毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
すね毛を失って初めて蚊に刺される藤田の件
すね毛を失って初めて蚊に刺される藤田の件
藤田は困惑していた。
脛が、かゆい。
右の脛に三か所。
左の脛に二か所。
赤く、ぷっくりと腫れている。
蚊である。
「……また、か」
夏だった。
◇
あの夜から、藤田の脛は滑らかなままだった。
毛根破壊玉の照射を受けて以来、一本も生えてこない。
剃る必要がない。
除毛剤も要らない。
朝起きて、脛を撫でる。
つるり。
それだけで、一日が穏やかに始まった。
そして藤田は、ひとつだけ自分に許したことがあった。
短パンである。
もちろん、結社では履かない。
あの日の成果は、生涯誰にも自慢しないと誓ったのだ。
履くのは自宅と、休日の外出のときだけ。
誰に見せるためでもない。
ただ、膝から下を風が通り抜けていく。
その感覚を、藤田は静かに味わっていた。
長年、剛毛の下に閉じ込められていた脛が、ようやく外の空気に触れている。
そう思っていた。
◇
「……露出が増えたからだな」
藤田は、腫れた脛を見下ろして結論を出した。
理屈は通っている。
脛を出せば、蚊に狙われる。
当然のことだ。
藤田は短パンを畳み、衣装ケースの奥にしまった。
翌日からは、長ズボンに戻した。
これで解決するはずだった。
◇
解決しなかった。
長ズボンでも、刺される。
椅子に座ると、裾が上がる。
靴下との間に、わずかな隙間ができる。
そこを刺される。
寝ている間に、布団から出た脛を刺される。
風呂上がり、脱衣所で体を拭いているわずかな間にも刺される。
藤田は手帳を取り出した。
刺された日付。
時刻。
場所。
右か、左か。
数。
一つずつ、几帳面に書き留めていった。
一週間。
十日。
半月。
数は減らなかった。
むしろ、右脛はわずかに増えていた。
「……なぜだ」
藤田は手帳を閉じ、腕を組んだ。
脛を出さなくても刺される。
ならば、露出が原因ではない。
では、何が原因なのか。
藤田には、わからなかった。
◇
その夜。
藤田は居間で一人、ズボンの裾を捲り上げて座っていた。
かゆみ止めを塗るためだった。
そのとき。
ぷうん、と小さな羽音がした。
一匹の蚊が、ゆっくりと降りてくる。
そして、藤田の右脛に止まった。
藤田は、払わなかった。
なぜかは、自分でもわからない。
ただ、じっと見ていた。
蚊は、何の障害もなく脛の上を歩いた。
滑らかな皮膚の上を。
遮るものは、何もない。
蚊は迷うことなく、口を下ろした。
「……」
藤田は、それを見つめたまま考えていた。
そういえば。
自分はこれまで、足を蚊に刺されたことがあっただろうか。
腕なら、ある。
首筋も、ある。
だが、足は。
脛は。
物心ついてから今日まで。
いくら記憶を探っても、ほとんど出てこない。
なぜだ。
◇
ふいに、遠い夏が蘇った。
少年の頃。
藤田は半ズボンで、草むらに座っていた。
その頃にはもう、藤田の脛は濃かった。
一匹の蚊が飛んできた。
脛へ近づく。
そして、毛の中へ入っていった。
濃く、硬く、絡み合った毛の奥へ。
蚊は、そこから出てこなかった。
しばらくして見ると、蚊は毛の間でもがいていた。
細い脚が、毛に絡め取られている。
羽が、毛に押さえつけられている。
抜け出そうとするたびに、さらに深く絡まっていく。
やがて、蚊は動かなくなった。
少年の藤田は、それを指でつまんで捨てた。
「また毛に虫が絡まってる」
それだけだった。
気にも留めなかった。
そういうことが、毎年あった。
夏が来るたびに。
何度も。
何度も。
◇
「……ま、まさか」
藤田の声が、かすれた。
脛の蚊は、まだ血を吸っている。
「私のすね毛が……」
膝が、震えた。
「ずっと、守ってくれていた……?」
藤田は、手帳を開いた。
半月分の記録。
すべて、脛。
すべて、あの夜の後のこと。
では、剃っていた頃はどうだったのか。
藤田は長年、すね毛を剃り続けてきた。
剃刀で。
電動シェーバーで。
除毛剤で。
それでも、その頃に脛を刺された覚えは、ほとんどない。
藤田は思い出した。
朝に剃れば、夜にはもう存在を主張していた。
休日に念入りに処理しても、数日後には何事もなかったかのように復活していた。
あれほど、すぐに戻ってきていたのだ。
剃ったところで、防御壁が失われていた時間は、ほんのわずかだったのだろう。
藤田は、そう考えた。
そう考えると、すべてに説明がついた。
そして、もう一つ。
かつて自分は、あの毛をこう感じていた。
毛というより、意志を持った何かだ、と。
剃っても剃っても、生えてきた。
あれは。
――あれは、私を守ろうとしていたのではないか。
藤田には、もうそうとしか思えなかった。
◇
「なんてことだ」
藤田は、両手で顔を覆った。
あの夜。
脱衣所で。
ズボンの裾を膝まで捲り上げ。
誰もいない空間に向かって「見ろ」と叫び。
踊った。
長年自分を守り続けてきたものを失った、その日に。
自分は、喜びの舞を踊っていたのだ。
「私は、なんてことを……」
あの実験で、藤田は自ら脛を差し出した。
事故を装い。
角度を調整し。
右足と左足に、均等に。
誰に命じられたわけでもない。
自分で選んだことだった。
藤田は、顔を上げた。
捲り上げた裾の下から、脛がのぞいている。
妙に光沢のある、両脚。
そこへ。
また一匹、蚊が降りてきた。
藤田は、払わなかった。
払えなかった。
この脛をこうしたのは、自分なのだ。
ぷうん、という羽音だけが、静かな居間に小さく響いていた。
◇
その夜、藤田は遅くまで眠れなかった。
取り戻さなければならない。
だが、どうやって。
毛根破壊玉は、完全破壊を前提に作られている。
毛根再生剤でも、再び生やすことはできない。
そのことを、誰よりもよく知っているのは。
その身で照射を受けた、藤田自身だった。
一人では、どうにもならない。
藤田は、暗い天井を見上げた。
脛が、かゆかった。
残酷描写:すね毛に巻き付かれ悶え死ぬかの描写があります。
後日談第1話




