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破られた注連縄

202X年9月26日(火)20:34


 神崎純也かんざきじゅんやは、もうひとつの世界を見つめていた。現実の陰画——漆黒の深淵。その粘りつくような水面は、こちら側のありふれた日常をゆがめて映し出す。蛍光灯に照らされた通勤の世界。缶コーヒーと自動販売機の世界。携帯電話と業務用パソコン、SNSの投稿、ショッピングモールの世界。その歪んだ、けれどどこか心地よい鏡の中に、純也は自分自身のぼやけた輪郭を見た。漆と灰の霞のほかに色彩を持たない、自分の目が自分を見返していた。だがその反射のセロファンのような表層のすぐ下には、光に満ちた宇宙がひしめいていた。鮮烈に輝き、生命力と悪意に溢れ、煮えたぎり、くすぶっている——純也の中にも、あらゆるものの中にも。そして電車が動き出すと、それもまた動き出し、核から噴出した多色の光の奔流となって、渦を巻きながら暴走していった。


 純也はさりげなく左右に目を走らせ、同乗者たちを観察した。目の前の暗い窓ガラスに、彼らの姿がぼんやりと映っている。見るからに疲れ切ったサラリーマンたち。スマートフォンに没頭する十代の若者、名門校の制服を着た者もいる。大人たちもまたスマートフォンに目を落とし、課金ガチャを回している。デパートやモールの紙袋を両手に抱えた人々。ちらほらと読書をする者。イヤホン、ワイヤレスイヤホン。ブリーフケース、リュックサック。


 ——また? 俺、ここに来たことなかったか?


 その思考が刃のように純也の意識を貫き、胃の奥にかすかな不快感を残した。彼は無意識に、荷棚から下がる吊り革の——プラスチックの持ち手ではなくその上の革帯を——握りしめた。だが一度深く息を吸い込むと、その力は緩み、体から緊張が抜けた。再び、安楽の中に。


 普段なら本を読みながら音楽を聴くところだが、今夜はただ頭を空っぽにしていたかった。腹の底でじわじわと膨らんでいく不安の塊を、無視していたかった。何しろ今夜は、守らないといけない予定がある。



202X年9月26日(火)10:12


「先週はシラバスに沿って、比較神話学の単元に入りました。ギリシャ神話のオルフェウスとペルセポネの物語と、古事記のイザナギ・イザナミ神話の比較を扱いましたね」


 純也はさっと教室を見渡した。まだ寝ている学生はいない。上々の滑り出しだ。


「今日はそこから少し視点を変えて、日本神話のもうひとつの物語——天照大御神と天岩戸の話を取り上げます」


 純也はブレザーのポケットからUSBメモリーを取り出し、教室のパソコンに差し込んで、事前に用意しておいたパワーポイントを立ち上げた。


「留学生の皆さんも含めて、おそらくこの話はすでにご存知だと思います。でもまあ、おさらいということで」


 黒縁の眼鏡越しに、もう一度教室を確認する。プロジェクターの虹色の光がレンズを照らしていた。数名の目がうつろになりかけているが、まあ想定の範囲内だ。


「かいつまんで言うと、天照の弟——荒ぶる神スサノオが、ある日度を越した悪ふざけをして、天照の大切な侍女を殺してしまいます。怒りと悲しみに打ちひしがれた天照は、もうこんな弟には付き合いきれないと、天岩戸に引きこもってしまうわけです」


 熱心にうなずく学生が数名。寝落ち確定がひとり、もう何人かが境界線上でふらついている。


「もちろん天照は太陽そのものですから、彼女が引きこもってしまうのは想像の通りあまり望ましい状況ではないですね。そこで他の神々は一計を案じて、岩戸の前で宴を開いて天照を誘い出そうとします」


