二回目 階段は足にくるよね。
4.
何か大きな物音が聞こえた気がした。
ニアが目を覚ましたのは太陽が地平線の彼方に完全に沈んでしまった後のことだった。
「……明るい」
目を覚ました直後の寝ぼけた頭は自身が丸一日眠り続けていたのだと誤認しており、それによって貴重な時間を浪費してしまったという日々の生活で染みついた商人特有の貧乏性をひどく刺激し、ニアを急速な覚醒へと導いた。
「今何時!?」
キョロキョロと部屋中を見回して見つけたのはベッドの枕元に置かれたデジタル時計だった。
(やっぱりこれは時計だったのね)
時計を手に持ち記憶していた数字と照らし合わせる。
(とすると私は八時間寝てたことになるのか。――それにしても明るい、どんな仕組みかは解らないが少なくとも火の明かりではない、あまりにも白い)
ニアはしばらく天井に備え付けられた蛍光灯を眺めていたが、首が痛くなり始めたのでやめた。
ニアは一階に下りることにした。床を裸足で歩くことに若干の抵抗もあったが、現在はそれもないむしろ解放感があり心地よいくらいだった。足も臭くならないし、と心の中で付け加える。
一階は明るいままだったが、不気味なほどに静かであった。ニアはなぜかすり足でリビングの扉へと向かい、扉を開けようとドアノブを握った時だった。――ぬるりとした感覚が手に伝わった。
「――っ!」
反射で手をひっこめ、そのドアノブを凝視した。
ドアノブにべったりと付着していたのは血だった。それもすぐさま乾かないほどの量であった。この家の玄関からリビングに向かうための通路の床にも血が滴り落ちたのか黒く固まった血痕が点々とあった。
(まさか春の血なのか!?)
そう思い込んだら居ても立ってもいられず、勢いよく扉をあけ放ちリビングへと踏み込んだ。そこには床に倒れこみ、うつ伏せで血だまりの中に沈む春の姿があった。
「春っ! どうしたんですか! しっかりしてください!」
気づいた時にはもう春のそばに駆け寄っていた、うつ伏せの春を仰向けにして肩を揺すり声をかけたが目覚める気配はなかった。だが死んでいる訳ではなかった、その証拠に胸はしっかりと上下していた。
最悪の事態ではないことにニアは安心した。
だが、落ち着いて春の体を観察してみると、状態はそれはもうひどい有様だった。至る所に擦り傷、切り傷、裂傷傷、やけどなどが無事なところはないと言えるほど全身に見受けられる。
それよりも致命的なのは腹部に開いた大きな穴のような傷、銃創傷であった。今も血が絶え間なくあふれ出し続けており、その出血量と大きく深い銃創傷、体中のけして軽度とは言えない傷の数々、戦場で負傷した兵士も数多く見てきたニアは驚きや恐怖を軽く通り越し、なぜ生きているのかと単純な疑問を覚えるほどだった。
そのうち傷は目に見える速さで確実に治癒し続け、数分後には小さな傷は完全に治り、腹部の銃創からの出血も止まっていた。その様子をニアはじっと見続けていた。
そうして行く分かの時間が経過したころ、春はそっと目を開けた。眼前のピントが合わないほどに迫ったニアの顔に春は目を見開いた。
「ニア! 近い、顔が近いって!」
「でも、さっきまですごい傷で、血もたくさん出てて!」
春は自分の血に浸してしまい真っ赤になった服と床に広がる血だまりを見て、言葉に詰まった。
「あ、……うん。でも、もう平気だから大丈夫だから、この通り傷だってほとんど治っただろ?」
春は立ち上がって命に別状はないこと、傷は完治したことをアピールした。
「ほらニアも立って、血を拭きとらなくちゃ」
「わかりました。でも後でちゃんと何があったのか説明してくださいね」
春はそれに了承すると、二人で血をふき取り始めた。その後春はシャワーを浴びて血を洗い流した後、裏手の修練場に向かった。
「春、それは剣ですか?」
こっそりと後をついてきたニアは春が手に持っている鉄塊を指さして疑問を投げかけた。鉄塊にも春のものと思われる血が付着していた。
「うーん、一応剣だよ? 現時点は」
「なんですかその含みのある言い方は」
「ちなみに名前はブルーワンドって言うんだ」
春はその鉄塊ことブルーワンドにこびりついた血を持ってきた濡れタオルで丁寧にふき取っていった。
「剣なのにワンドだなんて変な名前ですね」
「まあね。で、ニアはやっぱり僕の怪我の原因を聞きたいの?」
「もちろんです。春をあそこまで追い込む相手が森に潜んでいるのだとしたら、落ち着いて眠ることもできません。ぜひお願いします」
「……自分の為なのね。わかったよ話すよ」
