第123話 裏切りの代償
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唇を愛撫しているのは夢に出てくるヴォルフだと思っていた。
感じる匂いがあの頃と同じだったから。
あの頃__
強引にキスをされていた時はただ怖くて、煩わしくて、ほんの少しだけ暖かで。
それがいつの日か、血肉の中まで彼の愛が染み込み、失うことを恐れるようになっていた。だからこうして口づけをされれば、自然に反応してしまう。
絡み合う舌が気持ちよくて、夢中で貪った。
それなのに、大人になれない体が苦痛の種をまた蒔き始めている。夢でさえ溺れることを許されない。いつになったら年齢にふさわしい情欲に耐えられるようになるんだろう。
熱い唇が首筋をなぞっていく。
“ぁ……んっ……”
快感が背中を這い上がり、脳天に達すると同時に頭痛を呼び覚ました。
遠くでだれかが悲鳴を上げている。
あれはこの体の声なんだろうか。
「ユリアーナ……」
違う!
ヴォルフはその名で呼ばない。
恨みがこもったその名で呼ぶことは絶対にない。
だとしたら__?
だとしたら、あれは体が発している声ではない? 助けてくれと何度も何度も懇願する獣のようなあの悲鳴は……。
「___!!」
夢と現の狭間にいたユーリィの意識は、一瞬で覚醒した。
ゴツゴツした床に寝かされている。覆い被さっている相手がだれなのかは知っていた。
気を失う直前、ククリらしき女の声を聞いて追いかけた。でも本当はあの男かもしれないと考えていた。
どうしてそう思ったのかは分からない。彼は故郷には戻ってはいないだろうという想像していたが、そんな結論を導き出したのかもしれない。
暗闇の中で凝視している相手を見上げ、その名を呼ぶ。
「ハーンなんだろ?」
しかし返事はなく、その代わりというように首筋を痛いほどに吸いついてきた。
「やめ……ろ……」
「興奮しているのか?」
「ちが……ぁ……んっ……」
唇で塞がれ、舌を絡まれる。
(どうしよう、気持ちいい……)
ヴォルフに対する裏切りだと分かっているのに、拒絶できない自分がいて、それをハーンが感じ取っているのだ。このままでは意識まで犯されてしまう。今唯一の味方は、激しくなりつつある頭痛だけ。
抑えきれない欲情を拭おうと、聞こえてくる悲鳴に耳を傾けた。
(あの声はモデストの……)
色々問題はあるけれど、だからと言って見殺しにして良いわけじゃない。なんにせよ、アーリングの甥であることは、無視できない事実だ。
(助けないと)
そう思った途端、意識は解放された。
拘束されていない右足を動かし、逃れようと試みる。抵抗に驚き動きを止めた相手の、一瞬の隙を突いて、唇を離した。
「レネ!」
精霊の名を口にした途端、なにが起こるか分かっているハーンの体が、転がるようにして退いていった。しかし精霊を呼んだのはただの警告。
(僕だって暴漢を撃退するぐらいの力はあるんだから)
体の内にある魔力を、額の一点に集中させた。
その力を今度は血流がごとく、全身へと広げていく。
痺れるような感覚が、手の先足の先にまで到達すると、瞬間、鋭い刃をイメージして闇へと放つ。
激しい風となった空気が飛び散る。乱れるハーンの靴音がした。足の方でなにかが小刻みにガタガタと鳴った。
入ってくる時に見た青銅製の扉だ。もちろんそれを切り裂くほどの力はさすがに無く。しかも性欲に伴う体調不良と、冷めていく倦怠感と、魔力を使ったあとの疲れが一度に襲いかかってきた。特に頭痛が一番酷い。興奮が治まったら消えてしまうような単純なものだったら良かったのにと思いつつ、ユーリィはなんとか立ち上がった。
(あれ? 悲鳴、聞こえなくなったな。助かった? それとももう遅い?)
なんにしても外がどうなっているのか気になった。
ギルドの男たちはどうしたのだろう。ヴォルフの父親は無事なんだろうか。悲鳴やら扉の音やら、これだけ大騒ぎしているのにだれも来ないのはなぜだろうか。
疑念を抱きつつも手探りで扉にたどり着き、取っ手を掴んだ。しかし押そうが引こうが一向に開かない。
「おい、ハーン。鍵を持っているんだろ? 出せよ」
背後にいるらしい男に言った。すると命令に従うつもりなのか、姿が見えない相手の靴音が近づいてくる。途端ゾクゾクと泡立つような感覚が背中を這いずった。
「やっぱイイ。来るな」
耐性がまったくないくせに、溺れていく自分の体に腹が立つ。舐られた唇にはわずかに熱がまだ残っていた。
かなり辛い状態だけれど、なんとかするしかない。
そんな気持ちが分かったかのように、腰から抜いた短剣から黄色い光が飛び出してきた。
「レネ、頼む」
青銅ならいけるはず、たぶん。
落ち着いて二歩ほど下がり、先ほどの要領で内にある魔力を呼び覚ます。
(ダメだ、上手くいかない)
頭痛に集中力を阻害しようとしている。堪えろと自分に命令を下し、両手で剣を握り直した。
すると、レネが剣の周りを何度も回り始め、黄色い光が剣を包む。
今だ!
