第101話 少女はドレスを胸に抱く
カンティア大聖堂は、厳粛なる空気に支配されていた。
祭壇にある聖杯・楼台・聖廟はすべて黄金色に輝く。その上部にある二枚の白い翼が、この世界が存在する意味を表していた。
天井まである十数枚のステンドグラスから差し込む日差しに、聖堂内が薄紫に染まっている。美しく象っているのは、双世記にある精霊たちだ。その一部だけでも、王宮時代の財力がどれほどだったのか想像に難しくはなかった。
そして今、結婚の儀が執り行われていた。結婚式らしく、聖堂内にはミストスの甘い花の香りがむせるほどに満ちている。
けれど、エルネスタが今まで出席した中で、この式は一番質素なものだった。参列者は二十名あまり。だれも座っていない数百の椅子が凄然と並んでいる。
そんな雰囲気の中、アルベルト・ルファル・オーライン伯爵とレティシア・リリュの結婚式は淡々と進行していた。白いドレス姿の花嫁が戸惑いの表情を浮かべつつも、大司祭の指示に従って、儀式通りに聖杯の水で口を潤した。
“可哀想なレティシア”
エルナは心の中で、いつもそう呼んでいた。
色の薄い金髪、円らな青い瞳、潤んだ赤い唇をした彼女は、息を飲むほどに麗容である。白い肌は息子よりもさらに白く、生まれてから一度も陽光を浴びていないのではと疑うほどだ。少女のようなどこか初々しさがある反面、女性らしい体のラインをしているのは、ハーフエルフである故だろう。彼女のすべてが、同性として羨ましいほど美しかった。
それでもエルナは“可哀想な”と心で思わずにはいられない。
ユーリィは彼女のことを“虚弱なキメラ”だと言った。そしてエルナは彼女とたった一度話しただけで、それが確かな事実であると感じてしまった。
純白の花嫁衣装に身を包んだレティシア・リリュは、良く言えば幼子のような、悪く言えば理解力が著しく乏しい女性だった。
なぜ自分の息子が皇帝になろうとしているかも分かっていない。
貴族になることをあまりにも喜ぶものだから、困惑した婚約者がすぐに爵位は返すと説明しても、まったく理解できなかった。
結婚式にはイワノフ公爵や自分の親族を呼びたいと言って、息子を困惑させた。ジーマ族はククリに荷担した種族だからと説明を受け、渋々諦めたようだったが、理解したかどうかは分からない。さすがにイワノフ公爵の件に関しては、ユーリィも無視して説明はしなかった。
(でも、本当に可哀想なのかしら……?)
花嫁の手を取り、誓いの言葉を口にしている花婿を見て、エルナはそう思った。
自分は哀しいぐらいになにもかも分かってしまう。
たとえば、なぜ花婿が美しい妻を見るよりも優しく、ユーリィに微笑みかけるのかも。
でも彼女は自分自身が代替品であると思ってはいない。オーライン伯爵に愛されているのだと信じているのだろう。
参列者が少ないことも哀しんではないようだ。
素晴らしく豪華なティアラを付け、純白の花嫁衣装を身に纏い、この壮観なる大聖堂で式が挙げられることを、心から喜んでいる。
(やっぱり幸せな人ね)
厳かに口づけをかわす二人を眺め、エルナは思い直した。
式は最後の祈祷が始まっていた。これさえなければもっと素敵なのにと思い、不敬なことを考えた自分を少し恥じる。もっとも敬虔な信者としての自覚はないけれど。
初めて参列した結婚式は、一番上の姉の時だった。
レティシアが着ている物ほどではないが、姉のドレスはまだ結婚の意味すら知らない幼女の心を魅了した。それ以来、あの純白のドレスには憧れはある。
(一度ぐらいはあのドレスを着たいかも……)
以前はあれほど強かった結婚願望も、その相手を失った途端、熱が冷めるように消えてしまった。
今では、なぜあんなに恋していたのかすら分からないほどに。
改めて花婿であるオーライン伯爵の後ろ姿を見る。彼の兄はパラディスの第一王女と結婚していた。
パラディス王国は現在、複雑な内政状態にある。第一王女派と第二王女派が反目し合い、王室は完全に二分されていた。
その第二王女と昨今結婚したルーベン国の王子こそ、エルナの初恋の相手でもあった。
(パラディスかぁ)
あの人はどうしているのだろうかと考える。不器用な彼だから、様々な問題に悩まされていることだろう。
それでも以前のように、心配で胸が張り裂けるようなことはなかった。
きっと恋は去ってしまったから。
それにあの人の周りには、味方をする者たちが大勢いるに違いない。
(そう、彼とは違って……)
自然と、最前列に座る人物に視線が行った。
花嫁と同じ黄金の髪をした少年だ。紺青色の上着は、背中が真っ直ぐに伸びて、背後からでもその聖姿が伺い知れる。彼は今どんな気持ちで実母を眺めているのだろうか。
喜んでいる?
