第118話 鎧をつける者 後編
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朝食会が終わり、少し時間を置いてからユーリィはエルナが使っている客間 ――本人は“小さな執務室”と言い、その呼び名が気に入っているようだ―― を訪れた。
狼狽した心はまだ残ったまま。
もしも彼女がなにかを求めてくるのなら、領地に戻って欲しいと言わなければならない。自分のそばにいることで、好きな者をどこかに堕としていく現実はもう十分に味わっている。だからもうこれ以上は許されないのだと感じていた。
室内にユーリィが入るなり、エルナは悪戯が見つかった子供のように、意味深な笑みを浮かべていた。
「……なに?」
「そんな物憂い表情で現れると、傷つくって思って」
「そんな顔してる?」
「うん、してる。でも貴方が心配するようなことはなにもないわ、安心して」
「エルナ?」
彼女はそれ以上なにも語らず、ユーリィから背後にある扉へと視線を移した。
まるでそのタイミングを見計らったかのように扉が叩かれる。
エルナが「はい」と返事をすると、「お客様です」と男の声が戻ってきた。
「思ったより早くて良かったわ。私も着替えたいと思っていたから」
そう言って彼女が扉を開ける。
開かれたその向こうに立っていたのは従者と、それから___
「どうぞ、お入りになって」
エルナの声に促され、相手はゆったりとした足取りで客間へと入ってきた。
従者が扉を閉める。
パタンという音が消え去ったのち、最初に口を開いたのはその相手だった。
「お招きいただき、ありがとうございます、エルネスタさん」
「まだ準備が整っていないので、お待たせしてしまうことになりますがよろしいですか、グラハンス子爵?」
「お気になさらず」
「ありがとうございます。では私は着替えて参りますので、おかけになってお待ちくださいね」
エルナはユーリィに軽くウィンクをして、奥の部屋へと消えていった。
完全に謀られた。
もちろん怒ってはいない。
きっとエルナは他の二人より早く、子爵を呼び寄せたのだ。だからこの場を作ってくれた彼女には、感謝の言葉もない。
本当に彼女は良き理解者であり、良き友人だと実感した。
二人でしばし佇んでいたが、やがて子爵が「座りましょう」と提案した。
若い女性の部屋だけあって、ユーリィの部屋と調度品などに大きな違いがないにもかかわらず、どこか柔らかい雰囲気があった。
窓辺に置かれている花瓶のせいかもしれない。ピンクと黄色の花が、柔らかな昼の日差しを浴びて輝いていた。
室内にいくつかある椅子の一つを適当に選んで座る。グラハンス子爵はいかにもという背の真っ直ぐなものを選び、姿勢を正して腰を下ろした。
「リマンスキー令嬢が、わざわざこの場を作って下さったと言うことは、なにかおっしゃりたいことがお有りか?」
まったく子爵らしい切り口だった。
言葉を濁すことのない率直な質問に、ユーリィは小さくうなずいた。
けれどまだ言うことをためらっている自分がいる。
本当に言ってもいいのだろうか?
「それは当然、息子のことですな?」
言うしかない。
父親がどう受け止めるかは分からないし、信じてもらえないかもしれないけれど。
「ヴォルフのことでまだ伝えていないことがあります」
そう言ったのち、ユーリィは次の言葉を探して、すぐには続けられなかった。散々考えた末、包み隠さず話すと決めた。それが彼の父親に見せられる精一杯の誠意だ。
「彼はあの戦いの最中、一度死にかけました」
父親の目が大きく広がる。様々なことが子爵の脳裏に浮かんでは消えたことだろう。
ユーリィは息を飲み込んで気を落ち着かせ、なるべく感情を込めずに先を続けた。
「だから僕は彼を助けるために魔物にしました」
「魔物!?」
驚くのも無理はない。
自分で言っていても、彼がそばにいないと本当は夢ではないかと思うほどだ。
けれどやっぱりヴォルフは、フェンリルとなってしまったから、そのことを受け止めようと、ヴォルフの状態を彼の父親に語って聞かせた。
消えかけた魂を魔物と同化することでつなぎ止めたこと、人の姿にはなるには変化する必要があること、ヴォルフ自身の意識と魔物の意識が結合してしまったこと、そしてソフィニアに戻って来られないのは、怪我をしてその変化ができなくなっているからだということを。
長い長い沈黙が訪れた。
言いたかったことは言えたけれど、胸のつかえは取れない。
誹りを受けた時、自分はなんと答えるべきなのか。
そんなことを考えながら、ユーリィはひたすら待った。
やがて____
「にわかに信じがたい話です。もしや息子と決別したいとお思いか?」
「まさか」
「もしも息子が嫌になったのなら、ぜひとも追い払っていただきたい」
「嫌になんてなってませんよ」
「そうですか……」
ため息に近い声だった。
罵られたのなら、どんなに良かっただろう。
諦めと哀しみが混じった瞳で、子爵はユーリィを見ていた。
