夏輝。その人
小学生の頃、俺はサッカーに夢中だった。
ワールドカップで日本が決勝トーナメントに行くだなんて、当時で考えれば奇跡以外の何物でもなくて、皆が仕事を早く切り上げたり、予定をキャンセルしてブラウン管に釘付けになった。
俺も、そんな大人たちの熱気にやられてボールを蹴り始めた世代で、まずは形から入ろうと、ソフトモヒカンにして、世界の一流選手の真似をしていた。
「うわ、その髪型、最高に似合ってないよ」
当時、周りの人たちが生暖かく見守る中、ストレートにそんな意見をくれたのが、幼馴染の市塙夏輝だった。
家は向かいで、同い年。いて座のO型。
運動が抜群に出来て、女の子なのに学校の野球部で男に混ざって試合をしている子だった。
サッカーの練習も、夏輝が暇な時はいつも相手をしてもらっていた。
部活として頑張っていた俺だが、夏樹が片手間にやる技術に追いつくまでに一年近くかかったのを覚えている。
昔から人懐っこくて、馴れ馴れしいヤツだったが……。
「いやいや、悪いね。邪魔しちゃったみたいでさ」
そう言いながら片手を挙げて、こちらを拝むように詫びているこの美女が、まさか夏輝だとは、思ってもみなかった。
こいつは俺が中学にあがる時、突然親の都合で隣の県に引っ越していき、それ以来、音信不通だった。
「しかし武もあたしの事くらい覚えてると思ったのに、なかなか薄情なヤツだね」
そう言いながら、バッティンググローブをつけたままの手で俺の頬を引っ張ってくる。
それも多少痛いのだが、反対側でバットに手をかけて無表情でこちらを見ている人が恐ろしくて、痛みとかそういう問題じゃない。
「……あなた。誰?」
普段の事務的な口調に聞こえるが、明らかに一オクターブ程低い声で清水清羅が言う。
「あたし? あぁ、ごめんごめん。武の幼馴染……。かな? 市塙夏輝っていうの。よろしくね、彼女さん」
ニシシと笑いながら言う夏輝と対照的に、真顔で「そうですか」とだけ清水清羅は返した。
「あはは……。彼女さんに嫌われちゃったかな? ごめんね。もう退散するからさ」
数秒の重苦しい沈黙の後、少し寂しげに笑って、夏樹が席を立った。
「あ、そうそう」
出口に向かって歩き出して、また俺の所に戻ってきた。
「これ、携帯の番号と住所ね。もし暇だったらまた連絡して」
そう言って、小さなメモを俺に渡すと、次こそ手をブンブンと振りながら颯爽と帰っていった。
残されたのは、真顔の清水清羅と、恐怖で笑顔が引き攣っている俺だけだった。