第103話 隠れん坊
ユーリィにとって脱力感に支配された午後だった。
嬉しそうに微笑む母が煩わしくて、その感情をなるべく出さないように気を張りすぎて、疲れ切ってしまったのだ。
やはり素直には喜べなかった。
もちろん、分かっていたことではあるけれども……。
すべてを消し去さるには、まだ時間が短すぎる。
化け物と誹しられ鞭を打たれては、自分はエルフではないのだと否定した日々。そのうちに少しずつ気持ちが変化して、認めればきっと楽になるんだろうと開き直った。
けれど母に会い、エルフでないことも思い知った。
雨の降りしきる中で、親族たちには受け入れてもらえず、馬車の下で空腹に耐えたあの夜に、一晩中願っていたのは母が来てくれることだけ。
しかし凍える子供を、彼女は温めようという意志すら見せてはくれなかった。
実母のところに行けば、乾いた心が満たされると信じていた愚かさに、自分自身を笑うしかなく。義母に打たれるより、異母兄に罵られるより、それが一番辛かった。
そして母の真実を知った今、あの時以上にショックを受けた。抱いていた恨みがなくなると、虚しさだけが胸に残った。
その上、自分が何者であるのか明確な答えを見出せないのだ。
(それはヴォルフと一緒か……)
ユーリィが宮殿に戻って以来、客間には入れ替わり立ち替わり貴族たちが訪れた。心にもない祝辞を述べ、参列しなかった言い訳をした彼らだが、目的は自分たちがいつ領地に戻れるのかを探りだったらしい。
多くの貴族は、その母親や妻や子供が病気であったが、四日後にセシャールから届く子牛を配分する予定だとユーリィが告げると、彼らの親族は一瞬で回復した。
客間の中央には、金飾りに小花模様をあしらった、王宮時代の遺物である応接セットが置かれている。昼食を摂ってからずっとここに座りきりだ。ユーリィの斜向かいにはミュールビラー侯爵がいた。彼はまるで式に参列したことが勝者だと言わんばかりに、訪れる貴族らに優越感たっぷりの視線を投げかける。ライネスク大侯爵といかに昵懇であるか、言葉の端々にもその思念は感じられた。もちろんユーリィ自身、ミュールビラーに馴染んでいるような態度は一切出していない。にもかかわらずだ。その反面、エルフに対する差別意識を隠そうともしない。
こういう厚顔無恥な大人にはなるまいと心で思った。
「目映いほど美しい花嫁でしたよ。エルフは本当に愛らしき眉目ですからなぁ、魔法さえなければですが。裏を返せば、あの眉目だけがエルフの存在意義かもしれませぬな」
その言葉に同調し笑う者もいれば、ユーリィに気兼ねしてか曖昧な表情を浮かべる者もいた。ユーリィはどちらにも反応しないと決めて、眉一つ動かさなかった。
この場にはジョルバンニもいた。ただし彼はユーリィ以上に発言を控え、まるで置物になったがごとく、視線のみの挨拶で済ませる。
きっと息を潜めているのだ、貴族たちと対立も迎合も避けるために。
それでいいとユーリィは思った。
いずれ避けられないギルドと貴族との衝突も、先延ばしになった方が都合いい。今は自分のことも含めて、解決しなければならない問題が山積みになっている。
扉の近くには、当然のような顔をしてタナトス・ハーンが立っていた。深緑の見慣れない軍服に、部屋に通された貴族たちは一様にギョッとなる。それに対してミュールビラーは、「皇帝陛下のためにフォーエンベルガー家が精鋭をお貸し下さっているのですよ」と知ったかぶりをした。もしかしたら現雇い主のジョルバンニに、そう説明を受けたのかもしれない。
室内にもうひとり、正確にはふたり、この長い茶番劇を眺めている者たちがいた。義理弟のフィリップと、その世話係であるカシルダという女だ。
結婚式のあと、フィリップとは遊ぶ約束をしていた。それなのにご機嫌伺いは夕方まで続いてしまったが、躾の良い子供は片隅にある小さなテーブルで、菓子を頬張りつつ静かに待っていた。
(本当は、もうちょっと我が儘を言ってくれれば、この茶番を終わらせられるのに)
言うまでもなく、ユーリィは義母が死ぬほど嫌いだった。
けれどフィリップをその手で育てなかったこと、カシルダという常識ある女をそばに置いたことで、その感情は半減した。
普通の家庭というものがどういうものなのか、前に一度だけ味わったことがある。それはスープの匂いと、笑い声と、子供の声が入り交じった場所。
自分にはフィリップという家族がいると思うことで、色々なことを乗り越えられた。もちろん幼い彼が大人になり、すべての真実を知った時、嫌悪されてしまうかもしれないけれど。彼の母親がそうだったように……。
室内が黄昏色に染まる頃、ようやく貴族たちの波が途絶えた。
やれやれといった気分でユーリィが息を吐き出した時、ミュールビラー侯爵が心にもない詫びを口にした。
