第121話 破壊の衝動 前編
『何もかも壊したいという衝動
わけもなく傷付けたいという衝撃
この身を裂いて 暗黒色の血が流れゆく』
――ムハ・ツィリル詩集『破壊の衝動(前半)』より
古城の石壁を染める闇は、過去から染み出した怨念のようだ。この場所でいくつの戦いがあり、どれほどの命が失われたことか。
見上げれば、星空を貫く塔。穴のような二つの窓からは光が漏れる。あの灯火のそばには少年がいるのだと考えただけで、体の芯が熱くなる。
滑らかな肌、甘く香る金の髪、冷えた唇の感触、僅かに漏れた喘ぎ声。
現れては消える幻が、ここ数日タナトスを悩ませている。まるで女を知らぬガキのようではないかと自分でも可笑しかった。あとどれくらい会わずにいれば、あの魔性の力を拭えるのだろう。
どこかで幼子が泣き叫んでいる。
あれも幻なのか。
それとも本当に、過去に飛ばされた自分なのか。
心の奥にあるエルフへの嫌悪感はそのせいなのか。
(チッ、馬鹿馬鹿しい)
塔の壁に寄りかかり、紫煙をふっと吐き出す。野営をしている兵士たちの声が細波のように子供の声をかき消した。
その時__
「お待たせいたしました」
闇の中から人影が現れた。タナトスは体を起こし、持っていた煙草を足元に投げ、胸懐ともに靴先で踏みつぶす。
過去がどうであろうと、今は進むしかないのだと。
「なにをすればいい?」
「焦る必要はありませんよ」
闇に沈んだ相手を眺め、タナトスは眉をひそめた。声からすると、歳はかなり上だろう。ジョルバンニの側近らしいが、言葉遣いは妙に丁寧だった。
「別に焦ってはいないさ。自分の次の行動を知りたいだけだ」
「すべては明日、砂漠にある鉱山へ到着してから。鉱山と言っても、砂漠の地下に蟻の巣のような採掘地が広がっているわけですが」
「その中で?」
「結論としてはそうです。が、セシャールの方々もいらっしゃるので、さすがに奥まで案内するわけにはいきません。入口付近にある採石場を視察することになるでしょう」
「じゃあ、俺が奥におびき寄せるのか」
「まあ、お待ちなさい。あなた一人ではさすがに厳しいものがありますから、協力者を付けましょう」
協力者と聞いて、タナトスは少々イラッとした。
すべて独りでやりたかった。あのクソガキの呪縛から逃れ、繰り返される幻覚を消す為に。じゃないと俺はどこにも行けないに違いないと、そう思っていた。
男がやや後ろに顔を向ける。すると塔の陰から何者かが現れて、タナトスの苛つきは倍増した。
「おいおい。まさか敵に協力してもらおうって言うんじゃないだろうな?」
フォーエンベルガーにいた頃は、エルフの種族など気にしたことはなかった。しかしソフィニアに来て、ククリという種族が諸悪の根源だと知った。彼らの特徴は乳飲み子を除く女子供まで黒いローブを着ているということ。
そして今現れた人物は、まさにそのローブを着込んでいる。ジョルバンニならやりかねないとは思いつつ、面倒なことになるのはイヤだった。
だが男は「いいえ」と穏やかにタナトスの質問に返事をした。
「なら……」
「フードを」
そう言われて相手は、頭を覆い隠していた物を取り去った。目が暗闇に慣れてきたこともあり、タナトスはその人物を大まかに見ることができた。
エルフの女だった。おそらくではあるが、どこかで会った覚えもある。
案の定、相手は小声で「お久しぶりです」とタナトスに挨拶をした。
「どこで会った?」
「収容所で……」
「ああ、なるほど」
言われた途端、捕虜を移送している最中、ずっと不機嫌なラシアールの女がいたこと思い出した。そもそもエルフは顔立ちが似ているので、タナトスには見分けがつかない。目の前の女がそうだと言えば、そうだろうと思うしかなかった。