 次のスライドに切り替えながら、純也は眠りかけた学生を引き戻す効果を狙って大きく咳払いをした。


「そういうわけで神々は岩戸の前で盛大に神楽を催します。その中心にいたのが天鈿女命——まあ、神様版のアイドルみたいなものですかね」


 自分のジョークに少し口元が緩む。数少ない純也のドライなユーモアセンスを理解してくれる学生たちと目が合った。


「それから八咫鏡を置いて、天照が出てきたときに自分の姿に目を奪われるようにした」


 次のスライドに移る。天岩戸の神話を描いた浮世絵が画面いっぱいに映し出された。


「結果、狙い通りにいきました。天鈿女命の舞に興味を惹かれた天照が岩戸からそっと顔を覗かせる。そして八咫鏡に映った自分の姿に見入って、洞窟の外に出てきたところを——他の神々がすかさず注連縄で入口を封じた」


 純也は一拍間を置いてから次のスライドに進んだ。陽光の下で人々が踊る、明るいストックイラストが映る。


「……かくして、世界に日の光が戻った。前回の授業よりはだいぶ救いのある結末ですね」


 どうやらプレゼンの視覚的な演出が功を奏して、寝かけていた学生たちも一時的に復活したらしい。この勢いに乗らなければ。


「古事記や日本書紀の他の神話と同じく、この話にもその起源についてさまざまな説があります。ですが今日はそこではなく、この物語の持つ意味のほうに焦点を当てて議論してみたいと思います」


 純也の視線は自然と、教室の窓から差し込む秋の朝の淡い日差しに浸された空席の列に向かった。薄暗い教室とプロジェクターの鋭い光に対する、穏やかなコントラストだ。


「日食や火山噴火の比喩だとする解釈はよく知られていますが、今日はもう少し心理学的な捉え方に絞って話を進めたい。誰か意見のある人は?」


 最前列に座る二年生の久慈川くじかわが、勢いよく手を挙げた。聡明で、授業の内容にもよく食いついてくる学生だ。自分の考えを臆さず発言できる積極性もある。年齢が近い大学生を相手にこうした授業を進めるにあたって少なからずプレッシャーを感じている純也にとっては、ありがたい存在だった。


「はい、久慈川さん、どうぞ」


「はい。えっと……私が思ったのは、わりとストレートな解釈なんですけど、天照の『日の光』って、たぶん幸福とか生きる喜びの象徴ですよね。いわば生命の光というか。で、暴力とか死みたいなネガティブなことが起きると、その幸福が洞窟に隠れてしまう」


 少し間を置いて、考えをまとめる。


「でも、踊りとかお祭りとか楽しいことがあると、その象徴的な生命の光がまた洞窟から出てきて、世界に戻ってくる……みたいな」


 純也は軽く手を叩いた。


「素晴らしい解釈ですね。この神話の象徴的な読み方としては非常にオーソドックスで、根拠のしっかりしたものだと思います。ただし、この解釈ではふたつの重要な要素が見落とされています」


 久慈川はゆっくりとうなずいた。新しい視点を受け入れる準備ができている表情だ。


「それは言うまでもなく——鏡と、注連縄です」


 今度は複数の学生がうなずいた。いい兆候だ。


「鏡については、自己だとか自我だとか、いくらでも解釈の余地がありますが、そこに深入りする前に、まず注連縄のほうに注目してみましょう」


 次のスライドに切り替える。出雲大社の巨大な注連縄の写真が映し出された。


「西洋の比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』の中で、この注連縄について興味深い指摘をしています。要約すると——注連縄がなければ、英雄は無意識の冥界で得た不可欠な知識を持ち帰らず、目覚めの世界——つまり意識の世界に自ら戻ってくることはない。幻想の第二の世界に留まることを選ぶだろう、と。


「そうなれば円環は断ち切られ、旅は四分の三で終わり、意識の世界も無意識の世界も救済されない。つまり注連縄とは『外からの救済』——英雄を目覚めの世界に引き戻し、無意識の世界で得た知識によって両方の世界を救うという使命を全うさせるための、拘束力なのだと」


