第133話 砂上の城 後編
ソフィニア中央にある丘の下には、旧王族たちの墓場がある。その上で平民たちが騒いでいては、彼らも落ち着いて眠ってはいられないだろう。しかし先日埋葬した異母兄は、きっとあの嫌みな笑みを浮かべているに違いない。
(あ、骨もない空墓だから、高みの見物かな?)
ヤツの期待になど応えてやるかと、人々を見下ろしつつユーリィは考えていた。
丘の上はさほど広くない。二千人も集まれば大混雑となってしまう。所々に木が植わっていて、周りは落下防止に低い石塀がぐるりと積んであるのだが、それらの上に登っている者も数十人いた。
皆一様に見上げているのは、頭上にいるのがだれなのか気づいているのかもしれない。けれど先ほどのように“天子”という声はほとんど聞こえてこなかった。そればかりか数人は矢をこちらに向けて構えている。剣を握っている連中も見えた。
「あいつらが元ハンターですよ」
「結構いるね」
「今ハンターギルドはほとんど機能してませんから。かなりの人数が、諦めて兵士に転職したり、貴族に雇ってもらったり、外国へ流れていったりしたらしいですが、中にはこのソフィニアで用心棒的な仕事で食いつないでいる連中もいるらしいです」
「あの事件のあと、魔物の数が減ったし」
ソフィニアおよびガサリナ地方――つまり現帝国内は、ククリ族が異界から呼び出した数万の魔物に埋め尽くされた。それを倒したのが、この星すべてにいる精霊たちだった。そのお陰で、それ以前にもいた魔物たちも激減したらしい。
「シャルファイドの森やガサリナ山脈には、瘴気が吹き出ている場所があるって話なので、そのうちまた増えてきますよ」
「空から降ってきたっていうあれか」
「その瘴気に触れた動物は魔物に、人間はエルフになったっていう伝説です」
リュットには伝説についてなにか知っているだろうか。マヌハンヌスという神が果たして存在していたのかも分かるだろうか。皆は僕がその神の生まれ変わりだと言うが、それは違うと断言してもらえるだろうか。
僕は神なんかになりたいわけじゃない。
いつか自分の嫌いな部分を受け入れ、誇らしく思えることを見つけ出し、生まれてきて良かったと心から思えるようになれれば、それで。
僕が僕であること。
それが悪いことではないのだと、ヴォルフが教えてくれたから。
(あ……)
沈みかけた思考を、ユーリィは慌てて浮上させた。
いい加減、この癖の対処法を見つけ出さなければ。自分自身では嫌ではないけれど、“またか”とジョルバンニに言われるのは嫌だ。受け入れるだけじゃなくて、改善もちょっとぐらいした方がいいらしい。
まずは下にいる連中をどうにかしなければならない。話し合いでどうにかなりそうな様子にはとても見えなかった。
「どこに降ります?」
それには答えず、すぐ上で滞空している聖獣に声をかけた。
「ガーゴイル、あの中心に水を! さっきより強くだぞ!」
「まさかあそこに降りられるんですか!? いや、いくらなんでもそれはどうかと。あっという間に囲まれてしまいますよ」
「どこに降りても囲まれるんだから、先に囲まれておく」
「さすがは大侯爵、無茶をなされる」
「せめて効率的って言えって。んじゃ、行くよ!」
刹那、ガーゴイルが水を噴射した。その水撃が地表へとぶつかると、崖から落ちる滝のような水音とともに、飛沫が人々の頭上まで跳ね上がった。それを避けて広がっていく人の輪は、まるで波紋のようだ。
「今だ、降りろ!」
ユーリィが叫ぶと同時に、ブルーの使い魔は輪の中心へと降下を開始した。ガーゴイルの噴射により地面が少々えぐれていて、その勢いがどれほどのものだったのかうかがい知れる。案の定、怖じ気づいた人々の気配がそこここに漂っていた。
(ひとまず成功か)
鉱山での経験により、降りた瞬間が一番危ういことは学習していたので、一撃目は派手にやりたかった。
体を支えていたブルーの手を肩から振り払い、着地間際の使い魔から、ユーリィはためらうことなく飛び降りた。
「ちょっ!?」
聞こえてきたブルーの鋭い声に、焦りが混じっている。また無茶をするとでも思われているのだろうか。
「平気、ガーゴイルがいるから」
すぐ頭上で滞空している聖獣を仰ぎ見て、ユーリィはそう答えた。
従順な聖獣は、人々を眼光鋭く睨みつけている。お陰で彼らをその場に留まらせていた。ただし未だ剣を握りしめている者、クロスボウに矢をつがえたままの者がちらほら見える。だから平気だという確信はさすがに持てなかった。
「ブルー、お前は上で待機。それでもし僕が合図を送ったら、その時は丘の下にいる兵士たちを呼んで来て」
「今行きますか?」
「今はいい、話し合いに来ただけだから。さあ早く、指示通りに頼むよ」
両手を広げたほどの距離にいる連中に聞こえるように、声を高めてブルーに催促をした。
ラシアールである彼には、この場に留まらせたくない。その気持ちを察してくれたかは分からないが、ブルーは了解したと答えて上昇し、その代わりガーゴイルが降りてきた。
ここまでは予定通り。
(さて、ここからだ)
四方にある目、目、目、目。すべてに好奇と不安の色がある。だれひとり、あのあだ名を口にしない。それだけ彼らが切羽詰まっているんだろうとユーリィは想像した。
