第112話 蛇眼
『人には必ず弱みがある。だがその弱みを見せる輩を私は許せなかった。その反面、羨ましくもあった。なぜなら、私が自分自身の弱さを晒してしまったら、この体には一塊の肉も、一滴の血も残らないのだから。私は弱さだけで創られている』
――奇書『我が殺意の考察』より
まるでヘビのような男だと、タナトスはつくづく思った。
薄暗い場所から獲物を狙い、背後から襲いかかる。今も俺の首筋に噛みつき、体を締め上げようと虎視眈々と狙っているに違いない。気を許せばすぐに、頭から丸呑みにされてしまうのだと。
ジョルバンニ議長の執務室は、相変わらず薄暗かった。カーテンは閉じられ、ランプも二つしか灯っていない。この薄暗い部屋でこの男は毎日なにを考え、なにを企んでいるのだろうかと思うだけで、さすがのタナトスも冷え冷えとしたものを感じずにはいられなかった。
移送任務が終わって二度目の呼び出しである。今夜はセシャール人たちとの晩餐会が開かれ、大侯爵の警護はしないで済む。食事中は大勢の兵士たちが室内外にいるし、メイドや従者の中にも諜者はいる。たとえば大侯爵の世話係。ジョルバンニに金を請求すればいいと言った女だ。あの時にはすでに狙われていたのだと、タナトスはつい最近知った。
「薄暗いのは我慢したまえ」
タナトスの内心を読んだかのように ――たぶんランプへの視線で悟られたのだろう―― ジョルバンニは言った。
「いえ……」
「眩しいのが苦手でね。幼い頃から目が悪く、ここ最近はますます酷くなっている」
「そうですか」
「建国後、いつまで世界をこの目で見ていられるか……」
ヘビだと思った男が突然弱みを見せたことに、タナトスは驚いた。
まさかこれも一つの策略なのだろうか。
「ああ、すまない。しかし弱気になっているわけではない。目のことはとうの昔に諦めているのでね」
「ご自分で執権を握ろうとしないのもそのせいですか?」
「好きなように考えたまえ。だからといって私は手を緩めるつもりは一切ない。ダメなら切り捨てるまで」
銀の眼鏡を指で押し上げ、ジョルバンニは冷たく言い放った。
「このことは他言無用だ」
「けれど、もし大侯爵が知ったら、もう少しあんたに従うのでは?」
「ああ、そうかもしれないな」
軽く破顔したジョルバンニは、すぐに強い口調で、
「だが私が求めているのは、甘ったるい感傷などではない。生か死かというギリギリのところで燃え立つ力だよ」
なぜこれほどあの少年に執着するのだろうかと、タナトスは疑問に思った。
闘鳥のごとく育て、闘わせたいと男は言った。しかし本当にそれだけなのか。それともあの魔性にこの男もあてられているのか。
「なにか言いたいことがあるようだな?」
「ええ、大いに。あんたが大侯爵にこだわるのは、やはりあの眉目なのかと」
「バカなことを……、あ、いや、そうかもしれないな」
「は?」
「むろん情欲的なものではない。一年ほど前、私はイワノフ公爵領にある町に商用で出かけていた。イワノフの内紛が始まる直前のことだ。その日、町には数十体の魔物に襲撃され、火に包まれた。その町だけではない。周辺の町や村はほぼ壊滅状態だった。私も宿屋から焼き出され、裏木戸に身を潜めて難を逃れていた」
一年前と言うことは、ソフィニア襲撃事件より以前だ。フォーエンベルガー伯爵がセシャールに拘留されていた頃だろうとタナトスは計算した。
「町はまさに火の海だったよ。人々は逃げ惑い、その阿鼻叫喚は凄まじいものだった。そんな時、あの少年が現れたのだ。二体の魔物を従えて、次々と魔物を倒していく様は、本当に素晴らしかった」
「救世主が現れたと?」
「まさか」
ジョルバンニは小馬鹿にするように鼻で笑った。
「私はそこまで俗物的な者じゃない。美しく強い鳥を、必ず手に入れようと思っただけだ」
「鳥?」
「闘鳥は鳥を育てればいいという簡単なものではない。より早くより強い一羽を作る為に、数種類の鳥を掛け合わせるのが基本だ。だが種類が違えば無精卵のこともある。生まれても奇形であることも多い。私も何百の卵を捨て、何百の雛を殺したよ。しかし満足する一羽を生み出すことはできなかった。だか彼を見て、初めて思った。あれこそが求めていた鳥だと、美しき羽根を血に染めて舞い上がる闘鳥だとね。だから私は常に想像している。あの鳥がどうやって闘うか、そしてどうやって死んでいくか」
歪んだ笑みを浮かべるジョルバンニを見て、タナトスは思った。
この男は狂っている。
だがすぐに考えを改めた。
本人は否定しているが、こいつも魔性にあてらてただけだと。
「さて、つまらない話はそろそろ終わりしよう。今日来てもらったのは、新たな任務についてだ」
「警護とは別の?」
「その為にお前を雇ったのだよ。警護の方は十分だ。特に昨日の南門事件では最高の働きをしてくれた」
別にしたくてしたわけじゃない。
体が勝手に動いてしまっただけだ。
だからそのことに関して、タナトスは蒸し返されるのが嫌だった。
しかしその気持ちを表すことなく、真顔で返事をした。
「こう見えても、仕事はきちんとこなす質なのでね。給金に見合うだけの働きはしますよ。俺はあくまでも金儲けのためにここにいるんですから」
「そうだろうな。というより、そうでなくてはならない。だからこそ、お前を雇ったのだ。これからも感情など一切排除できる者であることを望んでいるよ」
