第127話 妖星揺らぐ夜の下
『“この世界に王様のお味方はいらっしゃいますか? 敵はどこにいるのでしょう?”
悲しげな表情で少女はそう尋ねました。けれど王様は答えられません。家来にも兄弟もに、王妃までにも裏切られ、だれが味方で、だれが敵なのか分からなかったのです』
――『カンティバ王物語』より
馴染めそうもない巨大都市は、夜のとばりを下ろそうとしていた。月は見えず、代わりに一番星が暗い空で妖しげに揺らいる。
ソフィニアに帰ってきた――と言って良いものだろうか。
薄暗い裏路地でふと立ち止まり、タナトスは人気のない表通りに目をやった。まだ戒厳令が布かれたままで、夕方の喧噪はどこにもない。
(あのデブのために、こんな騒動になるとは)
それとも、あの議長はこの状況を予見していたのかと鑑みる。視力の弱くなった双眸で、彼はいったいなにを見ているのだろう。
(本気で闘鳥として育てるつもりなのか?)
美しき闘鳥――輝く碧眼、羽撃くごとに金光放つ白い翼。
もっともその性格は可愛くも可憐でもなく、小賢しくて生意気な少年だ。頭はいいが詰めが甘い。覇者としてはまだまだこれからだろう。しかしタナトスとしてはそれに期待するような感情はいっさいなかった。
あるのは邪な感情。あの青白い顔をどす黒い血で汚し、むせび泣かせててみたい。
それだけだ。
地位や名誉は、この欲望が成就した時に考えればいい。むろん成就する前に、命が消えている可能性も十分にある。
(あの剣が厄介だな)
彼が常に持っている短剣には、 “レネ”と呼ぶ魔物か精霊のいずれかが付着しているらしい。金の天子にはそうしたモノたちを操る力があると、タナトスも噂に聞いていた。
(ま、その時になって考えればいいさ。それに手懐ければいいだけの話だ)
きっと不可能ではない。
絡んできた舌の艶めかしい感触はまだ残っている。わずかな喘ぎ声も、反応した体も、情欲を知っている者には抗えない快楽を感じていたから。
すると、闇に映える白肌と、目眩を感じる芳香が脳裏に蘇り、タナトスの体がうずき始めていた。
(なんで、あんないい匂いしてるんだ……)
その秘密をのちに知ることとなるタナトスであったが、今は囚われそうになった心を解き放そうと、意味もなく辺りに視線を走らせた。
狭い路地はかなり薄暗い。頭上にあるいくつかの窓から漏れる光が、ぼんやりとした視野を作ってくれていた。しかしそれも奥までは届かず、行き止まりのような闇となっている。
密会場所としてここが最適なのかよく分からないまま、いったいどちらから来るだろうかと、タナトスは左右を何度も確かめた。
すると、奥の方から石畳を踏む音が近づいてくる。警戒を表に出さないように注意して、わずかに身構えていると、やがてその相手が闇の中からひょっこりと顔を出した。
「伝言は聞いていただけたようですね」
前回の記憶もあって、その声に落ち着かない気分にさせられる。そんなわずかな焦燥感を振り払い、タナトスは斜に構えたまま相手を見返した。
「戒厳令が布かれている最中だっていうのに、ずいぶん妙な場所で待たせるもんだな」
「理由はすぐ分かりますよ」
付いて来いというように身振りで合図をすると、男は路地の奥へと戻り始めた。まだ男を信用していないタナトスとしては、ためらいがないわけではない。しかし自分はもう泥船に乗ってしまっているのだと、腹をくくってそのあとを追った。
やがて男は、真っ白な建物 ――ソフィニアではほとんどがそうなのだが―― の前まで来ると、一瞬立ち止まった。
行き止まりかと思えた場所には、細い階段が続いている。先はほとんど見えないが、どうやら建物の地下へと繋がっているようだった。
「足元に注意してください」
そう言って下り始めた男に、タナトスも渋々と従った。
まるで地獄へと落ちていくような気分だ。不安がないと言えば嘘になるし、いつ何時正気に戻るかも分からない。それでも突き動かされるように堕ちていくのは、あの体をいずれ抱くという欲望だった。
最後の段を下りた時、軋むような音が聞こえてきた。
開かれた木製の扉から、内部から光が染み出す。その光の中で振り返った男は、軽く微笑んだ。