強引に解散させることも考えたが、それでは私恨が残るばかり。かといってやはり簡単に説得できるような雰囲気でもなかった。
念のためにと傍にいるガーゴイルに身を寄せて、ユーリィは黙って人々を観察した。
ブルーは二千人と言っていたが、確かにそれくらいいるかもしれない。女と老人も混じっているものの、大半は若い男だ。さすがにこの状況で武器を構えている者はいなかったが、クロスボウには矢が番えてあるし、剣も握っている。つまり敵愾心は消え去ったわけではないということ。
(だれかが喋り出すまで根比べだ)
彼らも新皇帝がなにかを言うのではないかと待っているらしい。そんな期待に応えるものかと、ユーリィは固く口を結んだまま、ひたすら男たちの顔を眺め回した。
それからどれくらい経っただろうか。たぶん十指の爪をヤスリで整えられるほどの時間だろう。とうとう我慢ができなくなったのか、先頭にいた赤毛の男が、険しい表情のままユーリィへと話しかけてきた。
「ライネスク大侯爵に申し上げたい!」
やっとかよ。
と思ったものの口には出さず、ユーリィは無表情のままその男へ顔を向けた。
「我々はいつになったら元の生活に戻れるのですか!?」
男が“我々”と総称することに、違和感しか覚えなかった。彼の片手には、大剣が握られている。切っ先は下に向けられてはいるものの、かなり威圧的だ。剣だけではなく、肩幅、二の腕、ふくらはぎも彼が何者なのかを良く語っている。着ているジャケットは牛のなめし革で、同じ色のブーツを履いていた。
つまり彼が元ハンターなのは明らかで、彼の言う“元の生活”とは、ハンターとしての浮き草暮らしなのだろうか。
だとしたら、その隣にいる白いシャツを着た優男とは、随分望みが違うことになる。そっちはたぶん職人ギルドに所属している一人だろう。
「ならハンターギルドを復活させるって言ったら、お前は納得するのか? 元の生活ってそういうことだろ?」
「いくらギルドを復活させても、仕事の依頼がなにもなければ意味などありません!」
「だよね、だって今は魔物がいないし。でも数年待てばまた出てくるさ」
「これ以上は待てません」
「そんなに戦いたいなら兵士に志願すればいい」
「統制されるなんて、まっぴらゴメン。俺らは自由でいたい」
その気持ちは痛いほど分かる。
もし自分もこんな立場になければ、彼らのように浮き草暮らしをして、風の向くまま気の向くまま、ヴォルフと一緒に旅をしたかった。
しかしその望みは一生叶いそうもない。けれど目の前の男は、たかだか数年耐えるだけだ。そう思うとなんだか腹が立ってきた。
「お前の望みはつまり、今すぐに僕がどこかから魔物を出して人々を困った状況にさせろ、その退治の依頼がハンターギルドに大量に集まるようにしろって、そういうことか?」
「なっ!?」
驚きの声を漏らしたのは、隣に立っている優男だ。ついであちこちから非難の声も漏れ始め、大男は居心地悪そうに身動いだ。
「そ、そんなことは言っていない!」
「なら、“元の生活”ってどんな生活だ?」
「安全な旅ができて……」
「安全が欲しいのか、ハンターなのに」
言葉尻を捉えて追い詰めていくのは、ユーリィにしてみれば得意中の得意技だ。ヴォルフには揚げ足取りだと言われ、注意されたことがある。ラウロの時も、確かにそんなことをして楽しんだ。
けれど今は、こんな揚げ足取りのような会話はしたくはなかった。
「いや、そうじゃなく、だからつまり、簡単に仕事が見つけられて……」
「じゃあ手始めに、簡単な仕事を依頼すると言ったら? 命令違反を犯しているここの連中を捕まえれば、一人につき金貨一枚」
一瞬にして場の空気に緊張が走る。周りにいた者たちが、汚物を避けるかように大男から数歩下がる。ユーリィの声が届く場所にいたハンターたちも、ことごとく彼と同じ憂き目に遭った。
(さて、どうなるか)
煽っていることはユーリィ自身も分かっていた。けれど賢王と呼ばれる者に今すぐ慣れるはずもなく、自分は自分のやり方を貫くしかない。しかもハンターたちの要求に解決策が見つからないのだから。
わずかに顔を上げると、四枚の翼を忙しなく動かす魔物の影が、星空に浮かんでいる。いますぐ合図を送れば、ソフィニアの未来が決まってしまうだろう。
そんなユーリィの気持ちなど知るよしもなく、大男のどす黒い顔がいよいよ険しくなっていった。剣を握る手にも力が入っている。ユーリィも腰の短剣にさりげなく指で触れ、ガーゴイルへと近づいた。
目の前の男より先にだれかが暴走しないとも限らないし、ハンター以外の者たちがどういう行動を起こすかも分からない。少なくても、だれ一人この場から逃げ出そうとはしていなかった。
ざわめきと緊迫が高まるなか、ユーリィはふたたび煽りを入れた。
「で、どうする? 依頼を引き受ける?」
「とうとう本性を現したか、クソガキ」
クソガキという言葉に騒然とした雰囲気はますます強くなったが、それを非難する者は未だ現れず、そればかりか“そうだ、そうだ”という同意の声まで聞こえてきた。
(勝手なことばかりいいやがって。僕だって好き好んでここにいるわけじゃない。お前らみたいに自由でいたいんだよ!)