春はブルーワンドを修練場に置き、一階のリビングに向かった。向かい合ってテーブルに着くと春は口を開いた。
「えっと、ニアってこの森の伝説とか言い伝えに白い塔が出てくる話を知ってる?」
「ええ、はい知ってます。この森のもっとも近くにある村で言い伝えられているのが一つ、ですが、内容があまりにも突拍子しもなくて、その村人以外誰も信じていませんでした」
「じゃあ詳しく説明する必要は無いな。僕はその天使になれるっていう試練に挑戦して来たんだ」
「試練、ということは魔の森の奥地に雲を突き抜けるくらい高い塔があるって言うんですか?」
「うん」
ニアはどこか悟った表情をしていた。
「春があるって言えば有るんでしょうねぇ」
「結構あっさり信じるんだね」
「さんざん非現実的なことに直面したので、どこかが麻痺してしまったのかもしれません」
「そっか。ならお話は終了。さっさと夕飯を作って食べよう、昼飯抜いていたからもうお腹がすいて大変だよ」
とっさに春は話を切り替えた、ニアは話も聞けたので文句は無かった。
先ほどの春の話には驚いたが、それ以上の驚きがあったのは自身の変化だった。なぜ自分は出会って一日も立っていない素性もまだよくわからない男の言うことを、こうまで素直に信じることができるのだろうかと。
命を助けられたからだろうか、それもあるだろうが、何かが違っている気がした。
今のニアにはわからなかった。
5.
「まずお肉に塩と胡椒をまぶします、以上!」
「え、それだけですか! それにこのお肉脂肪ばっかりじゃないですか」
「だまらっしゃい! これは一〇〇g一二〇〇円高級黒毛和牛のフィレ。市販のたれなぞ邪道、男は黙って塩と胡椒一択!」
「はぁ、よくわかりませんが春、性格が変わってませんか? それと私は女です」
フライパンに油をひき、ニンニクを色が変わるまで炒る。炒ったニンニクを小皿によけ、真打である一〇〇g一二〇〇円のフィレステーキ二枚、計四〇〇gを春はフライパンに投入した。
熱されたフライパンに肉が触れると、じゅっという音とともに肉は加熱され、お肉の焼ける香りとニンニクの香りが充満した。
「ニア、レンジからごはん出してお皿によそって、手順は教えた通りに」
「りょ、了解です」
春はお肉に付きっ切りで手を離せなくなることを事前に見越して、丁寧にレンジでご飯パックをアルファ化する方法をニアにレクチャーしていたのだった。
二つのご飯が入った容器を危なげなく取り出したニアは、慎重な手つきでビニールをはがし、ご飯をお茶碗と小皿によそった。
お茶碗が春で小皿がニアである。
ニアがご飯を運び終わる頃には肉が焼きあがっていた、焼き加減は絶妙なミディアムレア。事前に加熱しておいた鉄板にお肉を置き換え、春はテーブルに向かった。
「どうよ、この完璧な焼き加減」
「す、すごのですか?」
肉と言えば赤身と干し肉しか食べたことのないニアにはいまいち想像ができないものであった。
「冷めないうちに食べよう、いただきます!」
「いただきます」
いうや否や春は肉を手づかみで握りしめ、口に運び大きな口をあけて肉にかぶりついた。
「春、汚いですよー」
「だって、朝食食べてなくてお腹すいてたし、最後なんて四時間ぶっとうしで正面からのたたき合いだったし、……だし、まさかあんなものもちだしてくるとは」
あっという間、二〇〇gの肉を三口で食べてしまった春はぶつぶつと何かを言うと、箸を持って、ご飯を食べ始めた。
それをしり目にニアは人生初の霜降り和牛を観察していた。
調理前のお肉表面に走っていた白い脂肪はきれいに溶け、現在お肉の表面には脂肪のあった溝が走っていた。フォークで抑え、お肉をナイフで切ってみた。肉はニアの想像以上に柔らかく、かなりの厚みがある肉だが、ホロホロと崩れ四散してしまいそな儚さがあった。
(とっても柔らかい……でも……)
切り口から鮮やかな赤色が覗いていた。
「春ー、これまだ焼けてませんよー」
「それがミディアムレアっていうものだよ。新鮮なお肉だから問題ないよ」
「そうなんですか?」
「一口食べてみて、ニアが無理だったら焼き直すから」
「わかりました」
ニアは小さく切り分けたお肉を口に運んだ。
「どう?」
赤いのがダメだったと少し心配な面持ちの春はニアの表情をみて食事に戻った。
「ニアっておいしい物食べてると無言になるよね」
「だって、本当においしいですよ、これ」
「そりゃよかった」
「塩加減と胡椒のきき具合も完璧です!」
「感謝の極み!」
6.
