第113話 少女は噂を胸に抱く
窓の外では小鳥たちがさえずっている。カーテンの隙間から差し込む日差しも柔らかい。エルナにとって今朝は、とても目覚めの良い朝だった。
ソフィニアに来てからずっと安らげないのは、様々なことが起きて、そのたびに過去と未来のことを考えてしまうから。この浮き足だった感覚が、未来永劫続くのではないだろうかと不安が拭えなかった。
それが今朝は頭の隅々まですっきりして、心も晴れやかだ。昨夜は夢も見ずに深い眠りにつけたので、心身がすこし回復のかもしれない。
ベッドから素足で絨毯へと降り立った。死んだ父が見たら、たしなめられるだろう。そう思うとなんだか素敵なことをしているような気持ちになった。
(お父様が生きていてくださったら……)
一瞬思いかけて、小さく首を振る。
叶わない願いに意味などないと。
椅子に掛けてあった母お手製のナイトガウンを羽織った。あまり器用ではない母が、薄紅色のこれを編んでいた時のことを思い出すと、涙がこぼれるほど懐かしかった。
まるで故郷が二度と帰れない場所にあるかのように……。
また不安に襲われるのが怖くて、急いで朝日を取り込もうとカーテンを引いた。
「あら……?」
良い日だから晴天だろうと勝手に思い込んでいたのに、空は薄曇り。自分の予感も当てにならないなと苦笑をしていると、背後にある扉が遠慮がちにノックされた。
「お嬢様、今日はゆったりとした感じで結いましょうね」
髪をすいてくれていた侍女のミラがにこやかに言った。いつものように朝の支度を手伝ってくれている。エルナは毎朝リビングの椅子に座り、大人しくこの優秀な侍女にすべてを任せていた。
「いいけど、でもどうして?」
「だって今日は円卓会議があるのでしょう?」
会議と髪型との関係が繋がらず、エルナが戸惑っていると、
「だって大勢の男性がいらっしゃるじゃありませんか」
「やめて。まるで私が男あさりをしているように聞こえるわ」
「ああ、すみません。そういうつもりではなかったんです。ただ貴族の方々で、女性はお嬢様だけですので……」
もともとソフィニアでは女が政治に関わることはあまり好まれない。しかもあの惨事のあとだから、余計に領地を離れようなんて思わなかっただろう。エルナだって本当は来たくはなかった。けれど幼い弟には無理なことは分かっていたし、叔父に任せらず……。
(違うわ。私、ユーリィ君に会いたかったんだ。だってあのまま誤解していたくなかったんですもの)
それはもちろん友達として。
彼が他のだれかを愛せないのは分かっている。
「お嬢様、近々舞踏会が開かれるのでしょう?」
「そういう計画はあるわね。でも実際にできるか、まだ分からないのよ」
「ああ、お嬢様、ドレスがありませんわ!」
髪を結い始めたミラの手が止まった。まるで自分のことのように、どうしましょうと背後で呟いている。エルナにしてみれば滞在が長引くのは想定外だったので、あまり持ってこなかった。夜会服に至っては一枚もないという有様。装飾品の類いも、同じものをほぼ毎日付けている。
「新しくお作りになった方がよろしいのでは?」
「今は新しい服を作る余裕はないと思うわ」
領地が受けた魔物の爪痕は、未だ回復していない。
領民はなんとか城内に避難させたが、さすがに家畜までは無理だった。領内にそれぞれ三千頭ほどいた牛と山羊は、今はどちらも五十頭にも満たない。
それでもリマンスキー領はまだ良い方で、領民の半数近くを失い、家畜もほぼ全滅というところもあるそうだ。
「本当は舞踏会なんて開いている場合ではないのだけれど……」
「ですが、セシャール国王が援助してくださるのでしょう? 牛も沢山もらえるって話を聞きましたわ。舞踏会もそのお礼に開くんだって」
「そういう簡単な話ではないの。それに牛はいただけるわけじゃなく、安い値段で売ってくださるだけなのよ?」
「まあ、そうでしたの」
あの惨事のあと、侵略をされなくて本当に良かったとエルナは思った。
もちろん地理的に有利なこともある。ガサリナ地方の北側には高い山脈がそびえていて、唯一北西の平地をセシャールと接している。そのセシャールとも、フォーエンベルガー領が蓋をしているような形で接していた。
しかし山脈があるからといって安心はできない。山脈の谷間を通れないわけではないし、海路だってある。
どの国も動かなかったのは、魔物の余波を恐れていたことと、フェンロンギルドが動き出したことが影響しているだろう。けれど一番の功績は、ユーリィがいち早く民衆への救援を開始したことと、軍を早急に整えて物資の輸送をラシアールに任せたことが大きいと、エルナは思っていた。
(そのせいで暴動も起きなかったし、使い魔を利用しているのを見せつけたことで他国を牽制できたんだわ)
本人がそれを見越していたかは分からない。でもきっと彼がいなければ、悲劇はまだまだ続いていただろう。
「それでもやっぱり、夜会服は必要ですわ、お嬢様」
「そうね……」
「ライネスク大侯爵が支援してくださらないかしら?」
「そんなこと頼めないわ!」
「ですけど、リマンスキー令嬢はいずれ皇后になられる方だって従者の間ではもっぱらの評判ですわよ? 私もきっとそうなるだろうって思ってますの。だってこの前の公園でのことも、お嬢様を信頼しているからこそ、あんなお姿になることを了承されたんでしょうから」
「ミラ、まさかあの日のこと、あなた、だれかに言ってないわよね?」
噂というのは本当に怖い。ちょっとしたことでも思わぬ方向に話が広がって、まるで真実のように語られるのだから。
「もちろんだれにも言ってませんわ。でも、ほら、大侯爵はほとんど毎日お嬢様にお会いに来られるでしょ? そのせいだと思いますよ。それに今、この宮殿に女性はお嬢様しかいらっしゃらないんですもの。ああ、舞踏会となったら、国中から大勢のご令嬢がいらっしゃるのでしょうね。そうなったら、多くの方が皇后の地位を狙って、鵜の目鷹の目で大侯爵を落とそうと躍起になるに違いないですわ!」
「ちょっと、ミラ!」
「ああっ、申し訳ありません。私ったら、はしたないことを」
困ったことになるかもしれない。
ユーリィ自身こうなることを予想しているのだろうか?
舞踏会だけで済むわけがない。これから皇后の地位を夢見る娘やその親たちが次々と集まってきたら、彼はどうするのだろう。
そんなエルナの思いを裏付けるように、ミラは休めていた手を動かしつつ、
「そういえばお嬢様。セシャールからいらした方の従者から聞いたんですけどね、セシャールでは今度フォーエンベルガー伯爵とご結婚なされる姫の妹君と、大侯爵の縁組みを国王陛下が考えてらっしゃるって噂があるらしいですわ」
噂話というのは本当に嫌だ。その上、噂話には必ず厄介事が隠されていると思うと、ますます気が滅入ってしまう。
エルナは両手の爪をジッと眺めつつ、そんなことを考えていた。
この日エルナの予感は大きくはずれてしまうことが起こる。
それは起きる数々の事件の、最初の一つが起こったからだった。
前途には多難が待ち構えている。
これから31日までに、あと2話アップする予定です(もしかしたらお正月に入ってしまうかもしれませんが)