未だ覚めやらぬ自由への憧れに、心で吠える。
むろんそれを口に出して言えるほど、もう子供ではないけれど。
「天子だかなんだか知らねぇが、どうせエルフどもと結託して、俺たち人間をここから追い出そうっていうんだろ?」
「そうしたかったら、とっくの昔にやってる」
「へっ、どうだか。所詮エルフの妾腹____って、なんだてめぇは!?」
大男を押し退けるようにして、一人の青年が人混みから姿を現した。
歳は二十前後、背は高くもなく低くもなく。ハンターという風体ではない。身なりは生成り色のシャツと茶色のズボン、すり切れた靴。焦げ茶色の短い髪は整えようという努力の痕跡もない。顔立ちはごく普通。やや上を向いた小鼻と大きめ口が特徴と言えば特徴。つまり、どこにでもいるごく普通の青年だった。
「ちょっとオレにも話をさせて欲しいんで」
「あ? ガキはすっこんでろ!」
しかしそんな大男の脅しに屈することなく、青年はユーリィの方へと向き直った。武器こそ持っていないが、その表情はなにか鬼気迫るものがある。
もしやハンターに同調して暴れ出すつもりなのだろうかと、ユーリィは身構えつつも彼の言葉を黙って待った。
「オレはハンターじゃないんで魔物が出てくるのは困るんですけど、でもこの人の言うことにも一理あるから、それだけ言わせて下さい」
「名前は?」
「アロイって言います。この間まで楽器ギルドでリュートを作ってました」
リュートというのは、アシュト率いる楽師団などで使われる弦楽器のことだ。昔オーライン伯爵もそれを持っていたことをユーリィは思い出していた。
「あ、作ってたって言っても、オレは見習いだったからちょっと手伝っていただけですけど。でも、もう辞めました」
「なんで?」
「売れないからです。楽師も吟遊詩人もソフィニアから消えてしまったんで。さっきこの人が安全な旅って言っていたのを聞いて、無礼を承知で、オレ、一言言いたかったんです」
その声は微かに震えていた。右手にはランタンを持ち、なにも持っていない左手は、自分のズボンを強く握りしめている。身分差がそうさせているのだとしたら、なんて煩わしい壁だろう。
目の前の青年にラウロや親友を思い出し、ユーリィは壁に阻まれて失った友情に、一瞬の思いを馳せる。
「色々と時間がかかっているのは、みんなに申し訳ないと思ってる。僕の実力不足だ。それでも、あとしばらく待ってて欲しいとしか、今は言えないんだ」
「天子様……いえ、大侯爵が我々のために頑張っているのは、オレ、分かってます。だから色々不満があるけど我慢してました。でも今回のことで、本当に平和なんか来るんだろうかって、そういうふうに感じてしまったんです」
「今回の件?」
「十日も戒厳令が出てて、街中がイライラしています。アーリング将軍とも和睦なされる様子もない。もしかして、また戦いを始めるんですか? オレたちがいるのは、砂上の城なんですか?」
「それは……」
砂上の城というアロイの言葉が、ユーリィの胸を深く突き刺した。
まるで失った友たちに責められたかようだった。彼らの運命を狂わせてまで必死になっていたものが砂上の城であるのなら、僕はいったいなにをしているのだろう?
