第124話 魔刃
着地をした瞬間から戦いが始まっていた。
右側から来た最初の一体を、半身反らしてなんとか逃れる。しかし次の瞬間、左前方から別の一体が襲ってきた。
「うぁっ!」
咄嗟に持っていたランタンを振り回す。上手い具合に当たったらしく“ギャン”という叫声がした。ランタンを使ったのは左手に持っていたから。ただそれだけ。
ランタンの炎が消えかけて闇が増すと、点在する赤い目が見えた。ざっと数えて二十あまり、つまり十体のなにモノかに取り囲まれているようだ。
「大丈夫ですか、大侯爵!!」
上部からバルガンの声が聞こえてきた。
「平気! 大した敵じゃない」
後半は願望だ。
「でもだれも降りてくるなよ。魔法の邪魔になるからさ」
これは本当。思う存分暴れるには独りの方がいい。
「それより縄を早く。あとで登れなかったら困る」
「は、はい!」
敵の動きを見据えつつ、ユーリィはゆっくりランタンを足元に置いた。
怖くないわけじゃない。
心臓が耳の奥にあるかのように、激しく鼓動しているのが聞こえる。指先も微かに震えている。もしここでやられたら、ヴォルフにも二度と会えなくなる。
だから怖い。
なのになんでだろう、どこかワクワクしてしまうのは?
もしかしたら自分が強くなったと錯覚しているからなのか。
ふたたび短剣から出てきた小さきモノに、絶大の信頼を置いているからなのか。
(って、今考えることじゃないし!)
雑念を振り払い、意識を集中させる。途端、周囲の殺気を肌で感じた。
「レネ、来るぞ」
そう言って、自らも風の力を呼び覚ます。この感覚が堪らなくいい。昔よりも強いんだと、そう信じられるから。だれにも守られる必要はないと、そう思えるから。
刹那、四方から狼らしき敵が一斉に飛びかかってきた。
全身から吹き出す風に、髪が乱れ、紺のマントが舞い上がる。
「行け!!」
次の瞬間、四散した魔刃が闇を切った。
“ギャィィィイイイイイ”
聞こえてきた悲鳴は、少なくとも犬のものではない。いったい何だろうかと考える暇もなく、第二波が来た。今度は剣を振るって風を起こす。外した何体かは、飛び回っているレネが吹き飛ばして、激突した鈍い音があちこちでした。
しかしすべてを倒せたわけじゃない。致命傷を負ってないモノが諦めもせず襲ってくる。直後、忘れようとしていた頭痛が激しくなった。
(どこまで集中力が続くかが勝負だな)
床に置いたランタンの炎が徐々に回復し、見える範囲が広がっていく。すると敵がぼんやりと見えてきた。真っ黒な肢体をした犬のようではある。闇に染まっていたのはそのせいらしい。
(狼……?)
しかし、ふたたび迫ってきた敵の姿がはっきり見えた時、さすがのユーリィもギョッとなった。歯茎までめくれ上がった口と、そこからはみ出す無数の牙。糸を引いてしたたり落ちる唾液が、この生臭さの原因かもしれない。
(やっぱ魔物か!)