哀しんでいる?
(たぶん哀しんではいないわ。私なら……そうね、安心する)
複雑な事情と、複雑な感情はあるだろうけれど、実母であるからこそ憎みきれない、憎みたくはないはず。けれど、そんな感情すら偽善的だと思い、彼はまた心にナイフを突き刺しているのだろう。そして傷ついた心で考えているのは……。
(あの人のことね)
母親の姿を瞳に映しながら、心では銀色の髪をした男を想う。
魔物になってしまった彼のことを。
『行かせたんだ、あいつを……』
忙しい時間を割いてエルナに会いに来てくれた彼は、ふとそんなことを呟いた。
どんなつもりで彼が言ったのか想像すると、エルナは少し寂しくなる。反面、だれも信用していない彼に、本音を口にする相手として選ばれたことを誇りに思った。
長い長い祈祷ののち、ようやく式は終わりを告げた。
参列者がこぞって腰を上げる。上着と同じ色をした紺青色のマントが、どこか寂しそうに揺れていた。
式が終わってすぐ、正門へと歩き出したエルナは背後から呼び止められた。
「あの、ちょっと宜しいでしょうか?」
声をかけてきたのは魔将軍に就任したエルフだ。エルフとは思えないほどの背丈があり、髭を生やしてもいい地位がある男だが、丸く大きな目がその威厳をすべて奪い去っていた。
その彼が今、困惑した様子でエルナのそばに立っている。しかし困惑するのはエルナも同じだ。何度か見かけたことはあるものの、彼とは挨拶以外に喋ったことがないのだから。
「なんでしょうか、ブルー将軍」
内面を隠して和やかに返事をすると、彼はますます困った顔で短い黒髪をガリガリと掻きむしった。
「貴族のお嬢様にそう呼ばれると、照れくさいっていうか恥ずかしいっていうか……。せめてブルーさんって呼んで頂けませんか?」
「ですが、将軍であることには代わりありませんよ?」
「そうなんっすけどね……」
真新しい濃紺の軍服と、その胸に付けられた記章に相反し、長身のエルフはまるで子供のように口を尖らせた。
「それで、なにか?」
「あっ、ええと、こんなことをお嬢様に頼むのは筋違いだって分かっているのですけど、他に頼める人がいないので……」
「ええ」
「ライネスク大侯爵に伝言を頼まれてもらえませんか?」
「伝言?」
ブルーは軽くうなずくと、周りを気にしてか小声になった。
「俺が出かけることを、彼に伝えて欲しいんです」
「それはかまいませんが、いつお戻りなんでしょう? そしてどちらに?」
伝達者としては、最低限聞いておくべき情報だろうと判断し、エルナはそう尋ねた。
「帰ってくるのは明後日の朝になると思います。場所はベルベ島です」
「ベルベ島というと、西にある火山島ですね」
「明日、従姉妹の結婚式があるんですよ。大侯爵も知っている者で、というか本人は母親代わりのつもりでいるんですけど。で、それに参列しようかと……」
「そうですか。でもどうして私に伝言を?」
「それは……」
言い淀んで口を閉ざした彼は、離れた場所にいる少年へと視線を走らせた。少年はどうやら馬車を待っているようだ。
新郎新婦が乗り込んだ馬車の後ろには、豪華な四頭引きの白い馬車が待機している。大聖堂は宮殿と同じ敷地内にあるとはいえ、歩いていくには少し距離がある。まして皇帝となる者を歩かせるわけにはいかないのだろう。宮殿を眺めてなにか訴えている少年に、その隣にいるジョルバンニ議長が首を振っていた。
「あんなわけで、今はちょっと本人に言いにくいっていうか……」
「そうですわね」