「どうなんですか、大侯爵!?」
「アーリング将軍との和睦はない」
「どうして……」
「僕が、この国を創っているからだ!」
その言葉はもう会えない友に向けて、足下に眠る兄に向けて、自分自身に向けて。
自由になりたいなんて、もう考えている立場じゃないと分かっていたはずだ。なんとしてでもやり遂げなければならないのだと。
そう、たとえ自分自身を殺してでも……。
いつの間にかざわめきは収まっていた。アロイの隣に立つハンターも、憮然とした表情のまま押し黙っている。しかしこの沈黙が賛同だとは思わなかった。
周りにいる一人一人を睥睨する。もうすぐ朝が来るというのに、彼らの手にする光源はまだ赤く燃えていた。
「それとも、あの英雄の方が僕よりも、皇帝にふさわしいと思うか?」
彼らに一番尋ねたかった質問だ。わざわざここに降りてきたのもそのためだった。
もしその答えが“然り”なら自分はどうすべきなのか、未だ決めかねている。恐怖王と言われたジャックス三世を真似て、彼らを力でねじ伏せてしまうかどうかも含めて。
程なくして、アロイがゆっくりと口を開く。
「オレは……」
言いかけた彼は一度口を閉ざし、肩で大きく息をしてからふたたび話し始めた。
「みんながどう思っているか分からないですけど、オレたちが安心して暮らせるほど、お強い存在こそが皇帝にふさわしいと思います」
「それは力が? 心が? 権力が?」
「全部です」
「そう、わかった」
たった一人の意見ではあるけれど、決意はできた。
求めていた答えをくれた青年にも感謝をしよう。
「アロイ、ありがとう」
そう言うと、ユーリィはガーゴイルの細く乾いた腕に片手で触れた。その合図が分かったのか、聖獣は主の腰に片腕を回し、ゆっくりと上昇を開始した。人々の顔も次第に上を向く。数千の瞳が自分を見ていることに、以前のような戸惑いはなかった。
これは僕が選んだ運命なんだと思えるようになったから。
やがてひしめき合う人々の頭を見下ろせるようになった時、突如回されたガーゴイルの腕に力が入った。短剣にいるレネも確かに暴れている。
どうしたのかと驚く隙もなく、一本の矢がユーリィの脇を掠めていった。
間一髪。
もしガーゴイルが少し軌道を変えなければ、胸に一撃だったかもしれない。
だれが射たのか探すまでもなく、急降下してきたブルーの使い魔が、木の上で弓矢を持っていた男を、前脚のかぎ爪で捕らえていた。
逃れようと喚き散らす男の怒声が、丘の上に響き渡る。するとそれまで静かだった人々も、恐怖のためにギャーギャーと騒ぎ始めた。
矢を持った数人が、ユーリィに鏃を向けている。その一人一人を、ガーゴイルが細い水撃で倒していった。
そうなると騒ぎはますます酷くなる。どこへ逃げたらいいのか分からない民衆は、押し合い圧し合いで、もしだれかが倒れたら大勢が怪我をするだろう。女か子供か分からない金切り声があちこちから聞こえてくる。男たちもワーワーと叫き、恐怖を吐き出していた。
この状況を一秒でも早く終わらせるべきだ。どうせ彼らは、自分の要求がなんだったかすら覚えていないに違いない。
気がつけば自分でも驚くほど大声で、ユーリィは叫んでいた。
「ガーゴイル、水を撒け!!」
聖獣はすぐさまその命令に従った。
牙の飛び出た口を上空に向け、首を左右に振りながら大量の水を吐き出す。弧を描いた水はどしゃ降りの雨となって、丘にいる全ての者をあっという間にずぶ濡れにした。
オイルランプと松明の炎はほとんど消え、油が切れかけたランタンの弱い炎だけが、薄暗くなった丘の上に転々と灯っていた。
呆然と立ちすくんだ人々へ向けて、ユーリィはふたたび叫ぶ。
「明日、アーリング将軍討伐を開始する! だから朝までにお前たちはここから立ち退け! さもないと丘の下にいる兵士たちに、全員逮捕させる。女も子どもも関係ない、覚悟しておけ!!」
どこまで伝わったのかは分からない。少なくても丘全体に響くほどには大声ではなかった。けれどだれも身動き一つせず、顔を上げていた。
「ハンターで参戦を希望するなら、それでもいい。けれど、もし僕が気に入らないというのなら、今すぐアーリングに付くなり、ソフィニアから出て行くなり、早急に決めろ! いいな、分かったか!!」
これがのちに、ソフィニア暴動と呼ばれる事件の顛末である。『金の天子自らが、怒れる民衆を沈め、すべてを収めた』と、数々の歴史書がその才気と行動力を褒め称えていた。
けれど宮殿へと戻った時、長身のエルフへユーリィがぽつりと呟いたことまでは、どの書物にも書かれてはいなかった。
「正直、僕がどこまで治世を続けられるか、自信はないんだ。もしアーリングとの戦いで敗れたら、潔く僕は舞台から降りるよ。それも運命だったと諦めて」