消え失せたもの
それは唐突に、やってきた。
「君に別れを告げようと思う。最後くらいどうせだから、今までありがとうと言う事にしよう。じゃあ」
部屋のドアを律儀にノックして入ってきたタローが、そう言い終えて高らかに吠えた瞬間に、僕は漸く我に返った。
「タロー、お前何処へ行く気だい?」
柴犬のタローが僕の家にやってきたのは、3年前だ。
急に海の向こうの国に行くことになったお隣さんから譲り受けた。
小さな犬が欲しかった妹と、おしゃれな種類を飼いたがった兄は不満そうだったが、番犬を喜んだ母以上に、姉はタローが家族になることを、甚く気に入ったようだった。
結局一番世話をしたのは姉で、タローも彼女によく懐いた。
「ナツミさんの所だよ」
だからタローの口から姉の名前が出たことには、半分やはりなと思った。
「お前、あの石の溢れる河原を行けるのかい?」
「心配ないさ」
「お前、河を渡れるのかい?」
水があまり好きでないタローは少しだけ目を細めたが、其処に姉がいるかのようにパタパタと尾を振った。
「心配ないさ。みんなでゆくんだ。飲み干してしまうさ」
タローの吠え声に答えるように、あちらこちらで犬が啼く。
「みんな?」
僕の不安を見越したように、タローは浅く笑った。
「ナツミさんのところにゆくんだ。みんな、みな。ナツミさんを見殺しにした世界に存在する必要はないのさ」
姉が交通事故に遭ったのは2週間ほど前の事だ。
「タロー、お前」
「君は最後にナツミさんに会わせてくれた。だから別れは言っておこうと思ってね」
出棺前に、タローを抱いて姉の顔を見せたことを思い出した。
窓から飛び出したタローを追いかけて下を覗くと、小さな影が、大きな影が、タローの後をついて南の山へとあとからあとから上っていくのが見えた。
ハーメルンの笛吹きが子どもを連れて行くように、その日街から犬という犬が姿を消した。
成人した僕は街を出て、海を越えた国にいる。
その国にも犬と呼ばれる生き物はいるが、それは似ても似つかぬ獣で、僕に話しかけることもない。
僕は彼らを見かけるたびに、タローの事を思い出す。
タローは無事に河を渡って、姉に会う事は出来たのだろうか。
そしてあの街から出て行った犬たちは、どんなふうに暮らしているのだろうか。
どこか遠くで、犬の吠える声が聴こえた。