翔
「はぁっくしょ~ん。・・・畜生。」
高崎翔は洗面所の鏡の中の自分を見ながら毒づいた。
ここしばらく丁度カゼをひいた時のように鈍い頭痛が続いていた。鼻の付け根あたりにどっしりと何かが居座って腫れぼったく熱を持ち、呼吸を邪魔し、思考を邪魔する。そしてたて続けに襲うくしゃみと鼻水。
「ブタクサってやつだろ。春と秋に花粉が飛んでアレルギー起こすあれ。あれに罹ったんだな。」同期の友人が手を洗いながら教えてくれた。
「で、対策は?」
「ねえよ、そんなもん。」あっさりと彼は言った。「だから明日の秘書課との“飲み”、お前は来なくていいぞ。周囲に鼻水撒き散らされたら女どもが引くから。」
「・・・。」
トイレから戻るとふいに甲高い怒声が飛んできた。
「高崎くんそんなにしょっちゅう失踪するならどこ行くかメモに残しといてよ。電話が入る度に探さなくちゃならないじゃない。」同じ課の女子社員が長定規をブンブン振り回しながら叫んでいる。翔は巧みに定規をよけながら「すみません。馬場先輩・・・。はぁはぁ。」とかろうじて返事をした。鼻を噛みに何度もトイレに立つことが彼女を怒らせたのだ。翔はふう~と息をついた。
「ババフミナ。」そう先輩の本名を呼ぶだけで少し気が晴れるのはなぜだろう。恐れ多い先輩がきら~んとこっちを睨む前に身を低くして本棚の裏に隠れた。「それもこれもお前のせいだ。」
あとの方は独り言だ。というより鼻の付け根に居座っているあいつ・・・。それがどうやらジロリと翔を睨んで笑ったように思えた。出来損ないのカラスめ・・・。彼がつぶやくとジロリとまた黄色い目が動いた。鼻の内側を突かれる前にティッシュを手に取り戦闘態勢に入る。
「はぁ~くしょん。」全身が総毛立った。世界よ、もはや爆発しろ。
妄想だと笑うなかれ。間違いなくここに居座ってるのはブタクサの花粉なんかじゃなく、カラス。翔は本気でそう思っていた。
数日前、出勤途中の道の脇にあるケヤキの枝に止まってじっと彼を見てた一羽のカラス・・・見るからに不機嫌そうなあの生きた毛玉が翔を苦しめている張本人に違いなかった。
何がそのカラスの逆鱗に触れたのか判らなかった。突然その黒い毛玉が彼の頭を目掛けて奇襲を掛けてきたのだ。急降下してくると大きな前足の爪で彼を掴もうとした。鳥が大嫌いな翔は度肝をぬかれて思わず失禁しそうになった。
チビッテテ遅刻シマシタ・・・なんて恥さらしなのでそこは何としてもこらえた。
目をつぶりその場にしゃがみこむ。
そして額に鈍い衝撃。
襲われた?カラスに?翔は驚いて声も出なかった。
恐る恐る目を開けると既にカラスの姿は消えていて、道行く若い女性がくすくすと笑いながら翔を見ていた。
「カァ~」
勝ち誇った声が彼の頭の中で響いた・・・。
それ以来翔は額の中にカラスが住みついたのだと信じている。このひどい鼻炎もそのせいなのだ。鼻炎だけならまだ良い。感覚がおかしかった。半分カラスの頭で考え、カラスの目で物を見ているからに他ならない。
まず女性を見る時。
そもそも翔は最初に脚を見るが、カラスの目は女性の手を見た。まあいい・・・。手もなかなか女性の魅力的な部分ではある。
しかし両者は好みのタイプが違っていた。翔は目立つ顔立ちの華やかなタイプの女性が好みだったが、カラスの視線は地味でおとなしそうな女性に向けられるのだ。
何だお前は。どの山の者か?・・・野暮ったい女ばっか俺の目を使って見るんじゃないよ。翔はこの厚かましい額の同居者に向かって悪態をついた。
しかもこのカラスはゴミ捨て場が大好きだった。ゴミの山を見るとなぜかふらリと身体がそちらに動いてゆく。そして捨て猫やネズミといったらもう目がなかった。
その日も早々に退社して帰路をいそぐ翔の視界の端っこに子猫が飛び込んできた。
「え?・・・寄っていけって?・・・お前、居酒屋じゃないんだから。」
仕方なくカラスの要望にしたがって子猫のそばに行って猫を抱き上げた。「でも絶対、飼えないんだからな。」バカカラスに言い聞かせる。
「可愛いわね。それ、飼うの?」
「だから、飼えないって・・・。」翔がそう言い掛けて振り返ると紺のベストにタイトスカートの女性が立っていた。よく見ると同じ会社の社員、小鹿玲である。雨上がりの空に赤いパラソル。書類を片手に翔を見ている。
ドキン。
ふいに心臓が鳴った。
俺は首を傾げた。小鹿玲は同期の中でも目立たない大人しい存在だ。同期とは言え顔を知っている程度で口をきいたこともなかった。好みのタイプではなかったからだ。しかしなぜかいま心臓が鳴ったような・・・。
カラスめ・・・。翔は額の中で黒い鳥に毒づいた。勝手に俺の心臓でドキドキするんじゃねえよ。返せ俺のドキドキを・・・。
翔の何食わぬ視線に気づいて、小鹿玲が不思議そうな顔をした。無邪気に尋ねる。「まさか、その子持ってかえって食べるんじゃないよね。」
それを聞いて、翔の額のカラスは肩をすくめて目を閉じた・・・。