Stage.2 Memories lost
この日の目覚めは今までの人生の中でも1・2を争うほど最悪なものだった。なにせ、万力で締め付けられるような酷い頭痛と体の節々の鈍い痛みで強引に意識を覚醒させられたからだ。
しかも、自分の寝ていた場所がベッドの上では無く、どういう訳か硬くて冷たいコンクリートの上である。これでは『快適に目覚めろ』と言う方が無理だ。
「ああ、くそっ! どうして俺は、こんな場所で寝てたんだ……?」
未だ焦点の合わない目と割れるような頭痛の所為で自分の置かれている状況を把握し辛いが、とりあえず此処が自分の部屋でもホテルの部屋でもない事だけは直ぐに理解できた。
それどころか、まともな建物ですらなく、崩れた壁から覗く鉄筋や散乱するコンクリート片、大穴の開いた天井や置いてある道具類から解体途中のビルだと結論づけた。
「いつっ!」
その時、額の辺りに鋭い痛みを感じて反射的に手で触れてしまう。すると、指先に何かが引っ掛かるような奇妙な感触とざらつきを覚え、それが意味する事を咄嗟には理解できずに暫く悩んだ。しかし、やや時間が経ってから違和感の正体が出血の痕で、かさぶたを触っていたんだと理解する。
そして、この出血を伴う傷が原因で酷い頭痛に苛まれているのだと判断した。なお、他には多少の切り傷や打ち身こそあったものの、命に関わる重大なケガや骨折のようなものは無かった。
「それにしても、いつケガをしたのか、まるで記憶に無いな……」
周囲の様子を可能な限り詳細に観察しつつ記憶を探ろうとしたが、こんな解体途中のビルで倒れていた事やケガをした時の出来事が何1つ思い出せない。だが、それよりも遥かに重大な危機に直面している事に気付かされる。
「ちょっと待て。俺は一体、誰なんだ……?」
よりにもよって自分が何処の誰なのかを一切、思い出す事が出来なかったのだ。
「まさか、ケガの所為で記憶を失って――。いや、そんな映画みたいな話が……」
俺は自分の事を思い出せないのが一時的な混乱であって欲しいと心の底から願い続け、はやる気持ちと必死に戦いながら一縷の望みを託して記憶の奥底を漁っていく。
しかし、そこまでしても状況は一向に良くならなかった。それどころか、本当に記憶喪失になってしまったんだという事を改めて実感させられてしまう。
「畜生! どうして……、どうして、自分の事なのに何1つ思い出せないんだ!」
思わず感情的になって握った拳をコンクリートの床へと力任せに叩きつけるが、殴った手に鈍い痛みを感じるばかりで俺が期待するような変化は訪れなかった。
そして、茫然自失となった俺は暫くの間、何も考えずに無言で床の一点を見つめていた。だが、そんな風に現実から目を背けていても記憶が戻る事は無く時間だけが過ぎて行き、ようやく1つの結論に達した俺は強い決意と共に行動を起こす。
『とにかく、今は少しでも手掛りを探してみるか』
こうして覚悟を決めた俺は未だに痛む体を気合で無理矢理にでも動かして立ち上がり、上着やズボンのポケットを中心に片っ端から漁って自分の記憶に繋がりそうな物を探す。ところが、そうやって探し当てた物は混乱を更に増大させるような代物ばかりだった。
「なんで、こんな物が……?」
結局、俺が持っていた物は壊れた腕時計・財布(現金のみで、それなりの金額が入っていた)・携帯電話(プリペイド式で記憶に無い特定の番号との通話記録しかなく、今は何処とも繋がらない)・車のキー、それとハンドガン用マガジンが3本という不可解な組み合わせだった。
当然、そこには俺の身元が分かるようなものは何1つ無く、ますます悪い方向へと考えてしまう。
『本当に映画かドラマの世界みたいになってきたな……』
軽い溜息と共に、そんな感想が脳裏に浮かぶ。しかし、これは紛れもない現実で、それを体の節々に残る痛みが否応無く実感させてくれる。なので、とりあえず俺は『客観的に判断するんだ』と自分自身に言い聞かせて強引に納得させると、周囲を見回して“もう1つの持ち物=銃”を探した。
すると、ほんの少し離れた場所で崩れたコンクリート片の陰に隠れるようにして転がっているハンドガンを見付ける。そして、そこまで歩いて行って落ちていた銃を拾った時、その異変は起きた。