食器の片づけも終わったころ、突然電話のベルが鳴った。
「な、何の音ですか」
「大丈夫電話だよ」
「電話? ですか?」
いちいち説明していたら電話が切れてしまうので春は備え付けの電話がある玄関に向かった。
その後ろをニアがカルガモのようについていく。
受話器をつかみ、耳にあてた。
「…………」
何やら話声のような音が聞こえるが、ニアには何を言っているのか聞き取ることが出来なかった。
「……うん、――うん。そうだよ、大丈夫」
春はニアに見せたことのない緩んだ表情をしていた。しかしその表情をニアは知っていた、それは親しい友人や家族に久しぶりに再会した人たちが見せる、緊張がほぐれた安心しきった表情だ。
「うん、もう一回頑張ってみるよ。うん。それじゃあね、ばいばい」
どういう原理かはわからないが、あの奇妙な形をしたものは、たとえ顔を合わせなくても相手と会話をすることができる物のようだとニアは理解した。
「誰だったんですか?」
「ん、ああ。姉さんだよ」
「お姉さんがいるんですか!?」
「うん、二人いる。ちなみに兄も一人いて、僕は末っ子なんだ。今さっきのは上の姉からだった」
春は遠い目をした。
「なるほど、それでいったいどんなご用件だったのでしょうか?」
「そうだね、これはニアにも関係があることだから早めに言っておくね」
「私にですか?」
「そうだよ、十日後の朝に僕はもう一回塔に向かうんだけど、その時にニアも一緒に来て欲しいんだ」
その言葉にニアは全力で首を横に振った。
「無理ですよ! 春があんなにコテンパンされる危険な試練を私ができるとは到底思えません!」
必死で自身の非力さをアピールするニアがとてもかわいかったのでもう少しからかおうかとも思ったが、理性でその感情をねじ伏せた。
「大丈夫だよ、ニアは来るだけでいいから。試練を受けるのは僕だけ」
「そうなんですか……よかった。ってよくないですよ! 春は大丈夫なんですか!?」
「ん~。まあ大丈夫だよ、何とかなるって。一応今回は勝算もあるしね」
春はそういって自信ありげに笑って見せた。
「すごい自信ですね」
「まあね、今回のあれはイカサマみたいなもんだったから、兄さんも反省してるだろうし、公平な試練になることを期待してるんだ」
「……ん? 春のその口ぶりからすると、春の兄や姉妹が主催して、春に試練を課してるように聞こえるんですけど」
「その通りだよ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ! ということはなんですか、春は兄によって無茶な試練を課せられ、一切自重しなかった苛烈な試練によってボロボロにされて、春の姉妹がそれに怒り、春の兄を怒ったってことなんですか!?」
「すごいよく解ったね。一を知って十を知るとはまさにこのこと」
「それって完全に八百長じゃないですか」
「一応公平にということでジャッチが居るんだけど……まあ彼女も身内みたいなもんだしなー、八百長って言われても仕方ないな。でも試練事態は決して甘いものじゃないよ? どちらかと言うと難しい部類に入るかな」
ニアの国の方では貴族の息子の次男、三男に、自信と箔をつけるため多額の金を寄付して入団させる専用の騎士団がある。
全員が実用性ほぼ皆無のごてごてに装飾された鎧と剣で彩られたお飾り騎士団で、実戦に投入される機会は国がよほどの危機に瀕しない限りないと言われるほどだ。
全身にあれだけの傷を負えば、身内だからと甘やかされている訳ではないことは十分に理解できる、むしろよく末っ子の弟にこれほどの仕打ちを加えることができるものだと、ニアは逆に関心してしまった。
7.
