなかったのだ。
城壁の兵士たちは次々と矢をつがえ、むなしい攻撃を続けていた。
四回目の攻撃が終わったその時、突如少年が叫ぶ。
「フェンリル……じゃなくてヴォルフ、あの塔を崩せ!」
過去との決別。
少年はそれがしたいのだと俺は一瞬で悟った。
突き動かされるように、塔へと向かって宙を蹴る。前方にいたブルーの使い魔の横を通り過ぎると、城壁内の様子が見えてきた。
庭園のある中に兵士たちがひしめき合う。どの顔も恐怖とも怒りともつかぬ表情を浮かべている。その中心には馬に跨がった戦士五人。
もしも今、俺が炎を一吐きすれば、数百の兵士とともに彼らを倒すことは造作もない。皇帝のためにそうすべきだと別の自分が ―もしかしたら魔界の半身が― 訴えていた。
けれど、彼の意志を守りたかった。
自分の手で倒したいと願う少年の意志を……。
「僕は大丈夫だから、思いっきりやれよ」
体を倒して、俺の背中に抱きつくような体勢を取りつつ、ユーリィが命令を下す。それに従って加速をすると、パサパサと風をはらんだマントの音が激しくなった。
城壁内に入った途端、弓の標的にされ始める。むろん高度は下げなかったので、届かない矢を眼下で眺めるだけ。
「あいつらバカか!? 味方に当たるだろ」
ユーリィが懸念したとおり、矢は中庭に集った兵士たちに次々と降り注いだ。怒号と悲鳴に包まれ、中は大混乱だ。数名が味方の矢に射貫かれ、倒れて動かなくなった者すらいた。
さすがに気づいたのか、こちらに向けられた攻撃が止む。同時にエルフたちも気がついて、次々と城の上空へと飛んで来た。
手を出すなと命令されたエルフたちと、味方に当たる危険を知って弓を降ろした数百の兵士が、上と下から睨み合っている。完全に膠着状態だ。
「ヴォルフ、やれ!!」
内にある炎を呼び覚まし、天を突き刺す塔の先端めがけて、俺は火球を吐き出した。
一回__!
二回__!!
三回__!!!
そのたびに塔のレンガが崩れ、内部が少しずつ見えてくる。
幼きユーリィが、現実から逃れるために読んだ数千の本。
夜ごと悲しみを抱えて横になったであろうベッド。
たった独りで、幾日も過ごした塔にある彼の部屋が、炎に包まれていく。
そして四度目の炎が当たった時、塔の先端が吹き飛んだ。
瓦礫が兵士たちに降り注ぐ。
逃げ惑う彼らを、ユーリィはどんな目で見ていたのだろうか?
それら一つ一つが、俺には彼がうちに秘めている憎しみのように感じていた。
家具や本を燃やした炎の黒い煙が、青い空へと昇っていく。
まるで少年の憎しみや悲しみが昇華していくようだ。
やがて、俺の背で彼が呟く。
「これで僕は、また前に進める……」
感情が一切こもっていない声だ。
だが次に発せられた声には、活力が蘇っていた。
「よし、跳ね橋を降ろすぞ、フェンリル!」