心で叫んで、魔力を剣へ流し込んだ。
同時に上から下へ一太刀、剣を振り上げる。
次の瞬間、闇を切る鋭い風音がして、レネの光に浮かんだ扉が軋んだ。
(やったか!?)
急いで近づき確かめると、中央部分がわずかにズレている。
もしやと思って、その部分を力任せに蹴飛ばすと、蝶つがいと繋がっている方が外側へと少し開いてくれた。
「真っ二つかよ……」
驚くハーンの声は無視して、ユーリィは開いた場所からそっと顔を出した。
正面にある扉が開いている。右手の方はさっきまでいた場所で、薄い明かりが開いた部分から中へと入ってきていた。ただしここからではすべてが見えないので、向こう側にだれがいるのか分からない。気配どころか声すら聞こえてはこなかった。
「ハーン、なにがどうなった? モデストとバレクとかいうギルドの男はどうした? セシャール人たちは無事なのか?」
「俺はなにも知りません」
「嘘つけ。僕を気絶させたのはお前だろ。分かってるんだ」
「覚えがありません」
背後から聞こえてくる声には、まったく感情がこもっていなかった。近づいてこないのは、先ほどの魔法が牽制となったのかもしれない。
「とにかくあっち側が気になるな。さっきは開いてなかったし」
危険がないことを確認し、ユーリィは開いた扉の隙間から一歩外へと踏み出した。
ところが、完全に外に出ようともう片方の足を上げかけたところで、背後から腕を強く掴まれた。
「ダメだ、行くな!」
振り返って見たハーンの顔は、薄暗くてよく見えない。だからどんな表情をしているのかは分からなかった。
「だれに命令している?」
「命令ではなく制止です」
「どっちでも同じだろ。でも止めるってことは、向こうになにがあるか知ってるんだよな?」
「だからなにも知らないと言っているでしょう。俺は貴方を守れと指示されただけだ」
「守るために気絶させたのかよ、意味が分からない。しかもあんな……」
言いかけて、自分がなにをしたのか思い出した。
夢だと思っていたとはいえ、ヴォルフを裏切るようなことをしてしまったことを。
「あんなことをしたのに?」
「言うな」
「貴方だって応えていた」
「うるさい、黙れ!」
握っている剣をちらつかせ、ハーンの口を閉ざそうと試みる。けれど彼はさらに続けて、ユーリィの顔を火照らせた。
「欲しくて堪らないと、舌を絡ませた」
「黙れと言ってるだろ! それに今する話じゃない。今は他の連中がどうなったのか確かめる時だ」
「ここは放置して逃げる時かもしれない」
「どうやって?」
「後ろには外に出られる穴がある」
そんなことまで知っているハーンがなにも知らないはずがない。
力尽くで口を割らせることは可能だろか。
万が一負けたら、次は完全に組み敷かれ、そして____
「ダメだ。ここにはまだヴォルフの父親が残っているかもしれない。他の連中はともかく、あの人だけは絶対に助けないと」
刹那、ハーンの鋭い双眸は異様な光を帯び始めた。腕を掴んでいる手にも力が入る。
「痛い、放せ!」
「まだあんな魔物のことを__」
「大侯爵、ご無事でしたか!」
叫び声に阻まれて、ハーンは言葉を切った。ユーリィも驚いて声のした右手へと顔を向ける。果たして、そこにはバレクと数人の兵士が立っていた。
「いったいなにがあった? モデストの悲鳴が聞こえたけど、アイツはどうした?」
「そ、それが大侯爵のお姿が見えないと分かり、ここへ来たらその扉が開いていました。きっとそこだろうと言うことになって、司令官に調べてもらおうとしたのですが、奥に行った途端、彼の叫び声が……。私はもうどうしていいか分からず、とにかくだれかを呼びに行かなければと、上に行って兵士たちを連れてきた次第です」
まるで用意された答えのように、バレクはするすると説明した。
「セシャール人たちは?」
「ご無事です。念のためにこちらには戻ってこないようにと伝え、見張所の入口に兵士を配備しました」
「そう……」
ではモデストになにがあったのか。奥にはなにがあるのだろうと、ユーリィは改めて開いた扉の奥に視線を戻した。
中は狭い通路で、オイルランプでもあるのかところどころ明かりが灯っている。しかしそれも入口付近だけで、奥の方は真っ暗だった。なにか嫌な匂いも流れてきている。腐ったなにか、もしくは獣がいるような生臭さだ。
「だれか奥に行って調べてきてくて下さい」