「……、どういう事だ?」
それは、思わず声に出して呟いてしまうぐらい不可解なものだった。なにせ、右手で銃を拾い上げた瞬間、俺は頭で考えるよりも先に装填されていたマガジンを抜き出して残弾を確認し、そのままの状態でスライドを左手で後方に引く。
すると、チャンバー内に残っていた弾が排莢されて地面に落ち、『キンッ』といった感じの乾いた金属音を立てる。その次にマガジンを再装填してから銃を両手でしっかりと握り直すと、体の正面で構えて素早く射撃体勢を取った。
そして、長年の経験によって身体に染み付いた感覚を試すかのように銃口を左右に向けて適当な物に寸分違わぬ正確さで照準を合わせると、最後にセーフティを掛けて腰のホルスターへと収めたからだ。
「くっ……!」
その途端、またしても突き刺すような鋭い痛みに襲われ、反射的に顔をしかめて頭を左手で押さえてしまう。
もしかすると、さっきの流れるような一連の動作と失われた記憶には何らかの関連があったのかもしれないが、そう簡単に記憶は戻ってこない。それどころか、今は些細な手掛りさえ思い出す事が出来なかった。
「くそっ! 俺は一体、誰なんだ!」
まるで戻る気配の無い記憶と不規則に襲ってくる頭痛に苛立ち、またしても俺は感情のままに声を荒げて叫んでしまう。勿論、それが無意味な行為だとは分かっているのだが、あまりに突拍子もない出来事の連続に昂ぶる気持ちが抑えられないのだ。
『ハァ……。とりあえず、ここから移動するか』
頭痛が治まったのを契機に大きく息を吐いて呼吸と気持ちを落ち着けると、出入り口らしき場所を目指して歩き出した。しかし、直ぐに違った意味で頭を抱える羽目になる。
「おいおい、冗談だろ……」
10m近くに渡って大きく崩れ落ちた階段を前にして俺は再び絶望感に打ちひしがれ、近くの壁に力無くもたれかかる。
なにせ、ガラスの無くなった窓から見える景色によって此処がビルの上階(多分、3~4階)に相当する高さにあるのは容易に判別できたし、階下へ下りる手段は眼前の階段だけ(エレベーターが動かない事は確認済み)だったのだ。
つまり、ロープかハシゴでも手に入れない限り、俺はビルから出る事さえままならない状況に置かれている。そして最悪な事に、そういった物は近くに見当たらなかった。
『こうなったら、自力でエレベーターシャフトを下りるしかないか……』
ここで崩れ落ちた階段を見つめていても事態は良くならないので、俺は唯一残された方法を思い浮かべて声に出さずに呟く。はっきり言って、あまり気乗りしない方法だったのだが、他に選択肢が無い以上は実行するしかない。
なので、覚悟を決めた俺はエレベーターのある所まで戻り、まずは特別な道具を使わずに下りられるかどうかを確かめる。すると、それなりに難易度は高そうだったものの、なんとか下りられそうだった。
「よっ!」
右手で体を支えつつ左腕を伸ばしてエレベーターシャフト内の出っ張りを掴み、そこを支点にして今度は両足の爪先を別の出っ張りに引っ掛けて壁に張り付くような体勢になる。そして、そのままの体勢でメンテナンス用の簡易的なハシゴ(足場)らしきものがある所まで横方向へ移動した。
もっとも、それはハシゴと呼ぶには心許無く、辛うじて手足を引っ掛けられる程度の出っ張りなので、ちょっとでもバランスを崩せば真っ逆さまに落下するのは確実だった。その為、思ったよりも時間と体力を消費する羽目になったが、とりあえず1階まで下りる事には成功する。
「ふぅ……、なんとか辿り着け――、ん、車?」
呼吸を整える意味もあってエレベーターシャフトから出た所で1度立ち止まり、軽く周囲を見回す。すると、建物の出入り口越しに黒い塊が視界に入り、それが外壁の傍に横向きに停められた車の後部だと一拍ほど遅れてから気が付いた。
そこで俺は歩いて近付きながら自分の持っていた車のキーをポケットから取り出し、ドアロックを解除してみようと何度かスイッチを押してみるが、まるで反応が無い。
『そう言えば、財布の中に駐車券が入ってたな』
駐車券を持っているという事は、駐車場に車を停めてきたと考える方が自然だ。なので、ここに停車してある車が反応しなくても不思議ではない。