「長居をしてしまい大変失礼いたしました、ライネスク大侯爵」
「侯爵のおかげで会話が弾んで助かった。僕は口下手だからね」
自分で聞いても虫酸が走る言葉をすらすらと言えるほど大人になれたのだと、自画自賛をすることでユーリィは気持ちを抑えた。
ミュールビラーは片眼鏡の具合を確かめ、ついでに上に向いた口髭の先を整える。もちろん油で整えた髪を撫でつけることも忘れなかった。
「そういえば彼は、戴冠式後にオーライン領を継ぐのでしたね」
「フィリップのことか?」
「ええそうです。もし宜しければ、私が後見人になってもかまいませんが、いかがでしょうか? ミュールビラー家はオーライン家とはかなり近しい間柄ですので。先々代のオーライン伯爵の妹と結婚したギレッセン男爵が、私の大叔父にあたります」
「ギレッセン男爵というと、さっき来たひとりがそんな名前だったような……」
他人の名前と顔を覚えるのは苦手だが、その人物だけは心に残っていた。
年は二十代後半ぐらいだろうか。喜怒哀楽が顔に出やすい男であった。燃えるような赤毛をした彼は、何度も鋭い視線をユーリィに送ってきた。
ああいう視線には覚えがある。相手を蔑む時の表情だ。私生児のくせに、エルフのくせにと、その声が聞こえた気がするぐらいギレッセン男爵という男は、あからさまにユーリィを蔑んでいた。
「彼は大叔父の孫でして、私にとっては又従兄弟になります」
「へぇ……」
頭の中で系図を描こうとして、面倒臭いので止めてしまった。貴族同士のありがちな繋がりであると分かればそれで十分だ。
「彼は僕のことが嫌いみたいだったね」
「少々激高しやすい質でして、ギレッセン領は先の戦いで被害が大きかったので、つい顔に出てしまったのでしょう。気分を害されたのなら大変申し訳ない。諫めておきますので、どうぞお許しを」
「別に怒ってはいないさ。全員が同じ方を向くなんて思ってやしないし」
「なんと広いお心を……」
「ただし、同じ方向に歩きたくないのなら、僕も少し考えると伝えろよ」
目の表情を殺し、ミュールビラーは小さくうなずく。
けれど、それだけではこの気障な男がギレッセンと同類なのかどうか、ユーリィには判断がつかなかった。
「フィリップのことは先の話なので、まだ決めるつもりはない。けど侯爵の申し出は覚えておくよ。伯爵家を継ぐにはまだ幼すぎるし、後見人は必要だからね」
「ありがとうございます」
ミュールビラーが立ち上がると、ジョルバンニだけがそれに従った。
開かれた扉の前で会話を交わす二人の声が、ユーリィにも届く。今後とも貴族とギルドが協力して帝国を完成させようというような、形式張った挨拶が取り交わされている。自分と違い、一切の脅し文句を言わないジョルバンニのような態度こそ、正解だったのだろうなと少々反省した。
ミュールビラーの姿が消えると、部屋の隅からフィリップが駆けてきて、ユーリイの隣にちょこんと座った。
「おしまい?」
不安げな目をして、幼児は尋ねる。
「ごめんね、長く待たせちゃって」
「お菓子、美味しかったよ。それにね、僕、大きくなったらお兄様みたいに立派になるって思ってたんだ」
そんな健気な言葉が可愛いと思えるようになったことが、ユーリィは嬉しかった。
「立派じゃなくて、優しいほうがいいと思うよ」
口の端に付いているクッキーのかすを拭ってやりつつそう言うと、フィリップは嬉しそうに「うん」とうなずいた。
いつの間にか戻ってきたジョルバンニが、ソファの横で立っている。“なに?”と尋ねるようにユーリィが首を傾げると、彼は「リマンスキー令嬢がお越しになりましたが、どういたしましょうか?」と色のない声で告げた。
「通していいよ」
「分かりました」
それでもなにか言いたげなジョルバンニの様子に、今度ははっきりと言葉で「なに?」と質問した。
「ご自分の言葉について、ご理解なさっているのか少々気になりましたので」
「もちろん」
「それなら構いません」
「僕としては、ギルドが悪者にならないように頑張ったつもりだけどね」
「お気づかい、ありがとうございます」
くだらない虚勢を張る小物だと自覚はしたが、言わずにはいられなかった。
薄紅色のドレスに身を包んだエルネスタが入ってくると、それまで重苦しかった空気が一変した。彼女の可憐な雰囲気に圧倒されつつ、ユーリィは立ち上がって出迎える。結婚式では言葉を交わさなかったが、彼女が心配そうな表情をしていたのは分かっていた。
「お疲れかとは思いましたが、フィリップ様をご紹介していただきたくて、押しかけてしまいました。ごめんなさい」
琥珀色の瞳に茶目っ気たっぷりの笑みを湛えて、彼女は謝る。他の貴族たちとは違い、彼女は意味のない祝辞など口にはしなかった。
(エルナには心の中を見透かされている感じがするんだよなぁ……)
それが嫌だというほどではない、煩わしいとは思うけれど。