「もしそのお話が真実であるのならですが、なおさら疑問に感じます。なぜヴォルフェルトを放さないのでしょう?」
「僕たちが離れられない運命だからですよ、子爵」
「その言葉は息子からも散々聞かされました。ですが愛情が欲しいならば、お立場的にも、ご容姿的にも貴方ならいくらでも手に入れられる。なにも息子でなくてもいい。たとえばリマンスキー子爵令嬢は?」
「彼女はただの友達です」
「そうでしょうか? 私にはお二人がとてもお似合いに見えた」
「ご冗談を」
「冗談? むしろ今後のことを考えれば、冗談では済まないのでは? 我が家にように貧乏貴族ではなく、貴方はこの国の皇帝と成られる方。お世継ぎをお作りにならなければなるますまい? 少なくてもセシャール国王は、貴方に王女をとお考えのようです」
「いや、だから……」
「ああ、分かりました。魔物となった息子をそばに置いておくのは、戦力として利用できるから__」
「そんなつもりじゃない!!」
気がつけば、拳を握って立ち上がっていた。
他のだれかにそう思われたとしても、彼の父親に思われることだけは我慢ができない。
利用するのなら、とっくの昔にしている。ヴォルフが何者であろうと関係なくだ。
そうでないから、彼自身を取り返すためにベルベ島へと行かせたのだから。
すると、グラハンス子爵はフッと破顔した。
その笑みがヴォルフのそれとよく似ていて、まるで彼自身に微笑みかけられたような気がして、ユーリィは言葉を失った。
「どうかおかけ下さい、ライネスク大侯爵」
促されてユーリィが渋々と腰を下ろすと、子爵は真顔に戻った。
「ようやく鎧をお脱ぎになった」
「鎧?」
「言葉や態度をすべて計算しているのでしょうな。アグレムに対する言動、私に対する言動などで、それを強く感じます。私にはとてもできない真似であるし、お若いのにご立派だと思ったと同時に、セシャールで私に刃向かった貴方にお会いしたくなった」
「なんのために?」
いったい彼がなにを考えているのかと、ユーリィは訝しく思った。
もしやヴォルフをセシャールに連れ帰ろうとしているか。
「息子が愛した貴方が、まだ存在しているのか確かめるために。セシャールに戻ったあの時、彼は私に言いました。“生涯守るべき存在であり、そのために自分は悪魔に魂も売るし、魔物になっても構わない”と」
いかにもヴォルフが言いそうなことだ。
彼はいつだって庇護者であることを望んでいた、バカみたいに。そんなことをして欲しくなくて、必死に強くなろうとしているこっちの気持ちも知らないで。
反面、そんな姿が愛おしいとも感じていた。
その時、奥の部屋に続く扉がノックされ、エルナがそっと顔を出した。先ほどとは違い、華やかな薄紅色のドレスに着替えている。
「あの……アグレム様たちをあまりお待たせすると、色々勘ぐられてしまうかもしれないので、そろそろ……」
「あ、うん、分かった」
ユーリィがうなずくと、エルナは軽く微笑んで扉と閉ざした。
グラハンス子爵は、彼女が消えたその扉をいつまでも目を細めて眺めている。それがあまりにも長いので、とうとう焦れてユーリィは声をかけた。
「子爵、彼女もああ言ってるし、僕は退室……」
「良い娘ですな。やはり貴方にはお似合いだ」
「いや、だから僕は……」
「だから利用しても構いませんよ」
「え?」
ヴォルフによく似たその目が、ユーリィを捉える。茶色の双眸は恐ろしいほど真剣な光を放っていた。
「初代カール・グラハンスが貴族ではなく戦士であったことが、グラハンス家の誇りなのです。息子の性格上、一度決めたことは簡単には曲げないでしょう。ならば、息子を戦力として存分にお使い下さい。大切なものを守ることこそ、戦士の使命です。そこに甘い感情など一切必要はない」
「本気で言ってるのですか?」
「むろんです。私は息子をずっと戦士たらんとして育ててきましたから。むしろそうなるべきです。それに貴方が鎧を脱げる相手は、息子だけではないはずです」
言い放ったグラハンス子爵の瞳は、まさにヴォルフそのものだった。
その日の午後はほとんど、ぼんやりとした意識の中でユーリィは過ごしていた。
もちろんグラハンス子爵の言葉を借りれば、鎧はつけたまま。
始まったばかりの治世に手を抜くことは許されない。なにもかも一からやり直さなければならないのだから。
まず数人の知見者を呼び寄せ、造船と貿易に関する意見を聞いた。
ジョルバンニからは参謀に取り立てて欲しいという者たちについて説明を受けた。
数人の貴族にも会い、領地と爵位と税金に関する契約書を取り交わした。例の事件はまだ尾を引いていたが、鎧をさらに厚くして毅然とした態度は崩さなかった。ラシアールとも輸送に関する細かな点を取り決めた。
いつものように忙しい時間が過ぎ、ようやく自室に戻ったのはかなり遅い時間だった。自室には当然のような顔をしてあの男が付いてくる。
本来ならヴォルフがいるべきその場所に。
そばにいることも許されなくなるというのか?