それから春は電話で伝えられた期日である日まで、これといったことをする訳でもなく、毎日の日課であるらしい、剣の素振りと家庭菜園のお手入れ、そしていつの間にか冷蔵庫に補充されている食料を使って料理を食べながらのんびりと過ごした。
ニアはと言えば、春の家に何気なく置かれた便利グッツや便利調理器具などを商人魂むき出しで入念に観察、それを絵にして書きとめていた。将来商品として販売するらしい。
転んでもただでは起きないその姿勢に春はひそかに関心していた。
十日後の朝、まだ太陽も上がり切っていない早朝。
家に厳重に鍵を掛けて、二人は出発した。春は鉄塊ことブルーワンドを革バンドで背中に固定し、ニアはランチボックスの入った手提げを手に持って春の後を追った。
魔の森で食事に困ることは決してないと言い切れるが、春は遠足と言ったらおむすびとサンドイッチが欠かせないと言って、深夜から準備を始めていた。
料理に掛ける異常なまでの情熱にもいい加減慣れてきたニアは明日のことを考えさっさと寝てしまった。そのため、おむすびとサンドイッチの具材に何が入っているのかと、期待に胸を膨らませるのであった。
魔物との遭遇ペースは三十分から一時間に一回といったところであった。
そのほとんどが二足歩行する蟹やエビで春は一刀のもとに叩き潰した。二足歩行する蟹やエビが川に下半身を沈め突っ立ってる様はなかなかにシュールであり、ニアはこの生物の生態系を調べて本にすれば結構売れるのではと考えたものの、落ち着いて考えた後に諦めた。
「そろそろお昼にしよう」
日も高くなってきた頃に春はお弁当を食べることにした。
持っていた手提げから敷物を取り出して地面に広げ、ランチボックスを取り出した。
「鮭ありますか?」
「もちろん。はいこれ」
ニアに海苔でまかれた鮭おにぎりを手渡し、春は卵サンドをほおばった。
長時間の移動で腹がすいていたのか二人はあっという間に食べきってしまった。
「あと、どれくらいで着くんですか? 雲を超えるくらい高い塔なんですよね」
「もうすぐだよ、あと三十分くらい。もう見えるはずだよ、木の葉が邪魔してよく見えないだけで本当はもう見えてるはずだよ」
それからしばらくして二人はまた歩き始めた。
しばらく歩いていくと、あんなにもぎゅうぎゅう詰にして生えていた木の間隔が少しずつ開いていき、木々の隙間から一本の白い線のようなものが見え始めた。
それは本当に天に向かって一直線に伸びていき、どんなに高く見上げても天辺を見ることができないほど高い物であった。
「春、あれがそうなんですか……」
「そうだよ。もうすこしだから急ごう」
さらに進むと森は完全に途切れ、湿った土の大地は白い光沢のある石のようなもので舗装されていた。
「ほんとに大きい」
再びニアは塔を見上げ、感嘆の声をあげた。
そのそびえ立つ白亜の巨塔は空を支える一本の巨大な柱のようであり、その巨塔はたった一つの想像も及ばないほどの大きな金属の固まりを円筒状に細長く引き延ばして、大地に無理やり突き立てたようでもあった。
どちらにしろ、一切のつなぎ目のない巨塔は、現在の人類の英知ではどうしたって実現出来ない代物であることには変わりない。
「そういえば、春。私はどうしてここに呼ばれたんですか?」
立ち止まり、塔を見上げながら春に質問した。
「なんかね、一番上の姉さん。ノア姉っていうんだけど、ニアに会いたいんだって」
「な、なんでまた……」
「さあ」
ニアはすーっと血が引いていくのを感じた。
(え、私なにかした!? まさか私、消されるの!?)