しかし、ビルの解体現場には似つかわしくない車(黒塗りのセダン)だったのが妙に引っ掛かり、途中で俺は腰のホルスターから銃を取り出してセーフティを解除すると両手で構え、いつでもトリガーを引けるようにして慎重に近付いた。
だが、車には誰も乗っていなかったので直ぐに銃にはセーフティを掛け直してホルスターに戻したが、念の為に割れた窓から手を突っ込んで後部ドアのロックを外してドアを開け、そこから潜り込むように車内に入って役に立つ情報がないか探してみる。
ちなみに、車そのものはフロント部分に大きなコンクリート片が落下した影響で大破(その所為で前部ドアが開かなかった)しており、とてもエンジンが掛かるような状態には見えなかった。
『やっぱり、何も無いか……』
結局、この車にも失われた記憶の手掛りになりそうなものは何1つ置いておらず、レンタカーという事が判明しただけだった。
そこで俺は大破した車の調査は早々に切り上げ、自分が乗ってきた車を探しに行こうと思って敷地の外を目指して歩き始める。ところが、その矢先、ある不可解な状況に陥っている事に気付いて足を止め、それが意味するものを必死に考える。
『そう言えば、やけに静かだが、今日が休みって事はないよな』
付近に全く人影が見当たらない事に今更になって疑問を感じ、改めて携帯電話のディスプレイで曜日と時間を確認しながら周囲の様子を窺う。なお、今は平日の午後なので、本来なら解体工事の作業員が普通に働いている時間だ。
それに、もし午前中から作業員が現場に来ていれば大破した車にも気付いている筈なので、そこから推測すると朝から誰も来ていない事になってしまう。
一応、解体工事が途中で中止になって建物を残したまま放棄された可能性もあったが、それなりに管理されている痕跡が残されている事からも人の出入りは頻繁にあったと思われる。なのに、今日に限って人が来ていないのは明らかに変だ。
だが、それと同時に自分が誰にも姿を見られず、さらに厄介事にも巻き込まれる前に移動できそうな事に安堵している部分があった。
その為、この状況を不審には思いつつも俺は敷地の外の様子をゲート付近(そこ以外は背の高い鉄板のようなフェンスに囲われ、外の様子を見る事は出来ない)から静かに窺い、人影が何処にも見当たらないのを確かめてからゲートを開けて素知らぬ顔で表に面する道へと足を踏み出した。
そして、建物内に居た時にガラスの無い窓から見えた駐車場を示す看板(駐車券に書かれているのと同じ名称)の事を思い出し、まずは看板が見えた方向を目指して道なりに進む。
『それにしても、この奇妙な雰囲気は何なんだ? メインストリートから外れているにしても、あまりにも静か過ぎやしないか? それに、さっき僅かに見えた黒煙と一向に鳴り止まないサイレンの音は関係があるのか?』
雑居ビルやオフィスビルが混在する地区の路地のような場所を歩いているとは言え、ここまで人通りが少ないのは異常だった。一応、それなりに規模の大きい街なのは遠方に見える建物などで判断できるのだが、それに見合うだけの人々の活動といったものが周囲からは全く感じられないのだ。
その為、俺の頭の中には次々と疑問が湧いてくる。そして、最初の小さな交差点を右に曲がった時、初めて自分以外の人を目にした。
『なんだ、普通に居るじゃないか』
まだ少し距離があったのと一方の後ろ姿しか見えない所為で細かい部分までは分からないが、その背格好やシルエットから男女のカップルが抱き合っているらしく、俺は僅かに緊張を緩めて通行人の振りをしながら2人へと近付いて行く。
『それにしても、昼間から随分とお熱い事で……』
こんな人通りの少ない路地とは言え、昼間から道の真ん中で堂々と抱き締め合って愛を語らうカップルの姿に俺は少々呆れたような感情を覚え、そっと心の中で皮肉を零す。だが、距離が縮まるにつれて今度は違和感の方が大きくなってきた。
『あれは……、血か?』
こちらに背を向けている女性の服に付いていた赤黒い染みを最初は模様か何かだと思っていたのだが、それはどう見ても大量の血が染み込んだ跡だった。さらに、炎天下に放置された生ゴミよりも遥かに強烈な腐敗臭らしきものまで漂ってきたので、俺は思わず口での呼吸に切り替えてしまう。