「同じ質問を繰り返して申し訳ないが、なにをすればいい?」
「その前に彼女に確認させて下さい。本当に大侯爵は君を知らないのですよね?」
「ええ、直接お会いしたことはありません」
「よろしい。では計画通り、その格好で大侯爵をおびき寄せて下さい。他の三人には見ないようこちらでなんとか致します」
「あの……どうやっておびき寄せるか色々考えたんですけど、思いつかないんです」
戸惑いを隠さず、女は言った。
国王と言っても過言ではない人物を、確かにそう易々と導けるものではない。しかし男はさも簡単なことだというような態度で、小さく肩をすくめた。
「“お助け下さい”」
「……え?」
「そう言えばいいと、議長はおっしゃっていましたよ」
「お助け下さい……ですか?」
「ええ、そうです」
女は信じられないというような声を出したが、タナトスは“なるほど”と心の中で納得した。幼児に見せた笑顔が思い出される。だからこそ苛つかせるのだ。
闘鳥に甘さなど必要ないとジョルバンニが言った。その通りだ。非情なる者なら、いくらでも忌み嫌えるというのに……。そう思ってしまう自分も甘いなと、タナトスは闇の中でほくそ笑んだ。
「で、俺はそのあとで?」
「いえいえ、それは大丈夫。もうすでに餌をまいておきました。物欲しそうに涎を垂らしていたので、期待通りの反応はしてくれるでしょう。実は貴方には、さほどしてもらうことがないのです。計画の変更がありましたので」
「変更? それはいったい……」
「肉料理がお好きなようですので、たっぷり楽しんでいただこうと思いましてね。もっとも食べるのがご本人とは限りませんが」
ジョルバンニは、飼い犬にも自分と同じ物を要求するらしい。男から放たれる気配がジョルバンニのそれとよく似ていた。
半日後、タナトスは一面に広がる黄金の世界にいた。噂に聞く“モルパス砂漠”だ。
一陣の風が吹くたびに、砂が目や口に入って、行く者を苦しめる。だが気温はさほど高くはなかった。見上げれば天気は薄曇り。
「この砂漠じゃ、草も木も一瞬で枯れるらしいぜ」
隣にいる男がそう説明してくれた。
数千年前に突如出現したこの砂漠は、なんでもエルフ戦争において魔法によって作られたとか。今でもその魔法は消えずに残っているという。その真意はタナトスには分からない。分かったところで、この場所に砂しかないという事実に変わりはなかった。
隊列の先頭の方では、また例の妙な音楽を演奏している。日に一度はあれをしないと気が済まないらしい。おかげで這いずってもついて行けるほどの速度だ。
行進は主にデブが指揮をしている。今は大人しく予定通りに動いているらしいが、捕虜移送の時のように、いずれ調子に乗って好き勝手し始めるだろう。もちろんあの男にその“いずれ”があればの話だが。
「ったく、歩きにくいな、ジェス」
隣を行く若い兵士がふたたび言った。
タナトスは、ソフィニアからずっと歩兵として隊列に加わっていた。しかし並び順などは特に決められていなかったので、同じ人間の隣にはいないよう注意をした。今日も初見の男なのだが、馴れ馴れしく話しかけてくる。おまけに自己紹介までさせられて、適当にジェスと名乗っておいた。
「砂漠だからな」
「ホント砂しかねーや。あ、でもところどころに石が置いてある。あれはなんだろ」
「鉱山までの道しるべじゃないのか。尖っている方向に進んでいるから」
「あっ、納得」
前方には二台の馬車が横並びになっている。一台はもちろんあの少年が乗っているもので、もう一台は今朝合流したばかりの馬車だ。たぶんそこに昨夜会ったあの男が乗っているのだろう。
その後、半時ばかり行軍し続け、やがて小高い砂山の手前で連隊は停止した。
先頭にいた騎馬兵たちはその山の手前で馬を並べている。その後ろには、石で囲まれた大きな穴がぽっかりと空いていた。