表情だけは冷静を装っていたが腹の中は嵐が吹き荒れていた。
塔の真ん前数メートルの位置に地面から直接金属板生えていた。その金属板にはインターフォンらしきものが設置されており、春はそれに向かって話しかけた。
「来たよー」
たったの一言が眼前の塔を劇的に変化させた。
つなぎ目がなく、一つの金属でできているように見えた外壁が一部浮き上がり、真横にスライドする。それはとてもなめらかで、静かであり、十秒後には高さ五メートルほどの入り口が形成されていた。
動作が完了すると春は歩き始め、塔の中に入っていった。ニアもそのあとに続いていく。
塔内部は一本の直線的な回廊になっており、一歩歩くたびにその音が無機質な空間に反響した。
「お待ちしておりました」
回廊の先、ちょうど行き止まりになっている場所に若い女性がいた。
(すごくきれいな人)
銀髪にエメラルドグリーンの宝石のような碧眼を持った、まるで美を追及した絵画の中から出てきたような、人間味が欠けるくらい美しい人物であった。
彼女はシックな黒いスーツをパッリと着こなし、腕にシルバーの腕輪をはめていた。ニアは思わず自分が見とれていたことに気が付くのだった。
「お久しぶり、マリアさん」
「……春誰ですかこの人」
ニアはその女性、マリアに聞こえないように春に質問した。
「この人は、兄さんの設立した会社で兄さんの専属秘書を務めてる人だよ」
「お初にお目にかかります。ただ今ご紹介に預かりましたマリアと申します。本日はご足労をおかけしました。本来ならばこちらからお迎えに向かうはずでしたのですか。総帥がお許しになりませんでしたので、このような形になってしまいましたことを心よりお詫び申し上げます」
「まったくもーマリアさんは固いなー、じゃあ僕はそろそろ行くね」
「え! 一緒に行くんじゃないんですか!?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ!」
マリアはその二人の口論に軽く微笑み、ニアに声をかけた。
「ニア様はどうぞこちらへ、肩の力を抜いてそんなに緊張する必要はありません。ノア様はただニア様とお話がしたいという理由でここにお呼びしただけですので」
「そ、そうなんですか、はぁよかった」
「それと春様、十分ほど前に適正者が三人現れましたので、第一層にお通ししました。まだ突破できていないようですがなかなか奮闘しておられます」
「この星で適正者なんていたのか、まあいいや、少し観戦してくるよ」
春の正面から見て右の壁が開き、階段が出現した。
「いってらっしゃいませ」
マリアが深々と頭を下げると、春は階段を上って行った。
「ニア様はこちらでございます」
そういってマリアは左側の壁に手をかざした。甲高い電子音が鳴り、何かが外れる音がすると、こちらも壁が開いた。
「どうぞ、お入りください」
マリアに言われるがまま、開いた壁の中に入る、壁の奥は箱状であり、上部と側面は透明なガラスを使用されていた。
「二分ほど掛かりますが、その間は外の景色をご観覧ください。ニア様は高所恐怖症ではありませんか?」
「い、いえ、違います」
ニアはとっさに返事をしてしまったことを後悔することになる。
「そうですか。上空一万メートルへの所要時間は二分となっております。では、いってらっしゃいませ」
マリアは深々とお辞儀をすると、それに合わせて扉はしまっていった。
扉が閉められ、薄暗くなったのと同時にニアはかすかな浮遊感を感じた。この部屋が上に上っているんだと理解出来たのは標高の高い山に登った時にもなる、耳の奥を押されるような奇妙な感覚を感じたからだ。その後、光を遮っていた壁がすべて下に置き去りにして、高度一〇〇〇メートルの大パノラマがそこにあった。
ニアはあまりの高さに腰を抜かし、その場にへたりこんでしまう、そうして間もエレベーターは一〇キロメートルに二分で到達する速度、時速三〇〇キロメートルで上へと登り続けた。
眼科に広がる魔の森の全体像が明らかとなって行き、春と住んでいた家も見ることができた、さらに上っていくと、ニアが住んでいた街の城壁らしきものも見え始めた。
雲を抜き去り、雲海を一望できる高さになって、ようやく止まった。
背中の方で扉が開いたのを感じ取ったニアは生まれたての小鹿のような震える足で何とか立ち上がり、エレベーターを出た。
この塔の天辺と思われる場所はまるで天国に訪れてしまったかのような錯覚を覚えるような作りをしていた、全面ガラス張りで、眼下には一面の雲の大海原。
床は細かい装飾の施された銀発色の金属で作られ、その上に巨大な一枚の絨毯が敷かれていた。
そのちょうど中央にテーブルとゆったりとしたソファーが置かれており、そのソファーには白衣を着た人形が一体、横たわっていた。
ニアはその人形に近寄ってみる。
どこまでもリアルに作られた人形だった。髪の毛、眉毛の一本、一本。白い透き通った肌には青い静脈が通っており、唇は薄いピンク色をしていた。
どこまでもリアルなそれは、しかし、一瞬で人形であると見抜けることができた。
関節が球体関節で作られていたからだ。
ニアはひとまず反対側のソファーに腰かけた。全身を包み込む感覚がくせになりそうであった。
ニアが、まだノアと言う人物が現れないのかとあたりをキョロキョロと見回した時に、目の前の人形が突如として体を起こし、今まで眠りについていたとばかりに目をこすって大きな欠伸をした。
「おお、もう来てたのか。あまりにも暇だったので眠ってしまったぞ」
かわいい見た目と反した口調と突然人形が動きだしたことでニアの脳波は荒れに荒れた。
「に、人形が動いた」
「むう、人形と言う言葉は、われわれ、機械人類に対する差別用語だからあまり口にしない方がいいぞ? どうした? だいぶ顔色が悪いみたいだが」
突然、何の前触れもなく、急にニアの視界は暗転した。
次回は戦闘メインを予定してますです。