第117話 鎧をつける者 前編
不安____。
考えれば考えるほどそれが強くなる。
あり得ないことじゃない。
むしろその可能性しかないのではないか。
ノロノロと服を着替え終え、ユーリィは寝室からリビングへと移動した。
そこにはあの男が立っている。あの事件以来、午前中と夜間はすっとだ。だから寝室の施錠は必ずした。
不安なのはたぶんそれだろう。
彼がもしあの事件の__
「おはようございます、大侯爵」
その声は以前と変わりなく、落ち着いている。もちろんそれが無罪であるという証拠ではないけれど。
「おはよう」
返事をしつつ男に一瞥をくれた。仏頂面は相変わらずだ。
「今朝はセシャール人たちと朝食を摂る予定だ」
「ええ、知っています」
「くだらない風習だけど」
ソフィニアでは昔から、朝食を共にして親睦を深めようという風習がある。ここではそれが最上級のもてなしだった。
しかし、ユーリィ自身、もともと食べることに興味はない。しかも気を使う相手と食べるのだから、親睦が深まるどころか嫌悪感すら抱きそうな気がしていた。
「なんで日に何度も食事をしなくちゃならないんだろう……」
「死ぬからじゃないですか?」
「なら、死なない程度に食べとけばいい」
「貴方の場合、一度も餓死しなかったのが不思議な気がします」
「なんだよ、それ」
と言いつつ自分の体を見下ろしてみる。
肉付きのないペラペラな体は、確かに紙のようだと自分でも自覚していた。
「前は食べるのがそんなに嫌いだったわけじゃないんだけどさ」
「いつからお嫌いに?」
「ソフィニアに来てから……じゃなくて爵位で呼ばれるようになってからかなぁ。自分のことを呼ばれているみたいじゃなくて、なんだか落ち着かな……」
口を閉ざしたのは、急に我に返ったから。
扉の前に立つ男は真っ直ぐにユーリィを見つめている。
いつからハーンとこうした会話をするようになったのだろうか。食事のことよりそっちの方が気になった。
嫌いじゃないと言ったのは嘘ではない。
だから例のことも本人に問い糾してしまおうか?
でも、もしこの想像が真実だと知った時、自分はどうすべきなのか?
答えの見えない堂々巡りを抱いて、男の顔を見返した。
「なにか?」
「ええと……」
言ってしまえ。
命令するもうひとりの自分に従えず、結局はまた同じ言葉を繰り返す。
「お前、故郷に戻った方がいいよ」
答えもまた同じはずだ。
そう思っていたのに、思いもよらない言葉が返ってきた。
「だったら、今すぐ追い出せと議長に命令すればいい。自分には許可など必要がないとおっしゃった通りに」
「そうして欲しいのか?」
ハーンは答えなかった。黙ってユーリィから視線を離し、思案するように目を細めた。
その行動になにか意味があるのだろうか。
ユーリィはしばし男を見ていたが、諦めて近くにあった椅子に腰を下ろし、廊下にいるはずのコレットを呼び入れるように命令した。
(もちろんジョルバンニにも命令するさ)
けれど、いますぐじゃない。
あと数日だけ有余を与える。
もちろんこの男のためだ。
――本当に?
だれかに問い掛けられる。
その意味をユーリィが自覚したのは、ほんの数時間後だった。
グラハンス子爵以下三名との朝食で、ユーリィは多少の愛想笑いも、最低限の巧言も吐くつもりでいた。しかしそれにだって限度がある。
だからその苦痛を軽減するため、もとい、もてなしに華を添えるためエルナに同席を要望した。セシャールの三人にはそれぞれ効果があったようだ。朝らしい若草色で清楚なデザインのドレスでエルナが現れると、若い司祭の瞳は完全に奪われていた。
グラハンス家とリマンスキー家は遠いながらも親族関係にあるので、朝食が始まってからはその話題がしばらく続いた。さらにアグレム自身も貴族の子弟であることが分かり、リマンスキー家とは遠い遠い血縁関係だと言うことをエルナが思い出し、それなりに話が弾んだ。
やがて食事が終わり、食器が下げられてお茶が配られた頃、場の雰囲気は一転する。アグレム氏がある話題を切り出したことが原因だった。
「そういえば、グラハンス子爵のご子息はこのソフィニアにいると聞きましたが、姿は見えないようですね?」
相変わらず鼻音が強くて、耳障りな発音だ。
「それとも、子爵はもうお会いになったか?」
「いや、まだです」
食事中に会話を好まないことを差し引いたとしても、グラハンス子爵の表情が急速に強ばったのはだれの目にも明らかだった。
「ほぉ。それはまたどうして?」
「私には分かりませんな」
ユーリィを見た栗色の双眸が、その理由を知りたいと訴えていた。
もちろん説明は用意してある。いずれ尋ねられる時のために。
「子爵のご子息は現在、西岸地域の防備に当たっています。予定ではもう戻っているはずでしたが、怪我をして少々遅れるとの連絡がありました。早くお伝えすべきでしたね」
「怪我……ですか……」
「命に別状はないとの連絡もありましたのでご心配なく」
フェンリルである彼ならきっと大丈夫だと信じ、ユーリィは力強くそう言った。すると子爵は、気遣わしげに眉を顰めたものの、なにも言わずに小さくうなずいた。