すると、そんな俺の行動に反応したのか、今まで背を向けていた女性がゆっくりと振り向く。だが、それを見た途端に俺の鼓動は瞬間的に跳ね上がり、あまりに現実離れした光景に絶句してその場に立ち尽くしてしまった。
「なっ――!」
「うぅ……、あぁ……」
なぜなら、こちらを振り向いた人物はえぐれた腹から血まみれの内蔵を露出させている為、およそ『人間』と呼ぶには無理があり過ぎ、有り体に言ってしまえば映画などに登場する『アンデッド』そのものだった。
しかも、その元人間の彼女は俺を獲物か何かと判断したのか、焦点の合わない濁った目で値踏みするように見てきた後、ドス黒い血にまみれた口を大きく開けて唸り声と共に近付いて来た。
そこで俺は反射的に腰のホルスターから銃を引き抜くとセーフティを解除し、その銃口を元人間の彼女に向ける。そして、半ば無駄とは知りつつも一応は警告の言葉を発した。
「それ以上、近付くと撃つ」
「うあぁ……」
当然と言うべきか、それは無駄な行為に終わった。案の定、その元人間は銃口を向けられても微塵も怯む事なく一定のペースで接近を続けている。なので、今度は俺も躊躇わなかった。
両手で銃のグリップをしっかりと握り締めると、スライド上部のアイアンサイト越しに面積が大きくて狙い易い胴体を捉え、右手人差し指で真っ直ぐにトリガーを2回引いて短い2連射を浴びせた。
ちなみに、この銃の発射方式はダブルアクションなのでスライドを引いてチャンバー内に初弾を装填していなくてもトリガーを引くだけで撃てるのだが、その分だけ最初の1発は強い力でトリガーを引く必要があった。
だが、それでも発射された弾は狙った場所からは大きく逸れず、2発とも胴体のほぼ中央に命中して攻撃対象を小さく後退させた。しかし、その程度の効果しか与えられない。
「チッ! じゃあ、これならどうだ!」
まさに“アンデッド”としか思えない反応に小さく舌打ちをした俺は次に狙いを眉間へと変更し、さっきよりも慎重に狙いを定めてからトリガーを引く。すると、今度も弾は正確に攻撃対象の狙った箇所である眉間に命中し、その衝撃で頭を後方へと仰け反らせ、さらに勢いのまま仰向けに地面へと倒した。
そして、そのまま対象は動かなくなったのだが、俺は警戒して銃口を斃した相手に向けたまま暫く様子を窺う。しかし、数分が経過しても反応は無かった。どうやら、本当に“アンデッド”と同じ方法でなければ止めを刺せないらしい。
「気が付いたら記憶を失くしてた上に本物の“アンデッド”まで現れるとは、悪い冗談にしても程があるぜ……」
そんな風に悪態をつきながら俺は完全に動かなくなった死体へと接近する。勿論、万全を期す為に何時でも射撃を行える態勢は整えていた。
そして、地面に無造作に転がる死体の横を通過しようとした時、もう1つの男の死体(どうやら、俺が斃した“アンデッド”の餌食になったらしい)が突然呻き声を上げ、動き出そうとしたのだ。
「おぁ……」
「くそっ! そんな事まで映画と同じかよ!」
それを見た俺はイラついたように叫ぶと今度は最初から頭を狙ってトリガーを引き、至近距離からの確実なヘッドショットで頭蓋骨もろとも脳みそを容赦なく吹き飛ばして起き上がる前に絶命させた。
もっとも、これが本当に“アンデッド”なら既に死んでいるので『絶命させた』と言うのも変かもしれないが、2度と起き上がってこないよう殺したのは確かなので、表現の仕方程度の些細なものは気にしない事にする。
そして、その状態から素早く周囲を見渡して他にも“アンデッド”が居ないか確認してみると、案の定、さっき俺が右折した交差点の所に3体の人影を視認できた。
ただ、どの人影も不規則に上半身を揺らしながら覚束ない足取りで歩いているので、おそらくは“アンデッド”と化した元人間なのだろう。しかし、そうなると1つの疑問が湧き上がってくる。
『あいつら、今まで何処に潜んでたんだ?』
今までの反応から“アンデッド”の動きを推測すると、アイツらは決して素早い動きが出来るタイプでは無い。そうなると比較的近い場所に潜んでいた事になるが、この短時間で起きた出来事の中でアイツらの注意を惹くものと言えば銃声しか思い当たらない。なので、俺は少し実験をしてみる事にした。