「僕は大丈夫。フィリップ、この人はリマンスキー子爵家のエルネスタさん」
「こんにちは、フィリップ君。エルナって呼んでくださいね」
「こんにちは、エ、エルナさん」
頬を紅潮させ、たどたどしく挨拶をする弟を見て、自分も初めてエルナと会った時はこんな感じだったなぁとユーリィは感慨無量に眺めていた。
「そしたら、エルナさんも一緒に遊ぶ?」
キラキラと目を輝かせて言ったフィリップを、背後にいた世話係がたしなめるような声で名前を呼んだ。
「今日はもう遅くなりましたので、お兄様のご迷惑にならないうちにお部屋に戻りましょう、フィリップ様」
確かに今日は午後から遊ぶと約束した。けれどカシルダの言うとおり、日は落ちかけて、夕方の光は次第に弱くなってきていた。
「でも……」
「フィリップ、いつか三人で遊ぼう」
「でも、いつかっていつ?」
「暑くなったらかな」
「でも前もそうお約束したよ……」
訴えるような瞳で、弟はユーリィを下から眺めた。
半年以上前に交わしたその約束は、叶えられずに終わってしまった。
幼い弟はちゃんと覚えていたのだ。そのことが嬉しかった。
「そうだった」
「今日も遊ぶってお約束したのに……」
「そうだった」
「僕、ちゃんと待ってたのに……」
「そうだった」
三回も自分の非を認めてしまえば、叶えてやるしか道はない。
「わかった。ならちょっとだけ遊ぼうか?」
「うん! 僕ね、前にやった“追いかけっこ”したいの。このお城はとっても大きいから、お庭に行かなくてもいっぱい走れるでしょ?」
「お、追いかけっこか……」
室内にいる者たちを改めて見直す。
無表情のジョルバンニ、我関せずといった態度のハーン、小太りのカシルダ、長いドレスを着たエルナ、八歳のフィリップ、そして自分だ。
(このメンバーで追いかけっこは想像すると面白いけど、無茶だよなぁ)
ユーリィが返事に窮して黙っていると、エルナが助け船を出してくれた。
「フィリップ君、追いかけっこはお外でした方が楽しいのよ」
「そうなの?」
エルナはガッカリするフィリップの前でひざをつくと、金髪を優しくなでた。
「代わりに、隠れん坊をしない?」
「隠れん坊? やりたいやりたい!!」
フィリップは嬉しそうに跳ね回る。
しかし今度はユーリィが尋ねる番だ。
「隠れん坊ってなに?」
「隠れた人を探す遊びよ」
「隠れるってこの部屋で?」
客間にあるものと言えば、椅子五脚とテーブルの応接セット、壁際にあるソファ、丸テーブルと椅子三脚、音が鳴るのか分からない小さなピアノ、大きな鏡が二つ、窓にかかるアイボリー色のカーテン、サイドテーブルとその上にある楼台、それから天井に吊り下げられたシャンデリアだ。
ここで隠れる場所を探すのは、姿を消すことより大変なことのように思われた。
するとエルナは軽く微笑んで、
「いくつかの部屋に入っていいとおっしゃるならできると思わない?」
「つまり宮殿のどこかに隠れようってこと?」
「ええ、そうよ」
それはできるだろう。
できるどころか、今日中に探し出せるかという心配が浮上する。この宮殿には部屋が百以上あるのだから。
「もちろんこの階だけ。だって宮殿にはまだ皆様がお泊まりなんですもの」
この部屋は宮殿本館の三階にあり、下の階はミュールビラーら貴族が泊まっている客間が並んでいた。
「どうでしょうか、ジョルバンニ議長?」
ユーリィが尋ねる前に、立ち上がったエルナが先に眼鏡の男に尋ねていた。
この場合、だれの許可が必要なのか、彼女はちゃんと分かっている。そのことが少しだけユーリィを傷つけていた。
「この階だけなら、構わないと思いますよ」
無表情のまま答えたジョルバンニだったが、怒っているという様子でもなかった。
「言うまでもありませんが、私は参加しませんよ」
「だろうね」
むしろ参加すると言われた方が驚いていただろう。
「それから、必ず従者に随行させるようにしてください」
「従者って、僕にはまさかハーンが付いてくるの?」
「彼は貴方の警護兵です、ライネスク大侯爵」
タナトス・ハーンと二人で隠れ場所を探すような行為を、遊びとは思いたくない。どちらかというと苦行だとユーリィは顔をしかめた。
「それと、夕食の時間までということにして下さい」
「分かりましたわ、議長。だけど私とユーリィ君とフィリップ君の三人では、ちょっと寂しいわね……」
エルナの言葉に、ユーリィはあることを思いつく。それはとても素晴らしい思いつきだと満足するものだった。
「だったらさ、あと二人、参加させようか?」
「二人?」
怪訝な表情をするエルナに対して、ユーリィは顔を上に向けることでその答えを示してみせた。
「あっ、あのお二人!」
「フィリップとは歳が近いしさ」
こうして、宮殿が建てられて以来かもしれない“隠れん坊大会”が開かれることになったのだった。