第106話 捨て駒 後編
『神マルハンヌスの光を感じることこそが、この世界にいるあらゆる生き物の喜びなのです。たとえそれが邪悪な存在であったとしても』
――マルハンヌス教外典『双世記』第四章より
窓もなく、いるだけで息が詰まりそうになるほど小さな部屋だ。あるのは椅子とサイドテーブルのみ。以前タナトスが寝泊まりした物置の方がずっと快適だった。
少年は、部屋の扉に張り付いて、外の様子を窺っている。
「大侯爵、この部屋がなんて呼ばれていたかご存じですか?」
尋ねたことにこれといって意図はない。あえて言うなら手持ちぶさただったせいだ。
「暗黒部屋だろ?」
「よくご存じで」
「この部屋の悪評は、色々な本に書いてある」
ここはかつて侍女たちが控えていた部屋だった。名目上は、王族らの世話をするため、もしくは用があればすぐに駆けつけられるように作られた。
けれどその実態は、平民の生娘たちを陵辱するために閉じ込めた部屋らしい。中には気が狂って死んでいった娘たちもいて、そのせいでガーゼ宮殿の侍女部屋には呪いが掛かっていると噂もあったほどだった。
「娘たちはこの部屋の隅で、毛布に包まって寝ていたらしいですね。きっとあそこに」
そう言ってタナトスは奥にある闇を見る。
そこに少女たちの亡霊がさもいるかのように。
「僕を脅かそうとしたって無駄だぞ、ハーン」
扉から体を離し、振り返った少年の瞳はロウソクの炎を映して、青黒く輝いていた。
「そうですか?」
「僕だって生まれてからずっと閉じ込められていたからね。しかも王が寵妃を閉じ込めていた塔で」
同情を引こうとしているのだろうかとタナトスは訝った。
しかし憎しみも哀しみもない表情で、少年は小さく肩をすくめると、
「つまり本当に亡霊がいるなら、とっくの昔に呪い殺されているってこと」
「なるほど」
この話題にはこれ以上触れてはいけない気がした。
もちろん同情したからではない。だれでもそれぞれの運命を背負って生まれてくる。貴族には貴族の、平民には平民の、そしてエルフにはエルフの。その運命一つ一つにいちいち同情などしていられるものか。
触れたくないと思ったのは、心にあるなにかを開かないためだ。
「あ、だれか来たみたいだ」
潜めた少年の声に混じって、遠くで扉が開かれるような音がした。
やがて気配は扉一枚隔てた向こうから伝わってくる。かなり近い場所にいるらしい。
微かに女の声がして、少年が息を飲む。
その瞬間、扉のノブが動いた。
それを見たタナトスも咄嗟に動いてしまった。
「ぁ……」
小さなうめき声を漏らした少年の口を後ろから片手で塞ぐ。
すぐ横にあったサイドテーブルにあるロウソクを吹き消し、それと同時に少年を引っ張って、押し開かれる扉の陰へと移動した。
なぜこんなことをしてしまったのか、あとできっと思い悩むだろう。それぐらい無意識な行動だった。
「アラム様、ここは暗いので入ってはダメな場所ですよ。ね?」
女の声は怯えたように低くくぐもっている。彼女がこの部屋の別名を知っているとしたら当然だろう。
「別のところを捜しましょう?」
「うん……」
幼児が返事をして、扉がパタンと閉まる。それと同時に少年がもぞもぞと動いて、口を塞いでいたタナトスの手を強引に下げ、“苦しい”と小声で呟いた。
しかし気づかれるのを恐れて、それ以上は動かないし動けない。その結果として、暗闇の中で密着したまま二人で立ち続けた。
“リビングを捜してるみたいだね”
扉の向こう側から女の声がまだ聞こえていた。
“二人が寝室に入ったらすぐ、廊下に出るぞ”
“むろん、どの扉が廊下かは分かってますよね?”
“僕は方向音痴だけど、健忘症じゃないから”
どうだか。
タナトスは心で呟いた。
エルフごときに偉そうに命令され、つい嫌味で返してもこれといった手応えがない。兵士なんてまともに相手にしたくないのなら、いちいち煽るなとはっきり言いたい。
しかも怒っているかと思えば、急に体調を心配してくる。
まさかエルフは一瞬で、己の感情を忘れられるとでもいうのだろうか?
(そんな話は聞いたことがない)
ではこの少年はいったい……?
タナトスの内心など知るよしもない少年は、扉に神経を集中しているようだった。
“寝室がどうのって言ってる。聞こえる?”