『試す価値はあるな』
そう心の中で呟くと改めて周囲の安全と逃走ルートの確認を行い、たまたま近くに転がっていた空き缶を左手で拾い上げ、それを“アンデッド”が居る付近に落下するように放り投げる。
すると、当然のようにアスファルトの上に落下した直後に空き缶は大きな音を発し、そのまま道の向こうへと転がっていく。そして、俺の予想した通り、3体の“アンデッド”は転がる空き缶を追い掛けるような反応を示した。
ただ、その時に1体の“アンデッド”が路上に駐車していた車をぶつかる直前で避けるように動いたので、多少の視覚は残っている事も確認できた。つまり、あいつらは音や動く物に対して敏感に反応する特性があるのだ。
その次に俺は直径が数cm程度の大きさの小石を拾い上げ、最も狙い易い位置にいる“アンデッド”に全力でぶつけてみた。ところが、かなりの勢いで石をぶつけられたにも関わらず、ぶつけられた事に対しては何の反応も示さない。それにより、痛覚や触覚といった感覚は失われていると判断した。
『とりあえずは、こんなところか……』
こうして一応は“アンデッド”の特性も把握できたので、それに納得した俺は声に出さずに呟くと警戒するように周囲に視線を走らせる。そして、また何処かから新たな“アンデッド”が集まってこないとも限らないので、踵を返して面倒な事態になる前に移動を始めて此処から離れる。
もっとも、今度は先程までとは違い、いつ“アンデッド”に遭遇しても良いように銃は手に持ったままだった。
まさか、自分が記憶喪失になった挙句、こんな街中で化け物と戦う事になるとは夢にも思っていなかった。おかげで常に移動ルートや周囲の警戒をしながら行動する羽目になっているのだが、そういった動作に不思議なほど体が馴染んでいた。
『ハァ……、ますます訳が分からなくなりそうだ……』
直面する状況が状況なだけに流石に声には出さなかったが、これが今の俺が抱く偽りのない正直な心情である。
しかし、それ以上に俺の頭の中では『自分が化け物の居る世界で無事に生き延びる為には、どうするのが最善で何が必要になるか?』という事柄ばかりが次々と浮かび、いきなり放り込まれた非現実的な状況にさえ早くも順応し始めていた。
『そう言えば、この現象はどの程度、周りに広がっているんだ?』
これまでは自分の身に直接降りかかった出来事への対処に追われていて意識から抜け落ちていたが、あんな“死んだ人間が化け物に変化し、その化け物が新たに人を襲って化け物を増やす現象”が狭い範囲で収束するとは到底、考えられなかったからだ。
特に、現代のように交通機関の発達が著しい世界では影響範囲が加速度的に拡大する。最悪、世界中が化け物だらけになっている可能性もあるのだが、それを確認する術は俺には無かった。
一応、この辺にある適当な建物に押し入ってテレビかネットでも使えば様々な情報が入手できるのだろうが、どれ程の数の“アンデッド”が潜んでいるか見当もつかない建物の安全を1人で確保するのはリスクが大き過ぎた。
その為、周囲の建物への突入は早々に選択肢から除外し、道の中央を歩きながら動くものや聞き慣れない物音に細心の注意を払っていた。すると、何の前触れもなく派手な急ブレーキ音が聞こえ、それに続く形で何かがぶつかるようなガシャンという耳障りな音まで聞こえてきた。
『さて、出来る事なら関わりたくないんだが……』
その音から誰かが事故を起こしたのは直ぐに分かったが、それに“アンデッド”が関わっているのかどうかまでは分からない。なので、俺は反射的に様々なパターンを想像してしまう。勿論、俺に影響が無ければ良いが、そこまで楽観的にはなれない。
しかし、どう考えても“アンデッド”が関わっているものしか思い浮かばなかったので、再び戦闘になる事を想定して予定通りに移動を続ける。そして、眼前に迫っていた交差点を警戒しながら慎重に左折した時、その先で1つの出来事がリアルタイムで進行していた。
『あれは……』