平然とした顔でバレクは、背後の兵士たちに言った。当然兵士たちは動揺した表情を浮かべ、探り合うような目で互いを見ている。危険があると分かっている上で、好んで行きたがるヤツは早々にいないだろう。
「司令官の身になにかあったのに、あなたがたが無事なのは変に思われますよ。アーリング将軍は、見殺しにしたと受け取られるかもしれません」
「で、ですが我々は上の騒ぎを止めようとして……」
「司令官を大事に思っていらっしゃる将軍が、そんな言い訳に耳を傾けるかどうか」
なにかが変だとユーリィは思った。バレクはこうなることを予測していたような雰囲気だ。それにハーンがいることも追及してこない。
モデストも自分も完全に嵌められたのだ。
バレクの、もっと言うならジョルバンニの目的はモデスト排除だったのだろうと想像がつくが、本当にそれだけだったのだろうか。なにもこんな時に狙う必要はない。他にもやり方が十分あるはずだ。
もしかしたら、自分もその対象だったのではないかと、うがった考えがユーリィの中に芽生えていた。
「さあ、だれか行ってください」
「分かりました、自分が行きましょう」
先ほどと同じように、バルガンという男が一歩前に出てそう申告した。
「では早く」
バルガンは仲間からランタンを受け取り、扉の前まで来ると一度立ち止まった。ためらうのは当然である。むしろ彼がなんの義務感を持って、命令に従ったのかが気になるぐらいだ。
「行きます」
「無理はするなよ。危ないと思ったら引き返しても、だれも責めないからな」
ユーリィは思わず声をかけていた。振り返った初老の男は「ありがとうございます」と、穏やかな微笑みを浮かべて返事をした。
男はそろそろと注意深く歩いていく。明かりが途絶えた辺りまで来ると、ランタンを掲げて奥をよく見ようとしているようだ。
かなり奥まで行った時、「うわっ」と叫んで、やや後退した。
「どうした!?」
「穴が!」
「穴!?」
「奥に小さな部屋があるのですが、その入口付近に穴が開いています」
「下になにがある?」
「暗くて見えませんが、変な匂いと、唸り声が聞こえます。まるで狼でもいるような、そんな気配です」
「狼!? こんな砂漠で?」
ユーリィはどうしても自分の目で確認したくなった。
緩んでいたハーンの手を振り払い、一歩前に出る。するとバレクが前に立ちはだかって、行く手を阻んだ。
「危ないですので、どうかこの場に」
「危ないかどうかは、自分で確かめる」
「無茶をおっしゃらないで下さい」
「モデストになにかあったのなら、勝手な行動をした僕にも責任があるし、僕がこの目で確かめてアーリングに説明する必要もある。大丈夫、無茶はしない」
「しかし……」
「本当に止めたいの?」
バレクは一度口を閉ざした。
どんな返事が正しいのか考えているのだろう。
もちろんどんな返事でも、ユーリィは行くつもりだった。
「お止めしても無駄なのでしょうね、きっと。分かりました。ですが本当に無茶はなされないようにお願いします」
本当はどうなってもかまわないと思っているくせに。
自分がいなくなれば、ジョルバンニは新たな人形をどこから探してくるだけだ。
見返したバレクの表情に、ジョルバンニの冷笑が見えた気がして、ユーリィは無性に腹が立った。
そうしたければそうすればいい。
自分はただ行動するだけ。
「帰ったら、お前の責任も追及しなくちゃならないだろうな、バレク」
「ええ、分かっております、大侯爵」
「ジョルバンニに泣きつけば済むと思うなよ」
自分でもくだらないと思う脅し文句を口にして、ユーリィはバレクの体を押し退けた。
「そちらに大侯爵がいらっしゃるそうです。あなたはその場に待機して、大侯爵を守ってください」
バレクが奥にいるバルガンに声をかけた。
「ほ、本気ですか!? そんなことはお止めください、大侯爵!」
「大丈夫、見に行くだけだ」
意地になっていると自分でも思った。
頭痛は治まる気配はないどころか、まるで責め苦のように襲ってくる。
何度も舌を絡み合わせ、ハーンを求めてしまったこと。
ヴォルフを裏切ったことに、どんな言い訳も効かない。
今できるのは彼に赦しを乞うため、これ以上奴らの思い通りにならないと意地になっている。
それとも、これもまた奴らの思い通りなのかもしれない。鼻つまみ者の司令官と、卑しい新皇帝を排除するために仕組まれた罠に、まんまとはまっただけなのか。
(だとしても、思い通りになんかさせるものか)
前方にいるバルガンを睨みつける。あの男もまた罠なのかもしれないと、手中に残っている短剣を握りしめた。