「ようこそ、地の底に」
それはまさに、地獄の門番のセリフであった。
それから数分後、タナトスは地下にある小さな応接間に通されていた。入ってすぐにタナトスが最初に発した言葉は、
「また、あんたか」
質素と言うより貧相といってもいいような調度品の中、一番古くさい椅子に座っているエルフが、不愉快そうな表情で顔を上げる。
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
今日の彼女はククリ族のローブではなく、立て襟に黄色いラインのある濃紺の服を身に着けていた。帝国魔法軍の軍服である。以前と違って強気なのは、ソフィニアという場所がそうさせているのだ。
「今度も個人の意志か? それともラシアールの総意?」
「あなたには関係ないわ」
言い切った女は、タナトスの背後を見たようだった。
後ろにはジョルバンニの手下バレクがいる。彼はのっそりとした足取りでタナトスの横を通り過ぎ、ふたりの間で立ち止まった。
「お二人に来てもらったのは、前回の報酬をお渡したかったからですよ。ギルド支部にそう伝言が入っていたはずですが?」
「別に呼び出さなくても、あそこで支払っても良かったのに、わざわざここに連れてきたのは、別な仕事があるからだろう?」
「おや、鋭いですね」
男は片眉を上げた。その雰囲気がジョルバンニに似ている。顔立ちもどことなく似ているとタナトスは眺めていた。
「いよいよ政変も最終段階に来ていると議長は考えています」
「となると、次のターゲットはアーリング士爵?」
「いえ、反乱軍ではありませんよ。貴方は、ご落胤の噂を聞いたことがありますか?」
「まさか本当に大侯爵の異母兄弟がいるのか?」
「本当かどうかは知りませんが、流布したのは誰かの陰謀でしょうな」
「するとイワノフ公爵の命を……」
バレクは神妙な面持ちのまま、小さく首を横に振り、それからやや声を潜めて、
「いずれ不幸な事故が起こるかもしれませんが__」
「つまり……?」
「今回は公爵にだれが接触しようとしているかを、調べてもらいましょう」
「それが俺の仕事ってことですか」
「明日イワノフ公爵のいるゲルルショールフォンベルボルト城に行き、しばらくはギルド直属の憲兵として警備をして下さい」
ソフィニアを離れることは少々残念ではある。それにふたたびエルフの女と組めと言われるのは不本意で、返事をする代わりに首を動かした。
「彼女もまた一緒に?」
「いいえ、彼女には彼女の任務があります」
「へぇ……」
しかしそれ以上の説明は不要というように、バレクは口を閉ざす。女の方も言う気がないのか、タナトスから顔を逸らしたままだった。
「おいおい、俺の任務だけ語って、一方は秘密とはちょっと不公平じゃないのか? お互いに秘密は共有してほしいな。“同じ泥船に乗る泥棒は同じ罪”って諺があるだろ」
「若干違いますが、言いたいことは分かりました。いいでしょう。この後、彼女から聞いてください。私は席を外します」
その薄笑いはやはりあの男によく似ている。だから部屋から立ち去ろうとしたバレクに、タナトスは背後から声をかけた。
「あんた、議長によく似てるな?」
「そうでしょうとも、従兄弟ですから」
パタリとドアが閉まり、室内に二人取り残された。
改めて、女に向き直る。
顔を逸らしたままの彼女の表情は、ますます硬くなっていた。
これはなにかある。きっとラシアール内部のことだと、タナトスは直感した。
「で、あんたが殺るのはいったいだれだ? 魔将軍かな?」
「なっ!! そんなわけないでしょ!!」
「でもラシアールのだれかだ」
「まだ分からないわ。だれかがククリと通じているらしいので探り出せって命令があっただけで。本当は断ろうと思ったんだけど、でも……」
「乗ってしまった泥船は、沈むまで降りれないぜ」
なるほど、これは面白いことになってきたとタナトスは内心ほくそ笑む。
まだまだ新皇帝の身は安泰ではないようだ。
だからこそ、手に入れられるかもしれない。
もし彼が夭折するというのなら、とどめを刺す役割であったとしても___。
※夭折:年若くして死ぬこと。