それに俺が気付いたのは交差点を曲がった直後、具体的には目的の駐車場まで直線距離で50mを切った辺りでもあったのだが、解体途中のビルで目覚めてから初めてだと断言できる普通の(生きている)人間を発見する。
しかも、その生きている人間は全部で5人(中心の1人を守るような陣形だった)で中心に居る1人を除いて全員が似たようなデザインの服装で統一されている事から、その集団は同じ学校の生徒(背格好から推測すると高校生)が中心のグループだと判断した。
もっとも、1人しか男の居ない奇妙な人員構成ではあった。ただ、彼女達は5~6体からなる“アンデッド”の襲撃を受けている真っ最中らしく、それぞれに簡単な武器らしき物を持って必死に応戦しているものの、戦況は決して優勢では無い。
やはり、金属バットやパイプのような即席の武器では複数の化け物を相手に戦闘を続けるのは厳しいらしく、徐々に包囲を狭められて追い詰められている。
一応、誰か1人を囮にすれば他は安全に逃げられるのだろうが、2人1組で連携を取って戦っているところから推測すると、そういう方法で脱出を図る可能性は低いだろう。
そうなると俺の採れる選択肢は助けに入るか、このまま彼女達を見捨てて自分の目的を優先するかの2つに自動的に絞られる。だが、俺は躊躇う事なく助ける方を選択した。
なぜなら、目的地へ向かう為には彼女達が襲撃を受けている場所を通らなくてはならないので、このまま見捨てるにしても何処かに身を隠して“アンデッド”どもが立ち去るまで待たなければならず、それではタイムロスが大きくなって今後の行動に支障を来たす可能性もあるからだ。
それに、記憶も土地勘も無い俺としては、ここで彼女達を助ける事で得られる情報は貴重なものとなるだろう。そして、そこまでの事を一瞬で考えて決断を下すと、直ぐに“アンデッド”どもを最小限のリスクと弾数で殲滅する手段を頭の中で一気に組み上げる。
『まずは、あいつらの居る方へ近付くのが先決だな。ここからだと微妙に距離があって確実性に欠ける。そうなると、後は排除する順番なんだが……』
実際は、こうして殲滅方法を考え始めた瞬間から行動を起こしていた。俺は早足だが静かに接近しながらも慣れた動作で手にした銃を構えると、素早く攻撃対象と非攻撃対象の位置関係を把握して独自の脅威判定を行い、射撃を加える順番を決めていく。
そして、それが決まったのは攻撃対象を確実に仕留めるのに充分な距離にまで接近したのと同時で、こちらに注意を払う者は居なかった。
しかし、ここで俺は直ぐに撃つような真似はせずに軽く一拍おいて呼吸と心臓の鼓動の微かな乱れを整え、銃口がブレて命中率を下げるかもしれない不確定要素を極限まで排除してから実際の射撃に移る。
「全員、その場を動くな!」
まずは大声で叫んで“アンデッド”を含めた全員の注意を俺の方へと向けさせる。なぜなら、何かしらの訓練でも受けていない限り、大抵の人間は突発的に起きた予想外の出来事に対処できずに思考と共に動作も止まるので、こうしておけば下手に動き回って射線に入ってくるリスクは減らせるからだ。
しかも、単純な本能に従って行動する“アンデッド”も条件反射で音に敏感に反応し、こちらを振り向こうとして動きが鈍くなるので先程よりは遥かに狙い易くなった。その為、本当に一瞬の間だけだが、射撃訓練などでお馴染みの“動かないターゲット”が眼前に立ち並ぶ理想的な状況が完成した。
そして、こうなると後は時間との戦いである。当然、こんな射撃に最適な状況は僅かな時間しか続かないので、無駄のない動作で全ての脅威を速やかに排除する必要に迫られるが、そのように感じる事そのものが心に焦りを生んで射撃の精度を狂わせる。まさに、ジレンマだ。
ところが、そのような感情が射撃時に生まれる事さえも俺は知っていたのか、まるで動じる様子もなく冷静に最初のターゲットに照準を合わせるとトリガーを引き、ダブルタップで“アンデッド”の見苦しい顔面に2発の銃弾を連続で叩き込んでいた。
さらに、そのまま動きを止める事なく1本の線でターゲットを順繰りになぞるように次々と照準を合わせ、ターゲットと重なった瞬間にのみトリガーを引いてダブルタップで弾を浴びせるという動作を機械的に繰り返していく。