(頼むよ、レネ)
宝石に戻った精霊だけが頼りだ。
進むごとに腐臭が強くなっていく。獣のような唸り声も確かに聞こえる。それも一匹や二匹ではなく、かなりの数がいそうな気配だった。
バルガンの姿がはっきり見えてきた頃、彼は手を横に伸ばしてユーリィを制止した。
「これ以上はお近づきにならないように」
「どうして?」
「足元を見てください。そちら側は石ですが、ここからは板の間となっています」
「ホントだ」
バルガンの立っている位置は、板の間になって少し行った所。その後ろは本当に小さな部屋のような場所で、古びたベッドが一つ壁際に置かれてあった。
「穴はここです」
部屋に一歩入った部分を、男が指さす。
床板の代わりに闇がそこにはある。唸り声はその中から聞こえてきていた。
「腐って、床が抜け落ちた?」
「自分もそう思って見たのですが、穴の縁は腐っているような跡はありません」
「じゃあ、罠か?」
「かもしれません。侵入者を排除するための」
「ベッドの意味は?」
「入口に立って中を覗いた時、ベッドがあれば油断して奥に進むでしょう」
「なるほど」
かなり論理的な意見である。
するとバルガンは太い眉を顰め、急に怪訝な表情を浮かべた。
「しかし少々変な気がします……」
「変?」
「入口付近にオイルランプが灯っていました。つまり最近ここに入って点けたのでしょう。大きさから考えて、半日しか保たないので」
「そうだね」
「閉ざしておくなら、なぜ灯したのでしょう? なぜ入口付近だけで止めたのでしょう? 中は確認しなかったのでしょうか? 確認したのだとしたら、どうしてこの罠に引っかからなかったのでしょう? 罠があることを知っていたのでしょうか?」
この男は奴らの一味ではないのだろうかと、ユーリィは髭面のバルガンを見返した。相手も意味深な目でこちらを見ている。自分が疑われているのだとユーリィは直感した。
「いずれにしてもランプを灯していた意味が不明です。もしも……」
「もしも?」
「もしも、だれかが罠をしかけようと思わなければの話ですが」
「それは__」
僕じゃない。
言いかけたところで、後ろでバレクが叫んだ。
「もうそろそろお戻りください、大侯爵。それ以上は危険です」
ユーリィはチラッと後ろを振り返り、そして言いかけた言葉を続けた。
「それはだれが仕掛けたとお前は思う、バルガン?」
「貴方か司令官かどちらかが狙われたのだろうと想像はできますが……」
「でも僕は掛からなかった。モデストが狙いならだれだと思う?」
「さあ、自分には分かりません」
しかしその瞳は、お前だと言っている気がした。
「大侯爵、お願いします、お戻りください」
ふたたびバレクの声がする。
「でもこれからどうする? モデストが消えたでは済まされないぞ」
「それはあとで、兵士たちに探らせます」
「でも危ないんだろ?」
「それが兵士の役目ですから」
その言葉を聞いて、バルガンは小さな舌打ちをし、「オレらは捨て駒か」と呟いた。
この場にいなければ、あるいはユーリィも同じ命令を下したかもしれない。けれどこの穴を見て、この腐臭を嗅いで、唸り声を聞いて、罠の仕掛け人だと疑われて、そんなことはできやしない。
甘いのは分かっているけれど。
足元に落ちていた小石を拾い、ユーリィはゆっくりと穴の方へ近づいていった。
「なにを……」
石を穴へと投げ込んでみる。戻ってきた反響から、それほど深くはないと知った。せいぜい二階から飛び降りる程度だろう。
まだユーリィがなにをしようとしているか分からないバルガンは、困惑した形相のまま。その手にあるランタンを強引に引ったくると、
「お前たちは、僕が守ってやるよ。あ、でも縄を探して落として。お前を信じるからさ、バルガン」
「……え?」
「なんとかなる、たぶん。もしなんかあったら、そんなことはないと思うけど、ジョルバンニにはライネスク大侯爵はせいぜい頑張れと言っていたと伝えておいて」
ユーリィが下を向いた時、ようやく男はなにをしようとしているか理解したようだ。
「お止めください、大侯爵!」
「行くぞ、レネ!」
伸びてきた男の手をするりと交わし、ユーリィは穴の中へと身を躍らせた。
最初は意地だったけれど、今はワクワクする。
久しぶりに暴れることができるかもしれない、あの頃のように。
「バカヤロー!!!」
遠くで叫び声がした。
ヴォルフと同じセリフを吐くその相手は___