よく見れば、彼はヴォルフに似ている。形の良い眉も、切れ長の目も、薄い唇も。父親なのだから当然だろう。違う点と言えば、ヴォルフに比べて耳が大きいこと、意志の強そうな顎、大きな小鼻、それから瞳と同じ薄茶の髪色だった。もちろん年齢に見合った皺もある。ヴォルフの話によれば、すでに五十半ばであるらしい。
「そうそう、思い出しました」
言ったのはアグレムだ。声のトーンを上げ、緑色の瞳を光らせたその様子に、自然とユーリィは身構えた。
「なにを?」
「これはセシャール国王も気にされていたことですが、グラハンス子爵の子息がなぜソフィニアに? それもライネスク大侯爵のおそばにいる理由はなんでしょう?」
やはりそれを尋ねてきたか。
これもまた予想の範疇である。
「まず言っておくけど、彼は僕が爵位に就く前からの友人だよ。現在の地位とはまったく関係ない。図らずも僕がこのような立場になり、本人にはセシャールに戻るか、ソフィニア人として僕のそばにいるかは一度尋ねた。本人は迷うことなく後者を選び、先の戦いでソフィニア防衛に尽力してくれた功績もあるので、希望通りにしているまでだ」
アグレムに対する威圧的態度は崩さないまま、ユーリィはすらすらと説明をした。この男がセシャール国王の手飼いならなおのこと、今後のために虚勢を張り続けるのは重要だと思っていた。
「しかしそうなった場合、グラハンス家は……」
「息子にはすでに、家督を継がせないと本人にも申し渡してあります」
「しかし今はご息女がお二人だけでは?」
「男子が生まれない場合、グラハンス家を廃絶する覚悟はできています。養子を迎え入れるつもりはありません。マヌハンヌス教徒である以上、“男系の掟”は絶対ですから」
グラハンス子爵の言葉が、ユーリィの胸に痛みとなって突き刺さった。
「しかしそばにいるはずの者が、西岸地域の防衛に出されているとは……。まさかと思いますが、セシャール人であることになにか問題があるのでは?」
「それはありませんわ」
しばらく黙っていたエルナが突然口を開いた。
「ヴォルフ・グラハンスさんは、大侯爵の側近であると周知されていますから。彼がセシャール人ってことを気にされている方も多くはいらっしゃらないでしょう。それに、大侯爵がおっしゃったとおり、ヴォルフさんがソフィニアを救ってくださったのは事実ですわ。彼がいらっしゃらなかったら、リマンスキー家も危うい状況になったことでしょう」
「そ、そうですか……」
エルナの勢いに気圧されて、アグレムはやや鼻白んだ面持ちで口を閉ざした。
彼女がヴォルフをかばってくれるのはとても嬉しい。周りの思惑など気にすることなく、ずっとエルナが友人としていてくれたら……。
ユーリィの視線に気づき、エルナはわずかに顔を赤らめて、
「ごめんなさい。私ったら余計なことを……」
「気にしなくてもいいよ。ありがとう」
「では余計なことついでにもう一つよろしいでしょうか、大侯爵?」
“なに?”と言うように首を傾げると、
「グラハンス家に嫁いだ母方の親族のことを母に伝えたいと思っているので、もう少しグラハンス子爵とお話をしたいのですが……」
「別にいいけど?」
エルナがなぜわざわざ断るのか、ユーリィは困惑した。
「できればここではなく、私の部屋で」
「えっ!?」
まさかヴォルフのことでなにか言おうと思っているのか。それともヴォルフを連れてセシャールにに戻れとでも言うつもりなのか。
色々なことが頭を駆け巡って返事ができないでいると、エルナは軽く微笑んだ。
「そんな分かり易く驚かなくてもいいじゃないですか。もちろん他のお二方もご一緒に」
「あ、そうか」
我ながらバカなことを考えたものだ。
信じていると思っていても、頭のどこかではまだ信用しきっていないのかもしれない。
「ああ、残念ながら、私はこれから祈祷の時間がありまして……」
その時、ずっと黙っていた司祭が遠慮がちに口を挟む。色白の若い男は、上目遣いに正面に座るエルナを見て、言葉通り残念な表情を作っていた。
「存じていますわ。私もマヌハンヌス教徒ですから。ではこうしましょう。私も皆様をお招きする準備がありますので、頃合いを見て呼びに行かせるようにします。それならよろしいでしょう?」
「そうしていただけるのなら、もちろん喜んでお伺いしますよ」
エルナがアグレムとグラハンス子爵を見やると、二人も軽くうなずいて同意した。
これで朝食会はお開きになるかと思いきや、エルナはさらにユーリィを困惑させることを言い出した。
「大侯爵、もしお時間がありましたら、皆様がいらっしゃる前に私の部屋に来ていただけませんか?」
「いいけど、でもどうして?」
「そ、そんなこと、ここでは言えませんわ……」
顔を赤らめてうつむいたエルナに、ユーリィは本当に狼狽した。
この場にいる者たちは勘ぐったことだろう。ライネスク大侯爵と、リマンスキー令嬢の関係を。特にグラハンス子爵の視線の鋭さに、ユーリィは先ほどの言葉以上の痛みを感ずにはいられなかった。
後編は今夜か遅くても明日に投稿となります。(例のごとく「作者の中では一話だった」事件が発覚したので、急きょ2話にしました) ちなみに次とその次は15R対象です。