ちなみにエルナたち参列者の馬車は、正門の外に停まっている。主役たちが馬車に乗ると同時に、皆そそくさと正門へと移動を開始していた。もともと義理で参列した者たちばかりだから、ここに留まる理由がない。聖堂前に残っているのは、ユーリィとジョルバンニの他に、彼の異母弟(昨日ソフィニア入りしたフィリップ少年)、オーライン夫人(現オーライン伯爵の大伯母)、ミュールビラー侯爵(オーライン家の近親らしい)、ユーリィの警護兵(元フォーエンベルガー家従者とのこと)だけだった。
「それに俺がベルベに行くって直接言ったら、一緒に行きたいって言い出すかもしれないので」
「それはさすがに無理かと……。あ……でも……」
確か彼は島に行っていると、ユーリィが言っていた。その島がもしベルベ島なら、結婚式を理由に行きたいと言い出しかねない。もちろんユーリィが前ほどに衝動的でなくなっているのは、エルナも分かっているけれど。
「俺だってホントは行かせてあげたいんです。って言うか、前なら絶対にお連れしてました。でも彼が危険な目にあるかもしれないって、もう分かってしまったから」
「お優しいんですね」
「って言うのは建前。正直、保身っていうのもあります。さっきは将軍って呼ばれるのを嫌がったけど、実際、俺が失脚したらラシアールの存在にも影響しかねません」
「ええ」
「それを差し引いても、やっぱり心配は心配なんですよ。こんなこと身分的に無礼過ぎておおっぴらには言えないですけど、なんか弟みたいで……」
長身に似合わない愛らしい瞳で、将軍は照れたように微笑んだ。
お願いしますと何度も言い残し、ブルー将軍は足早に立ち去っていった。
しばらくして、彼の使い魔が飛び去っていくのが見えた。新婚の二人を乗せた馬車もまた、エルナの横を通り過ぎて、街中へと出て行く。
振り返れば、聖堂の前にはあの白い馬車が横付けされ、主人が乗り込むのを待っていた。
エルナはぽつねんと大聖堂の参道にいる自分に気づき、慌てて道端に植えられたミストスの花を眺めているようなフリをした。
ユーリィはチラチラとこちらを見ている。けれどジョルバンニらがいるせいで近づいてこようとはしない。それに彼の隣にいる子供が、無邪気な様子で異母兄に語りかけていた。
そんな弟を見下ろすユーリィの表情は、本当に柔らかだ。まるで二人の間には、出生のわだかまりなどなにもないかのように。
(そうね、彼はそういう子だわ)
たとえ自分を殺そうとした友でさえ、その裏切りを許してしまうほど、彼は優しすぎる。
だからこそ危ういと、エルナは思った。
もちろん彼もこの世界に生きている者だ。決して天子なんかではない。
それでも彼には非情にはならないで欲しいと切に願う。まるで美しい絵が汚されてしまうようで、そうなった彼を見るのが嫌だった。
それはともかくとして、ブルー将軍の伝言の件だ。
(どうしようかしら……)
今は無理なことは分かる。少なくてもあのジョルバンニ議長の前では、なるべく情報は隠しておいた方が良いことぐらいエルナも察していた。
ところが、ユーリィとジョルバンニが馬車へ乗ったのち、黒髪の警護兵がエルナの方へ小走りに近づいてきた。
さすがに花に見入っている素振りは続けられない。咲き乱れる青紫色の花から目を離し、エルナはその男を待ち構えた。
「エルネスタ・リマンスキー令嬢」
低く響くような声で名前を呼ばれる。けれどあえて男の顔を見ないようにして、返事をした。鋭い猛禽のようなその目が、前々からエルナは苦手であった。