チラチラ見えていた姿に、なんとなくそんな予感はしていた。だがはっきり見てしまうと、勝てるのだろうかと疑念が沸き出す。
「大丈夫、絶対に勝て___」
「るわけねーだろ!!」
文字通り背後に降ってきた声に、ユーリィは驚いて振り向こうとした。
「振り返るな!!」
偉そうに命令するその相手は、紛れもなくハーンだった。
「な、なんで降りてきたの?」
「んなことはあとだ。集中しろ!」
「僕に命令するな」
「ああ、そうですね。では集中して下さい」
聞こえよがしに舌打ちをして、ユーリィは前方へと顔を戻した。
それからしばらく攻防戦が続いた。本当はそれほどでもなかったかもしれない。が、ユーリィにはずいぶん長く感じられた。たぶん集中力を失ったせいだ。ハーンがそばにいると、罪悪感で心が痛む。
ヴォルフを失いたいわけじゃない、ハーンに囚われているわけでもない。
それなのに……。
(ダメだろ、集中しろよ)
前方から来る敵を倒すことだけ考え、剣を振り続けた。後ろにいるハーンもかなり苦戦しているようだ。レネすらも敵に飲み込まれないよう飛び回っている。
とにかく敵がしぶとい。特殊な魔法を使ってくるわけではないが、そのしぶとさに辟易とした。一度や二度倒してもすぐに起き上がる。脚一本を失っていようが、首が変な方向に曲がっていようがお構いなしだ。紫色の体液と唾液の腐臭が、集中力をさらに低下させた。
それでもなんとか戦い続け、最後の首を魔刃で切り落とし、その胴体がズサリと横倒しになった時、精も根も尽き果てユーリィはその場に座り込もうとした。
すると、片腕を引っ張り、座ることを邪魔するヤツがいる。まだ気が抜けないのかと腹が立ち、その相手を睨め上げた。
「なんだよ!?」
「座ると汚れます」
「だからなに?」
「貴方を汚すのは、俺一人で十分ですから」
「なんだよ、それ……」
怒る気力も追及する気力も失せ、ユーリィは腕を振り払ってからため息を吐いた。
「気に触りましたか?」
「僕の気に触ろうと触るまいと、お前は気にしないだろ? それよりモデストを探そう。まぁたぶん……」
それ以上は言わず、床にあったランタンを拾い上げた。この事実を知った時、アーリングがどうなるのか気に病みつつ。
とりあえず前方を探ろうと、明かりを掲げてみる。倒れている死骸がまた動き出すのではないかと、内心気が気でなかった。
「怖いんですか?」
囁いたハーンの息が首筋に当たる。気を抜くにも程があると自分に呆れ、ユーリィは短剣を使ってその相手を牽制した。
「僕に近づくな」
数歩下がった相手は、ただ肩をすくめてなにも言わなかった。
モデストを探している場合ではない。今は自分の身が危険だ。
もしまたあんなことをされたら___
(頭痛がヤバい……)
心と体は別物だから、好きだと思っていても嫌だと思っていても、体が反応してしまえば体調が悪くなる。そのことをタナトスに知られるのは絶対に嫌だ。
「なにを心配されているか分かりませんが、俺はこうして貴方を助けに来ました」
「そんなこと、頼んでないし」
「頼まれなくても、それが俺の勤めなので」
「へぇ、そう?」
そもそもハーンの言葉も疑わしい。守るつもりならなぜ、あんな謀をしたのだろう。もっと言うなら、あのバレクという男もあの兵士もすべて疑わしく思えてきた。
(もしこれがすべてモデストの考えた企みだったとしたら……?)
あの男にそんな小知恵があるとは思えない。思えないけれど、そもそもヴォルフを除くだれ一人信じられないのだから、絶対に違うとも言い切れなかった。
そんなユーリィの懸念をよそに、ハーンはランタンを手から奪い取った。
「なにを……」
「怖いのなら、俺が見てきます」
「怖いなんて言ってないだろ」
「顔が真っ青ですよ」
「これは違……」
「そこで大人しく待っていて下さい。死体を見つけるなんてお安い御用です」
モデストが死んでいると決めつけ、ハーンは足元を眺めつつ奥へと歩き出した。
「なにもないですね、今倒した奴らの死骸しかない。おや、これは人間の大腿骨だな。だけど昨日今日死んだヤツのモノじゃないですね。肉片がほとんどついてないので」
奥へと進むハーンの輪郭が、少しずつ闇に溶けていく。
「ここにも骨がある。これは腕の骨か。あそこは頭蓋骨が一、二、三……」
「そ、そんなにあるの!?」
「上に穴が開いています。ってことは、あそこから餌の死体を投げ込んでいたのかもしれませんね。この辺りに一番骨が散らばってるので。あんな罠、年に何度も引っかかりやしないでしょうから」
その時、ハーンがいる方で、空を切るようなシュッという妙な音がした。
「今の音、なに!?」
「音? さあ、聞こえませんでしたが?」
「嘘つけ。今、変な音がしただろ」
「空耳じゃないですか? それともそっちになにかが行っているのかも?」
含み笑いの混じったハーンの声に、ユーリィは自分が完全に弄ばれているのだと悟った。先ほどのことも、その前のこともすべて。
恨まれるのは慣れているはずなのに、異母兄で散々苦渋を味わってきたというのに、己の学習能力のなさにほとほとあきれ果てた。
(でも、ハーンの態度が毎回違うから分からないんだ。嫌いだと言っていたくせに、キスとか……。それも嫌がらせだと思えば納得だけど。そういえばさっき、“俺が汚す”とか変なこと言ってたな)
問題はこの場で手を出してくるかということ。
そればかりか敵がだれなのかもはっきりしない。上にいるバレクもバルガンも、姿が見えないモデストもすべて怪しいと疑えば、そう思えてくる。油断はならないとユーリィは剣の柄を強く握りしめた。
その時__
背後で先ほどと同じ音がして、飛び上がるほど驚き、振り返る。果たして、天井の穴から一本のロープが下ろされていた。
「大侯爵! ロープをお持ちしました。今そちらに降りますから」
「待て! まだ来るな!」
咄嗟に叫んでいた。
疑心暗鬼が増加している。なにも考えずに突っ込んで、今ごろになって心配になるなんて愚の骨頂だが、自己反省は後回し。ユーリィはロープを見つめ、次の展開に備えて身構えた。
(何人降りてくるんだろう? 一人二人ならなんとかなるかもしれない。ハーンは加わるのかな? そういえば後ろでも同じ音がしたっけ)
頭痛が思考の邪魔をしている。
音の意味を考えるまでに数秒を有してしまった。
(……あ、ってことはつまり後ろからも降りてくるのか?)
