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毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~

すね毛を失って初めて蚊に刺される藤田の件

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/03

すね毛を失って初めて蚊に刺される藤田の件


 藤田は困惑していた。


 脛が、かゆい。


 右の脛に三か所。


 左の脛に二か所。


 赤く、ぷっくりと腫れている。


 蚊である。


「……また、か」


 夏だった。


     ◇


 あの夜から、藤田の脛は滑らかなままだった。


 毛根破壊玉の照射を受けて以来、一本も生えてこない。


 剃る必要がない。


 除毛剤も要らない。


 朝起きて、脛を撫でる。


 つるり。


 それだけで、一日が穏やかに始まった。


 そして藤田は、ひとつだけ自分に許したことがあった。


 短パンである。


 もちろん、結社では履かない。


 あの日の成果は、生涯誰にも自慢しないと誓ったのだ。


 履くのは自宅と、休日の外出のときだけ。


 誰に見せるためでもない。


 ただ、膝から下を風が通り抜けていく。


 その感覚を、藤田は静かに味わっていた。


 長年、剛毛の下に閉じ込められていた脛が、ようやく外の空気に触れている。


 そう思っていた。


     ◇


「……露出が増えたからだな」


 藤田は、腫れた脛を見下ろして結論を出した。


 理屈は通っている。


 脛を出せば、蚊に狙われる。


 当然のことだ。


 藤田は短パンを畳み、衣装ケースの奥にしまった。


 翌日からは、長ズボンに戻した。


 これで解決するはずだった。


     ◇


 解決しなかった。


 長ズボンでも、刺される。


 椅子に座ると、裾が上がる。


 靴下との間に、わずかな隙間ができる。


 そこを刺される。


 寝ている間に、布団から出た脛を刺される。


 風呂上がり、脱衣所で体を拭いているわずかな間にも刺される。


 藤田は手帳を取り出した。


 刺された日付。


 時刻。


 場所。


 右か、左か。


 数。


 一つずつ、几帳面に書き留めていった。


 一週間。


 十日。


 半月。


 数は減らなかった。


 むしろ、右脛はわずかに増えていた。


「……なぜだ」


 藤田は手帳を閉じ、腕を組んだ。


 脛を出さなくても刺される。


 ならば、露出が原因ではない。


 では、何が原因なのか。


 藤田には、わからなかった。


     ◇


 その夜。


 藤田は居間で一人、ズボンの裾を捲り上げて座っていた。


 かゆみ止めを塗るためだった。


 そのとき。


 ぷうん、と小さな羽音がした。


 一匹の蚊が、ゆっくりと降りてくる。


 そして、藤田の右脛に止まった。


 藤田は、払わなかった。


 なぜかは、自分でもわからない。


 ただ、じっと見ていた。


 蚊は、何の障害もなく脛の上を歩いた。


 滑らかな皮膚の上を。


 遮るものは、何もない。


 蚊は迷うことなく、口を下ろした。


「……」


 藤田は、それを見つめたまま考えていた。


 そういえば。


 自分はこれまで、足を蚊に刺されたことがあっただろうか。


 腕なら、ある。


 首筋も、ある。


 だが、足は。


 脛は。


 物心ついてから今日まで。


 いくら記憶を探っても、ほとんど出てこない。


 なぜだ。


     ◇


 ふいに、遠い夏が蘇った。


 少年の頃。


 藤田は半ズボンで、草むらに座っていた。


 その頃にはもう、藤田の脛は濃かった。


 一匹の蚊が飛んできた。


 脛へ近づく。


 そして、毛の中へ入っていった。


 濃く、硬く、絡み合った毛の奥へ。


 蚊は、そこから出てこなかった。


 しばらくして見ると、蚊は毛の間でもがいていた。


 細い脚が、毛に絡め取られている。


 羽が、毛に押さえつけられている。


 抜け出そうとするたびに、さらに深く絡まっていく。


 やがて、蚊は動かなくなった。


 少年の藤田は、それを指でつまんで捨てた。


「また毛に虫が絡まってる」


 それだけだった。


 気にも留めなかった。


 そういうことが、毎年あった。


 夏が来るたびに。


 何度も。


 何度も。


     ◇


「……ま、まさか」


 藤田の声が、かすれた。


 脛の蚊は、まだ血を吸っている。


「私のすね毛が……」


 膝が、震えた。


「ずっと、守ってくれていた……?」


 藤田は、手帳を開いた。


 半月分の記録。


 すべて、脛。


 すべて、あの夜の後のこと。


 では、剃っていた頃はどうだったのか。


 藤田は長年、すね毛を剃り続けてきた。


 剃刀で。


 電動シェーバーで。


 除毛剤で。


 それでも、その頃に脛を刺された覚えは、ほとんどない。


 藤田は思い出した。


 朝に剃れば、夜にはもう存在を主張していた。


 休日に念入りに処理しても、数日後には何事もなかったかのように復活していた。


 あれほど、すぐに戻ってきていたのだ。


 剃ったところで、防御壁が失われていた時間は、ほんのわずかだったのだろう。


 藤田は、そう考えた。


 そう考えると、すべてに説明がついた。


 そして、もう一つ。


 かつて自分は、あの毛をこう感じていた。


 毛というより、意志を持った何かだ、と。


 剃っても剃っても、生えてきた。


 あれは。


 ――あれは、私を守ろうとしていたのではないか。


 藤田には、もうそうとしか思えなかった。


     ◇


「なんてことだ」


 藤田は、両手で顔を覆った。


 あの夜。


 脱衣所で。


 ズボンの裾を膝まで捲り上げ。


 誰もいない空間に向かって「見ろ」と叫び。


 踊った。


 長年自分を守り続けてきたものを失った、その日に。


 自分は、喜びの舞を踊っていたのだ。


「私は、なんてことを……」


 あの実験で、藤田は自ら脛を差し出した。


 事故を装い。


 角度を調整し。


 右足と左足に、均等に。


 誰に命じられたわけでもない。


 自分で選んだことだった。


 藤田は、顔を上げた。


 捲り上げた裾の下から、脛がのぞいている。


 妙に光沢のある、両脚。


 そこへ。


 また一匹、蚊が降りてきた。


 藤田は、払わなかった。


 払えなかった。


 この脛をこうしたのは、自分なのだ。


 ぷうん、という羽音だけが、静かな居間に小さく響いていた。


     ◇


 その夜、藤田は遅くまで眠れなかった。


 取り戻さなければならない。


 だが、どうやって。


 毛根破壊玉は、完全破壊を前提に作られている。


 毛根再生剤でも、再び生やすことはできない。


 そのことを、誰よりもよく知っているのは。


 その身で照射を受けた、藤田自身だった。


 一人では、どうにもならない。


 藤田は、暗い天井を見上げた。


 脛が、かゆかった。


残酷描写:すね毛に巻き付かれ悶え死ぬかの描写があります。


後日談第1話

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