「なんでしょうか」
「ライネスク大侯爵が、一緒に馬車に乗らないかとお誘いになっていますが、いかがなされますか?」
「ええと……」
ちらりと見た馬車の窓からは、ジョルバンニの横顔が見える。あの男になにか探りを入れられるのは、今は避けたい。
それに目の前にいる男に付き従うのも、なぜか抵抗があった。
「いえ、私も御者を待たせていますので、ご遠慮いたします。ただ、夕方にお部屋にお伺いするかもしれないとお伝えください」
「なにか特別な用事でも?」
向けられた探るような視線が、エルナの顔を強ばらせる。その一方で、頭ではこの男はなぜいつまでもユーリィに張りついているのだろうかと考えた。
「昨日、今日の午後はフィリップ様の相手をされると大侯爵がおっしゃっていました。ですので、私も弟君をご紹介頂こうかと思いまして」
「なるほど。分かりました、お伝えしましょう」
軽く一礼をして立ち去る男を、今度はエルナが呼び止めた。
「あの……」
数歩踏み出した男が、ゆっくりと振り返る。値踏みされるような目つきに、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「私からも一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「あなたはジョルバンニ議長のもとで働いていると聞きましたが」
「ええ、議長の命令で大侯爵の警護をさせて頂いてます」
「ではどうして、それをいつまでも着ているのですか?」
ソフィニアでは見慣れない深緑の軍服に視線を走らせる。それはフォーエンベルガー家近衛兵のものだった。
「ああ、これですか」
「議長の従者となったのなら、あなたは帝国の人間になったのではないのですか?」
「フォーエンベルガー家も大きく言えば、帝国に所属することになりますので」
「ですが、帝国軍と貴族の私軍とはまるで違います。帝国軍は皇帝陛下に仕える兵士たちです。その服を着ている限り、いつまでもフォーエンベルガー家に仕えている者のだとみなされますよ?」
「自分の見解は違いますね」
ふてぶてしい物言いに、エルナは眉をしかめた。
もちろん彼が一介の兵士だからではない。彼の中にある毒気がそうさせたのだ。
「自分が警護をすることで、フォーエンベルガー家も皇帝陛下に従うのだと、宣伝することになります。つまり彼にとっては悪いことでないと言いたいわけですが」
「あなたがきちんと警護をなされるおつもりなら、ですね」
「むろんそうするつもりです。こう見えても自分は任務を真っ当する人間ですよ」
その任務を与えるのがだれかということが問題なのだと、エルナは心で呟いた。
男の後ろに見える議長をふたたび見やる。彼はこちらの様子を気にする素振りもなく、前方を眺めていた。
「ではこれにて失礼いたします」
立ち去っていく男の後ろ姿に、エルナは胸騒ぎを覚えていた。
ユーリィには非情になって欲しくないと伝えてある。
けれどあの男に関して言えば、その期待を裏切ってもかまわない。
(なぜ彼は、あの男を追い返さないのかしら?)
なにか理由があるのだろうか。
それが納得できるものなら安心できるのだろうか。
(だけど……)
あの男の毒気が、鋭い瞳が、なぜかエルナの心を捉えて放さない。
もしユーリィが自分と同じ気持ちになっているのだとしたら?
グラハンス氏がいない空虚に、毒が染みていく様子を想像して、エルナの背中がゾクリと冷えた。