少年の顔が自分の方に向けられた気配がした。
闇の中で本当に良かった。でなければ、またあの魔性にあてられるか、この部屋の呪いにかかっていただろう。
“自分には何を言っているのか分かりませんね”
“アラムが寝室に入ったらしいよ。でも世話係はリビングに残ってる。これじゃ奇襲はできないなぁ”
その後、彼は長いこと黙っていた。
いや、ほんの一瞬だったのかもしれない。
暗闇の中で密着したまま沈黙されるのは、案外苦痛なものだ。
“あの二人がここを出て、隣を探し始めた頃合いを見計らって飛び出そう”
“飛び出して、そのあとは?”
“暮れて薄暗いし、飛び出してすぐ廊下の柱に隠れられたら、なんとかなるはず。確か僕たちは巣を出てから最初、四つ目ぐらいの部屋に入て、そこからこの部屋を含めて三つ小細工したから、巣までは距離があると思う”
それは違うとタナトスは思った。さらに彼は無茶をするタイプなので、なんとかならない嫌な予感もある。それらを指摘すべきか迷った末、面倒なので黙っていることにした。
敵と呼ぶには少々抵抗がある向こう側の二人は、まだ出ていかないようだ。しかしこの部屋の扉からは離れているらしく、女の声もほとんど聞こえてこなかった。それを幸いにして、タナトスは靴音を立てないように数歩下がり、少年から体を離した。そのせいで空気が少し動いたのだろう。少年は妙なことを言い出した。
“お前さ、なんか懐かしい匂いがするんだよなぁ”
“匂い? 自分は煙草の匂いしかしませんよ”
“それだ。ずっと前まで吸ってたヤツがいて、それで懐かしいんだ”
“もしかしてあの男ですか?”
“まあ、そうだけど”
“ここ二、三日、彼を見かけませんね”
“魔物には魔物の事情があるんだよ……”
暗闇で良かった。
今どんな表情をしているかなんて見たくもない。
“でも今のところ護衛は一人で十分らしいし。あっ、そういえば、聞きたいことがあったんだ。あの屋敷が消えた時、お前、まるで中が見えてるみたいなことを言ったよな?”
“さあ、覚えてません”
“絶対言ったって。ずっと気になってたんだ”
“たぶん適当なことを言ったんでしょう。色々面倒になったんで”
“お前は家族とかいないの?”
“いますよ。両親と弟が。武器屋を営んでいます”
“なんだ、そうなんだ。僕はてっきり……”
“てっきり?”
“なんでもない、たぶん僕の勘違いだから、忘れていいよ”
暗闇にもう一つ良いことが見つかった。
それは互いに棘のある声を出さなくて済むことだ。
その時、女の声が少し大きくなって聞こえてきた。どうやら寝室の探索は終了したらしい。それでもまだ立ち去る気配はないようだ。
(ったく、なにやってるんだ、俺は。子供の遊びに付き合わされた挙げ句、こんな暗闇でクソガキと隠れん坊なんて。やっぱりあの時に帰れば……)
“そうだ、良いこと思いついた”
囁き声にも関わらず、その声色には輝きがあった。そのせいなのか、くだらないと思っているタナトスの心にも期待が高まっていく。
これは良くない傾向だ。
――美しく散ってもらおう。闘鳥はその死に方も勝敗の決め手なのだから
ジョルバンニの言葉を心の中で幾度も反すうする。
この少年は主人ではない。
自分は闇の剣となり、必要とあれば金の翼を美しく散らす役目なのだ。
そんなタナトスの心などつゆ知らず、少年は“やるぞ”と言って、期待感を煽り立てた。
ほんのわずかに扉が叩かれる。
少年の仕業だ。
すると、扉の向こうから女の短い悲鳴が聞こえてきた。
さらにもう一回。女はもう一度悲鳴を上げると、今度はタナトスにも聞こえるぐらいはっきりとした声をあげた。
「ア、ア、ア、アラム様、早くここから出ましょう!」
それを聞いた少年は、クスッと笑った。
“暗黒部屋で思いついたんだ。大人なら脅してもいいかなって”
扉の向こうが急に騒がしくなった。
慌てたような足音がして、幼児がなにかを言った声がした。
足音はさらに続き、今度は声の代わりに扉が開かれる音が聞こえてきた。
「よし、出ていった。行くぞ、ハーン!」
彼は暗黒部屋から出るとすぐ、左手にある扉めがけて小走りに駆け寄った。けれどすぐに飛び出すことはさすがにせず、ノブをつかんでゆっくりと引く。できた隙間から片目だけを出して、廊下の様子を窺った。
だが状況が分かった途端、呆然とした声で呟いた。
「え、なんで……?」
彼がなにに驚いたのか、タナトスには分かっていた。