その結果、ちょうどマガジン内の全弾を撃ち尽くすのと同時に攻撃対象も全滅させていた。そして、最後に空になったマガジンを装弾済みのマガジンと交換して完了と判断し、僅かに緊張感を緩める。
「全員、無事か?」
いきなり乱入したかと思えば、そのまま一気に“アンデッド”どもを殲滅(しかも、ヘッドショットの連続)しておいて言うのも変かもしれないが、他に適当な台詞が無かった事もあり、とりあえず俺は無難な言葉を掛けてみた。
しかし、彼女達は唖然とした表情で俺を遠巻きに見つめるばかりで話し掛けてこようとしない。それどころか、今度は俺に対して武器を構えている有様だ。
『まあ、警戒されて当然か……』
それは半ば予想できた反応だったので俺は声に出さずに呟くと、どうすれば有益な情報を平和的に引き出せるかを考える事にする。
なお、彼女達の近くには2台のオートバイ(1台は転倒でもしたらしく、真新しい傷と破損した箇所が見受けられる)があったので、少し前に聞こえたブレーキ音や衝突音がそうなのだろう。だが、驚いた事に先に沈黙を破ったのは彼女達の方だった。
5人いる中で唯一の男である1人の少年が代表するように少しだけ前へ進み出て正面から俺を見据えると、こちらを警戒する様子を隠そうともせずにストレートに訊いてくる。
「助けてくれた事には感謝するが、あんたは一体、何者なんだ? さっきの射撃、どう見ても素人じゃなかったぞ。それに、どんな思惑があって俺達を助けた?」
「ちょっ、ちょっと……」
この状況では当然とも言える質問なのだが、いきなり答え難い事を訊かれて咄嗟に返事が出来ずにいると、制服を着ている少女達の中では背の高い黒髪の娘が困惑したような表情を浮かべて少年をたしなめようとする。
もっとも、それが正体も目的も不明な上に銃で武装し、驚異的な戦闘能力を発揮した俺の事を警戒しての反応なのは明らかだった。だが、それでも少年の方は態度を変えるつもりは微塵も無いらしく、さっきから鋭い視線で睨んできている。
「訳あって正体は明かせないが、俺は君達の敵じゃない。信用できないのは分かるが、それだけは神に誓っても良い。それから君達を助けた理由だが、この辺りの土地勘が無いから情報が欲しかったのと、ここを通過したかったからだ」
そもそも、俺の正体については俺自身が記憶喪失な所為で答えようが無いのだが、それを言ったら確実に怪しまれて情報は得られなくなるだろう。なので、ここでは敢えて“訳あり”という形で誤魔化すと共に、敵対する意思が無い事だけは断言しておいた。
実際、記憶喪失も広い意味では“訳あり”の1つに分類できるし、それ以外の部分では本当に嘘は吐いていないので色々と訊かれても問題は無い。しかし、この程度では俺の事を信じてもらえないらしく、まだ全員が疑いの眼差しを向けてきている。
「証拠は無いが、ここは俺を信じて欲しい」
そう言って俺の方が先に銃にセーフティを掛けると、それを腰のホルスターに収めて彼らの目を正面から見据える。その後、およそ1分ほど奇妙な沈黙が訪れたが、ようやく少年が攻撃態勢を解きながら口を開いてくれた。
「とりあえず、敵では無さそうだし、もう少し詳しく事情を説明してくれないか?」
すると、その彼の言葉を合図にしたかのように他の者達も躊躇いがちに武器を下ろす。もっとも、まだ信用されて無い証拠に彼女達は遠慮なしに懐疑的な視線を向けてくる。しかし、それでも攻撃態勢を解除したという事は、話ぐらいは聞いても良いと判断したのだろう。
そこで俺は、いかにも真面目な話をするような雰囲気を装うと、本当に隠さなければいけない部分を除いて残りは事実を隠さずに話す。どういう訳か、そうするのが最善だと本能的に判断し、それについては何の疑問も抱かずに行動に移していたのだ。
そして、最終的に利害の一致という最もシンプルで分かり易い理由の下、俺達は一時的に共同戦線を張る事で合意した。
途中まで書いたところで気付いたんですが、記憶喪失で戦闘マシーンみたいな人間という設定だと映画にもなった某暗殺者そのままですよね。まったくの偶然とは言え、これにはビックリです。
さて、そんな訳で、次回は新メンバーが加わるまでの経緯を本来の主人公視点で見ていく予定です。