いや、分かっていた、知っていた。だけどヴォルフの方がずっと大人で、自分よりもずっとそのことを憂いでいた。
それでも鎧を脱げない自分がいて、そのことが妙に腹立たしく感じられた。
だから声に毒を含ませ、ふたたび言う、あの言葉を。
「お前は領地に戻れ。これは命令だ」
部屋の中央で振り返り、扉の前に立つ男を睨みつけた。
しかし男は、なにも聞いてなかったように、表情も変えず黙ったまま。
「聞こえてるか?」
「ええ、聞こえました」
「だったら……」
「なぜ今さら、そのようなご命令を?」
「今さらじゃない。僕は何度も言っていた、帰れと。無視していたのはお前だ。お前だって一度は帰ろうとしたじゃないか。エルフが嫌いなんだろ?」
するとハーンは一瞬、寂しげな表情を浮かべ、「自分にはもう帰る場所がないんですよ」と呟いた。
胸が痛む。
ヴォルフもハーンも、それを奪ったのは自分だ。
「帰ってくるななんて書いてなかったんだろ、手紙には?」
うつむくハーンにやや近づいて、その顔を覗き込む。
慰めを言うべきなのかと思った次の瞬間、男の手が伸びてきた。
腕を強く引っ張られる。
腰にある短剣を抜く間もなく、気づけば壁に押しつけられていた。
「なにを……」
「自分の身を自分で守れないのに、強がるのはやめた方がいい。俺は貴方が嫌いだって何度も申し上げているのに、不用意に近づくとはね」
「ずいぶん演技力があるじゃないか、お前」
「だから近づいた? しかしそれが優しさだと思うのなら、勘違いも甚だしい」
「お前になんて優しくするつもりないから」
「この体勢でまだ強がりが言えるとはご立派ですよ」
ヤバい。
下手に動いたら力では負けてしまう。
ハーンの片手は壁にあり、ほとんど覆い被さられている。
「嫌いなのに、なんでここにいる? それとも、いつか僕の命を奪おうと考えているのか、あの男のように」
「なにをおっしゃられているのか、分かりませんね」
「そうか?」
ハーンの空いた手が首筋に伸びてきた。
絞め殺される。
ぞわりとしたものが背筋を這い、それが恐怖というものだと気づいた時には、顎を掴まれていた。
「放せ」
「俺は何度も貴方が嫌いだと言った。なのになぜ、俺に近づく? 煙草の匂いがあの魔身に似ているからか? 俺はその身代わりですか?」
「なにを言ってる……?」
「貴方と話しているとイライラするんですよ。このエルフのような顔にも、俺に示す態度にも」
「分かったから、とにかく放せ」
ハーンの怒りは、いったいどこから来るのだろうか?
やはりあの子供が彼なのだろうか?
「ハーン、もしかしてお前、あの屋敷にいた子供_____!?」
唇を塞がれていた。
なにが起こっているのか一瞬分からず、目を見開き、影のような男の瞳を見る。
その息に混じるのは、煙草の匂い。
乾いた男の唇は一瞬離れ、そしてまた。
逃れようと頭を動かす。
押し退けようと胸を押す。
しかし非力さゆえにどれも敵わず、唇だけは固く閉ざした。
でも本当は非力だから振り払えないんじゃない。
匂いがあまりにもヴォルフに似て……。
どれくらい経っただろう。
ハーンはゆっくりと顔を離した。
「なんで……こんなことを……」
「言わせないで下さい。言いたくもない。俺は貴方が嫌いなんだから」
きつく抱き締められた感覚が、消え去った過去を、もう戻っては来ないかもしれないあの時間を呼び覚ます。
それに抵抗して、ユーリィは必死に声を絞り出した。
「放してよ、頼むから。じゃないと僕はお前を殺す……」
その準備はあると、腰の剣が小刻みに震えていた。