巣を出てから四つ目の部屋に入ったことは合っている。けれど彼が巣から離れたと思っていたのは、実は巣に近づく方向だった。
つまりこの部屋は、巣の扉の二つ隣。彼が見たのはすぐ近くにいる巣守りの子どもの姿だろう。
「しまった、こんなに近くだったなんて……」
「どうされますか?」
「どうしようかな……。でも今なら行けるかも。アシュトがジークリットと話すのに夢中でこっちを見てない。二人とも柱のそばに立っているから、一瞬の隙を突けるかもしれない」
そんな上手いこと行くような気はしなかったが、タナトスは反論をしなかった。
代わりに「自分は行きません」と断言した。
「いいよ、別に。お前はデカいから目立つし」
どこか不満げに彼は返事をした。
それからもう一度廊下の様子を眺めて、タイミングを計る。刹那、「よし、いまだ!」と小さく叫び、華奢な体が扉の向こうへと躍り出た。
金の髪が大きく揺れる。その表情は馬鹿馬鹿しいほど真剣だった。
派手な足音が廊下に響いた。
そんな音を立てたらすぐに気づかれるだろうと思いつつタナトスが廊下に出ると、案の定メチャレフの長男が少年の姿を見とがめた。
「ああッ!! 大侯爵!!」
「うわァ!! 見つかった!!」
そりゃ、見つかるだろ。
そう呆れて立ち尽くしていたタナトスの方へと、少年が駆けてくる。その後ろから男と、男に引っ張られた少女が追いかけてきた。
戻ってきた少年はタナトスの周りをぐるりと回り始める。追っ手たちもそれに倣って回り出す。その意味のない追いかけっこは二、三周続いた。
「って、これは隠れん坊じゃないのかよ!」
唖然として立ち尽くしていたタナトスだったが、ようやく我に返ってそう叫んだ。
「だって追いかけてくるから」
「逃がしませんよ!!」
「捕まるもんか!」
もう呆れるしかない。最初のルールなんて完全に忘れられている。偽計だの奇襲だの言っていたことがまるで意味がなくなっていた。
ところが、その追いかけっこが唐突に終了した。
理由は少年が突如止まったからだ。
「あ……」
タナトスの斜め後ろにいた彼は、恐る恐るというようにその背後に首を巡らせる。果たして、そこには少年を背後から抱き締める子どもの姿があった。
「あーあ、負けちゃった」
「見つかった時点で負けです」
「それは分かってるけどさ」
一瞬口を尖らせたものの、彼はすぐに表情を戻し、背後にいた少年の頭を撫でる。
「抱きついて止めるなんて、アラムは勇気があるね」
その言い方にも、その顔にも微笑みが感じられた。
「ぼくの勝ち……?」
「うん、勝ち」
そう言われた途端、さっきまで怯えていた幼児の顔に、小さな笑みが浮んだ。
いつの間にか子爵令嬢も、大侯爵の異母弟も、審判の従者も集まってきている。あれだけの騒ぎをしていたのなら当然だろう。全員が二人のやり取りを黙って見守っていた。
しかしタナトスはそれほど面白いとは思わなかった。
(あんなに時間をかけて始めたのに、結局はグダグダかよ)
心の中で悪態をついて、和やかなムードに水を差す。表情もあえて崩さなかった。
ところがそんなタナトスへ、意外な人物が意外なことで釘を刺してきた。
ゲームが終了し、さて夕食の時間となった頃だ。
「ちょっと宜しいでしょうか?」
意外な人物とは、水鳥を彷彿させる首の長いチョビ髭男だった。
「なんですか?」
「一つ申し上げたいことがありまして」
食堂のテーブルについて、子供たちと会話を交わす少年の姿をチラチラと横目で見ながら男はそう言った。
「負けたのは俺のせいではないですよ」
「いえ、そのことではなく。ユーリィ様のことです」
「彼になにか?」
「警護兵として、ユーリィ様に対するあなたの言動には問題があるように思います。もちろんあの方はとてもお優しいし、身分の違いなど気にもされませんが、周りの者からすれば、少々度が過ぎているように感じられましたよ」
「無礼だってことか?」
「いえ、それとは逆でして、なんとなく馴れ馴れしいというか……。一応申し上げておきますが、これには多少の嫉妬も含まれています。私の方が先にあの方にお仕えしているので、他所から来た者に親しくされるのは、同じ従者として寂しいのですよ」
言うだけ言って、男は首を振りつつ厨房の方へと立ち去っていった。
(俺が馴れ馴れしいだって!?)
バカなことを。
そうは思ったものの、目の奥に少年の笑顔が張り付いてなかなか消えてはくれなかった。