「その予定ですよ。エルフや魔物をぶち殺す仕事があれば、それに越したことはありませんけどね」
「エルフをやりたいなら、その機会がないこともない。しかし、どう転がるかはまだ分からない段階だから、期待はするな」
「いや、期待しておきましょう」
「よほど嫌いなのだな、エルフが」
「言っておきますが、わけなどありませんのであしからず。大侯爵には自分の虫嫌いと同じだろうと言われましたが。たぶん、まあ、そんなところです」
すると眼鏡男は意味深にクククと笑う。その表情がタナトスの神経をなぜか逆なでした。
「なんでしょうか?」
「深みにはまっていく者の姿を眺めるのは、なかなか楽しいと思っただけだ。気にすることはない」
「深み?」
だがジョルバンニは説明をするつもりはないと言うように無視をした。
「話を戻そう。南門の事件についてだ。犯人はおおよその見当は付いている」
「アーリング士爵が見つけたんですか?」
「あの男は見つけられないよ。探す場所を間違えている限りは。このネズミは、ソフィニアの中で一番安全な場所に隠れているのだから」
「まさかこの宮殿に?」
「なかなか勘が鋭いな。だが言っているのは実行犯ということではない。ネズミ以下の者などに私は興味がないのでね。ただしネズミも思ったほど大物ではなかったのが。我が鳥に戦いを挑ませる相手としては不十分だ。だから君に少し働いてもらうことにした」
タナトスは気づかれないようにゴクリと唾を飲んだ。
いよいよこの男は何かを始めようとしているのだと。
「明後日、大規模な円卓会議を開く予定だ。子爵以下の貴族も、ソフィニアにある別邸から宮殿へやってくる。お前は矢が扱えるのだろう?」
「昨日の犯人よりは腕があると言っておきましょう」
「大した自信だな」
「で、相手は?」
「赤い髪をした大きなネズミだ」
その後語られた詳細を、タナトスはすべて頭に叩き込んだ。
引き返せない場所に来てしまったようだと思いながら。
しかし後悔はなかった。
「やれそうか?」
「ええ、実行は難しくはないですね。完璧な計画です。ただ一つだけ心配が」
「なんだ?」
「あんたが俺を裏切らないという保証ですよ。利用されるのだけは御免被ります」
「保証ならもうあるではないか」
分からないというようにタナトスが眉を顰めると、
「お前を大侯爵の警護に就かせたのが、その保証だよ。もし裏切られると感じたなら、彼に訴えればいい、私に利用されたと」
「そんなことをしたって……」
「私とお前となら、彼は間違いなくお前を助けるだろう」
「まさか」
そんなこと、あり得るわけがないではないか。今まで散々からかった相手だ。今朝も気に入らないという態度を隠しもしなかった。
「保証しよう。残念ではあるが、今のところ私の鳥は非情を知らないということを。それについてなにか異論はあるかな?」
瞬間、幼児を見下ろし微笑んだ横顔が、タナトスの脳裏に浮かぶ。胸糞が悪くなるほど輝いていた光も含めて。
「あ……いや……」
「そういうことだ」
彼にしては最大限に楽しそうな声と表情で、男は言った。
敗北したような気分にさせられ、タナトスは男を睨む。
「あんたは何もかもお見通しのようだ。いったいどれほどの諜者を世に放ってるのか、参考までにお聞かせ願えませんかね?」
「この世界ではガラスは必需品なのだよ。ジョルバンニ製のガラスはこの大陸の半分ほど占有している」
「それはつまり……」
「もう話は済んだ。退出してもらおうか。今宵は目の調子が悪いのでね」
晩餐会はまだ続いているようだった。
どうせ今ごろ、眉を顰めて並べられた皿を見下ろしていることだろう。
そんなことだから、折れそうなほどか細いのだ。
男らしく肉汁の匂いでも漂わせれば、こんな糞忌々しい気分にはならないというのに。
腹立たしい気分で自室の扉を開け、薄暗い室内に入ろうとしたタナトスを呼び止める者がいた。
振り返ると配送係の従者がいて、手にした手紙をタナトスに押しつけると、早々に立ち去っていった。
(実家からか……)
クソガキの助言に従ったようで悔しかったが、それについては忘れることにした。
小さなテーブルの上に乗っているランプに火を灯してから、手紙の封を開けた。
母親は読み書きができないから、書いたのは父親だろう。炎の光にかざしつつ便せんを開く。相変わらずの乱雑な文字が並んでいた。
そしてすべてに目を通し、タナトスは言うとはなしに呟いた。
「なんだよ、今さら……」
連絡があって嬉しいということ。
こちらは問題なくやっているので気にするなということ。
ソフィニアに根を下ろすのも悪くないという提案。
そして最後に、まるで付け加えるように書いてあった。
実の息子ではないということが。
「だから戻ってくるなってことか……」
曖昧ながらも、父親の、いや両親の意志は感じ取れた。
だからといって別になんとも思わない。それまでの親子関係に納得がいっただけだ。
手紙をテーブルに置くと、軍服の襟を正す。
晩餐会もそろそろ終わるだろう。
明後日までの日常に戻るまでだと思いつつ。
思ったよりも早く更新できました。
(そしてタイトルにクリスマス感ゼロなことを今気づく)
いやぁ、全ロスって怖いわ~一気にやる気なくすわ~
あ、マインクラフトの話ですが(汗)
全ロスのため更新が早まりました!