騎兵の横に停まった二台の馬車の扉が開き、数人が降りてきた。その中の一人が、砂と同じ髪をした少年であることは、遠目からでもはっきり見て取れる。
目を細め、その姿を眺めていたタナトスに、隣の男がふたたび話しかけてきた。
「おっ、いよいよ到着か。あの穴の中が鉱山かな?」
「だろうな」
鬱陶しさを抑えて、タナトスは適当に返事をした。
「相変わらずお綺麗だなぁ、天子様は。男にしておくのが勿体ない」
「マヌハンヌス教では女帝は認められていないんだから、男で良かったじゃないか」
「まあ、そうだけど。それに女だったらあのデブがきっと喰いに行くしな。あいつ、自分は選民だって勘違いしてるから、神の子を手に入れるのは当然だって顔するに違いない」
「神の子……ね」
そんな大層な存在じゃない。
あのガキこそ、男を喰う魔物だ。
じゃなければ俺がこんな___
「おっと、休憩らしい。オレら兵蟻はしばらくお役御免だな、お偉いさんはこれからが本番だろうけど。ま、こんな場所じゃ、やることもないけどさ」
しばらくして、タナトスは兵士たちの集団からこっそり抜け出していた。指定された場所は鉱山のある砂山の裏だ。石が目印だと言われていたので、すぐに分かった。一抱えほどある石が五段、ちょうど人間一人分に積み上げられている。
先に来ていたエルフの女が、その陰からそっと姿を現した。
「この穴がそうみたいよ」
そこが鉱山の裏口だと教えられているその穴を指さし、彼女が言った。そしてローブの下に隠していた小さなランタンを、タナトスへと差し出す。
“かなり暗いので、ランタンは必ず持ってきて下さい”
そうも言われていた。
「先に入るんでしょ?」
当然という物言いにはカチンと来たが、なにも言わず受け取った。
「名前は?」
「私の?」
「ああ」
「教えるわけないでしょ」
首元に張り付いた黒髪を指先で払い、女が答える。エルフの顔立ちはどれも同じに見えるが、彼女の場合は右目の際にあるホクロに特徴があった。
「なにかあった場合、“おい”でいいのか? 俺たちはしばらく一蓮托生なんだ」
「だったら自分が先に名乗って」
「俺はジェス」
躊躇なく答えたタナトスに、女は疑いの視線を向ける。しかし偽名かどうか、彼女の知る由もない。
少々悩んだ末、女は「アーシャよ」と呟いた。
自分と同じように偽名だろう。だが本名とまったく違うわけではないとタナトスは察知した。
(アーヤか、アーニャか、そんなところだろうな)
もちろんそれを知ったところで、今のところ何の意味もなかった。
意味があるとするならば__
「これは単なる興味だが、ラシアールはギルドに付くと決めたのか?」
「付くってどういう意味?」
「今のソフィニアは三つ巴、いや四つ巴の状態だろ? ラシアール、ギルド、貴族、そしてアーリング率いる陸軍のね。その力の拮抗を崩す予定なのかと思っただけさ」
「今回の件はラシアールとはなんの関係もない。私の個人の意志。もちろんブルー将軍にも知らせていないから。それに三つ巴だろうと四つ巴だろうと、その中心が皇帝ユリアーナであることに意義はないわよ」
その名前を聞いて、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
表情に出てはマズいと顔を逸らす。
早くこの呪縛から逃れたかった。
(いっそ、本当にやってしまうか……)
この穴の奥で、劣情に任せて、あの華奢な体をプライドごと切り刻んでしまおうか。
そうしなければ無間地獄のような場所から抜け出せないのかもしれない。
「さて、イヤな仕事は早く終わらせるぞ」
ランタンの取っ手を口にくわえ、タナトスは奈落の底へと伸びるハシゴを降り始めた。