第126話 この世の闇
空気に夏の匂いが混じっている。もうそんな時期なのかと顔を上げると、一陣の風が頭上にある枝の葉を舞い散らした。
小枝の間には輝く空。愛しき瞳と同じその色が眩しくて、つい目を細める。もうどれくらい会っていないのだろうと、乾いた息を吐き出した。時間の感覚が曖昧すぎて、昨日のようにも、もう何年も経っているようにも感じられるのだ。
人の姿に戻れたのは三日前のことだった。まだ手足が自分のものではないようで、視界も少々ぼんやりして、真っ直ぐには歩けない。以前もこの感覚を味わったことがあるが、その時は彼の手が力強く行くべき場所に導いてくれた。
「ユーリィ……」
ふと呟いて、寂しさが胸を刺す。同時に己の愚かさを実感した。
俺は、我は、なにを悩んでいたのだろう?
魂がどちらであっても答えは一つではないか。
“僕はお前だけの者ではなくなるんだから”
少年がそう言った意味が今なら分かる。
貪欲に、ただひたすらに、愛を注ぎ込めと彼は言ったのだ。
そう、乾いた砂地を潤すように。
だからこの魂がなにモノであっても、その命令に逆らってはならない。
それが答えであり、望みでもある。
“何故お前は僕を守るの?”
守るは自分のためだと言えば良かった。人であった時も、魔物であった時も、しもべとして仕えることこそが喜びだったのだから。
『ホーホーホー、ずいぶんと清々しい顔つきになっておるのぉ』
声がした右側へと顔を向ける。細い木の下に、薄汚い老人が立っていた。
「……戻ってきたのか」
『おぬしはつまらんのぉ。やはりあのモノの反応が一番面白い』
「それだからあいつに嫌がられるんだ。で、伝えてもらえたのか?」
『残念じゃが、本人は不在であった。あの砂漠に行っていたようじゃ』
「モルパス砂漠か。しかしなぜ……」
老人は人間のような仕草で首を横に振り、『知らぬ』と返事をした。
「いつ帰ってくるんだ?」
『おぬしはワシに期待を持ちすぎておるぞ。そこまで調べる義理も義務もない』
「そうだな、悪かった……」
『じゃが、おぬしのために行ってしまったワシも、少々マヌケではあるがのぉ』
今はフクロウではないにもかかわらず、ホーホーホーと老人が笑う。それ自体が間抜けに見えた。
『あの賢い娘は尋ねぬとも色々と教えてくれたぞ』
「賢い娘? ああ、エルネスタか」
『光ある子どもは、他国の者たちを連れて水晶鉱山へ行ったそうじゃ。帰ってくる時期は分からぬとのこと。なので娘におぬしの伝言を託しておいた』
エルネスタなら安心だろう。彼女は聡明な娘であるし、ユーリィも信用している。
そう考えて、胸をえぐられるような痛みを感じた。
『ただし東の方で騒ぎがあり、どうやらあのモノも巻き込まれていたようじゃのぉ』
「なんだって!?」
『あ、いや、そのこと自体は大ごとではなかったので、心配することはない。あのモノも無事じゃ。しかし念のためにと様子を見に行って、一緒に街へと戻ってきた』
「帰りが遅かったのはその為か?」
『実際のところワシには人の世の出来事はよく分からぬ。最初の騒ぎが原因だったのか、それ以外のことなのか。ただ大きな異変があの街であったことは確かなようじゃ。そのせいであのモノはずいぶん忙しそうにしておった。なので会わずに帰ってきたのじゃ』
「異変……」
戴冠式までなにもないと言っていたが、やはりなにかあったのだろうか。
新体制に向けて、陰謀や反乱がないはずがない。彼のような立場にあれば、様々なことに巻き込まれるに決まっている。
(ユーリィ、君は大丈夫か?)