思いついたその刹那、背後から両腕ごと拘束された。
「放せ、ハーン!」
暴れたものの、拘束はますます強まるばかり。自分の非力さに、ユーリィは未だかつてないほど失望した。
「殺したいなら正面から挑めよ! こんな卑怯な真似をするんじゃなくて!」
「殺したいなんて、だれが言いました?」
「僕が嫌いだって言っていただろ、ハーン」
「シャミル」
「……え?」
聞き覚えのある名前に、ユーリィは一瞬固まった。
「俺の名前ですよ。あの屋敷ごと吹っ飛ばされたガキです」
「思い出したのか!?」
「ええ、かつてそう呼ばれていたという記憶だけ」
「つまりその恨み?」
「そんなことはどうでもいい。あのままでも、俺はただの孤児でしかなかった。もちろんエルフや魔物に対する嫌悪感は残りましたけどね。もし貴方に罪があるとしたら、運命を変えてしまうほどだれかを虜にしてしまうことですよ」
「そんなの、言いがかりだ……」
首筋にキスをされた。
なぜハーンがそんなことをするのか、未だ分からない。
嫌がらせや恨みではないとしたら、これは?
「ジョルバンニは貴方を闘鳥だと言う。美しく戦うその姿を見てみたいのだと。残念ながら俺は別にそんなことも思わない」
「いったいなにが言いたい?」
「貴方が欲しい、ユリアーナ。貴方のすべてが」
「なにを言っ――――!?」
気づけば、頬を押さえつけられ、背後から強引にキスをされていた。
「もう待てません、大侯爵! 本当にご無事なのか、どうかお姿を確認させて下さい!」
哀願するようなバルガンの声が聞こえた。
全然無事じゃない。
逃れようともがき、ようやくその唇が離れた時、短剣で相手を斬りつけた。
刃先が当たり、一筋の傷がハーンの手の甲につく。数歩下がった男は、薄闇の中でその傷をぺろりと舐めて、にやりと笑った。
「これからも貴方のために働きましょう。口先だけの魔物とは違い、俺は本気でやりますよ。今後、邪魔者が消えるたびに俺を思い出して下さい。貴方のために手を血に染める男がいることをね」
「止めろ、ハーン。僕はそんなこと望んでいない!」
「血に染まったこの手で、美しい貴方をいつか汚したい。それが俺の望みです」
背後で数人が飛び降りたような足音がした。「大侯爵!」とバルガンの声がする。チラリと見れば、バルガンとその他三名の兵士が上から降りてくるところだった。全員の手には剣がある。もしこの場で襲われたら一巻の終わりだ。
そんなユーリィの気持ちを悟ったかのように、闇に染まったハーンが言った。
「ご心配なく。彼らは敵じゃない。もしそうなら俺がこの場で倒している」
「ちょ、ちょっと待って、ハーン」
「またお会いいたしましょう、大侯爵」
そうしてシャミル・タナトス・ハーンは消えていった。
茫然と立ちすくむユーリィを兵士たちが取り囲み、口々に怪我や体調を心配する言葉をかけてきた。さらに足元に散らばる魔物にうめき声を上げる。
最後にモデストの遺体を見つけ、彼らの叫び声が響き渡った時、この茶番とも言える舞台は幕を下ろした。
数日後、内臓をすべて引き出され、手や足や顔を引き千切られたモデストの遺体と共に、一行はソフィニアへと戻った。
アーリングが怒り狂ったのは言うまでもない。