胸騒ぎがした。かといって自分がなにかできるわけでもなく、その焦燥感に先ほどの気持ちが急激に萎えていく。
彼は強い。少々のことでは負けるはずがない。そう信じても、そばにいてやりたいという以前の気持ちが蘇ってきた。今すぐにでもこの空を飛び、あの街へと戻りたい。
しかし___
『戻りたいと顔に書いてあるのぉ』
「もちろん戻りたい。けれどまず子竜をなんとかしなければ。新月は八日後だったな?」
『なぜ子竜など気にかける? 魔物であるおぬしは、竜などどうでも良いと思っているはずじゃが』
「ああ、思っている。思っているが、彼は自分が大変だからと他を疎かにするような者じゃない。だから俺もその気持ちに応えなくてはならないだろ?」
『そうじゃの……』
地の精霊は珍しく言葉を濁し、ゆらゆらと体を揺らした。
風は先ほどより強くなっている。その風に乗って、一羽の鷹が地上に影を落として飛んでいった。水鳥でも狩りに行くのだろうか。
しばしそれに見とれて、互いに黙っていた。
やがて鷹の姿が見えなくなると、精霊は呟くように話し始める。
『おぬしは魔物になった己を嘆いておるが、人もエルフも魔物とそう代わりはしない。必要とあれば、そして欲望とあれば、いくらでも魔物となれる』
「そうだな……」
『あのモノもこの地に生まれた人でありエルフでもある。つまりあのモノは魔物でもあるのじゃよ』
なにを言っているのだろうかと、老人を見た。
およそ人を模したとは思えない形をした目と口である。目はどちらも歪み、唇のない口からは尖った三角の歯が並ぶ。頭髪もなく、着ている服はぼろ切れそのものだ。
それでもこの老人は、この星が生んだ存在であった。
『この世界に闇はどこにでもあるのじゃよ。願わくは、あのモノの光がその闇に消されずにいて欲しいのぉ』
「闇とはいったい___」
その時背後から、何者かの気配を感じた。
下草をふむ足音がやけに大きく、その相手がだれなのか一瞬で感じ取れた。
「あっ、ヴォルフの兄貴じゃないですか! いつ人間に戻ったんで!?」
案の定、森を抜ける道を歩いてきていたのは、大きな荷物を背負った巨大な丸坊主だ。なにか奇術でも始めるように、その頭にフクロウを乗せていた。
「ハイヤー、そのフクロウは……」
「あー、これはリュット様がしばらく預かってて欲しいって言うんで、俺が船に連れてったんですよ。ここに置いておいても良かったけど、婆ちゃんもジュゼも色々忙しいし、それに船に連れてけばみんな喜ぶんじゃねーかなって」
「そ、そうか……」
『ワシの力も戻ってきたので離れたのじゃが、その鳥の中はなかなか居心地が良くてのぉ』
「あ、そうだ。お久しぶりっす、兄貴」
愛嬌のある新婚の巨漢は、人懐っこい笑顔で今さらの挨拶をした。
「俺は毎日会っていた気がするんだが」
「ちげーねーや。でもよ、あのでっかい狼が兄貴だなんてちっとも思わなくてよ」
「ま、そうだろうな。で、今戻ってきたところなのか?」
「もちろん、港からまっすぐっすよ。ほら、まあ、ジュゼに会いたいし……」
照れくさそうに笑った丸坊主は、可愛らしいを通り越し、少々気味が悪い。こういう感情が戻ってきたのは、人に戻れた証拠なのだろうか?
「しっかし本土の方も色々大変なことになってるみてーですぜ、兄貴」
「本土っていうと、まさかソフィニアが!?」
「いやいや、オイラの言ってるのはご領主様のことで。つまりフォーエンベルガー伯爵の城のこと。噂によるとソフィニアに付くか、セシャールに付くかで意見が分かれて、大もめみたいです。オイラとしちゃ、もちろんソフィニアに付いて欲しいですけどねぇ、こればっかりはオイラにはどうにもできねーし。ユーリィが、じゃなくて皇帝陛下がスゲェって分かれば、みんなきっとソフィニアがいいって言うに決まってるのになぁ」
しかしユーリィ自身の力と資質をどう皆に知らしめるのかは、きっと本人にも分からないだろう。
するとハイヤーの頭に乗っていたフクロウが、ばさばさを羽を動かし、不器用にもそばにある枝へと舞い移る。はげ頭には猛禽類の爪痕がくっきり残って、血が滲んでいるにもかかわらず、当の本人は痛がりもせずニコニコと笑っている。
精霊が言っていた“人の中にも魔物がいる”というのはこのことなのか、と思っていたら、枝に移ったフクロウが奇妙な声でホーホーと鳴き出した。
「いつの間に入り込んだんだ……」
老人の姿はすでにない。
『この方が落ち着くのでのぉ。それよりヴォルフと言ったか、おぬしは。ゲオニクスと呼んでもいいのじゃが、おぬしは気に入らぬじゃろうて』
「別に呼び名などどちらでも」
『あえてヴォルフと呼ばせてもらうぞ。おぬし、新月の夜には確実に親竜を倒さねばならぬぞ。ふたたび人に戻れなくなった時、おぬしはきっと後悔することが起こるじゃろう』
「どういう意味だ?」
『あのモノにひどく執着する闇がある、とでも言っておこうか』
その言葉にふと、ある男の顔が脳裏に浮かんでは消えていった。