「あの……先生?」


「はい、高木たかぎくん、どうぞ」


 後ろの席に座る男子学生の高木が手を挙げた。普段は寝ているかスマホをいじっているかという印象だが、純也は彼の分析力を侮ってはいなかった。レポートを読む限り、本人が思っている以上に理解力のある方だ。


「意識の世界とか無意識の世界とか、話としてはわかるんっすけど、実際に証明できるもんなんすか? いや別にディスってるわけじゃないんすけど、そのジョーゼフ……キャンドルって人、普通に考えすぎじゃないっすか? 昔の人はただの物語として語ってただけかもしんないし、本気で信じてた人だっていたわけっすよね?」


 高木くんらしい率直な疑問だ。純也はこういう瞬間をむしろ歓迎していた。


「高木くん、実にいい指摘ですね。というか、大半の人はおそらく同じことを思うんじゃないかな。でもそうだとすると、そもそも何かを分析すること自体に意味がなくなってしまわないか? もし本当にただの昔話なら、なぜ人はわざわざこういう物語を何千年も語り継いできたのでしょう」


 高木はカクカクとうなずいた。完全には納得しきれていないが、教師に楯突いてしまったことへの後ろめたさのほうが先に立っている。


「あ、はい、たしかにそっすね。すんません」


「いや、全然謝ることじゃないですよ。提示された考えに疑問を持って、自分の頭で考える。それはむしろいいことです。ここは学びの場だからね」


 高木は安堵したように素直に笑った。


 ふとその時、純也は気づいた。教室全体が完全に集中している、あの稀有な瞬間が訪れていることに。学生たちの視線が自分に注がれ、次の言葉を待っている。だがそこに、不安のささやきが割り込んできた。最悪のタイミングで、彼はある暗い秘密を思い出してしまった。自分だけが知っていて、起きている間ずっと必死に忘れようとしているもの。


 ——また。


「理論はさておき、個人の考えを言わせてもらうとね。もし天照が世界の喜びや幸福を象徴していて……岩戸の外の世界が意識の世界、つまり現実だとすれば——じゃあ無意識の世界、あの洞窟の中の闇は、一体何なのか」


 純也は一瞬間を置いて、黒縁の眼鏡を鼻の上に押し上げた。プロジェクターの反射がレンズを白く光らせ、学生たちから完全に目を隠した。


「俺に言わせれば——底なしの暗黒。何も逃れることのできない、深淵の虚無だ」


 それまでの穏やかな教師としての仮面も、学術的な客観性の装いも、すべてが一瞬で剥がれ落ちた。純也の顔は無表情な石の仮面に変わっていた。


 この唐突な変貌に、教室に不穏な緊張が走った。椅子の中で居心地悪そうに身じろぎする学生、怪訝そうに眉をひそめる学生。


 だが純也はまるで意に介さず、続けた。


「だからこそ、注連縄はあらゆる場所に張り巡らされている。天照の光を現世に留めておくためだけじゃない。人間が洞窟の闇の世界に迷い込まないための——結界だ」


 純也は無意識に拳を握りしめた。激昂の波が押し寄せてくるが、それはその下に横たわる底知れぬ恐怖の薄い覆いに過ぎない。にもかかわらず、声は静かなままだった。ただ、熱を帯びていた。


「——君たちは一度でも不思議に思ったことはないのか。なぜこの国には、これほど多くの注連縄が張られているのか、と」


 その問いは霧のように教室に立ち込め、居合わせたすべての学生の心に深い不快感を植えつけた。そしてその不快さの核にあったのは——客観的にはばかげた問いであるにもかかわらず、その瞬間、ほとんど全員が本気でそれを自問せずにいられなかった、ということだった。


「……っと、またいつもの脱線癖が出てしまいましたね。失礼しました」


 純也は人当たりのいい笑顔を浮かべ、捨てたはずの仮面を捨てたときと同じ速さで取り戻した。学生たちの間に、集団的な安堵のため息が漏れたように見えた。


「たしか今週の課題は『比較神話学概論』の第三章だったと思うので、そちらの話に移りましょうか」


 完全にいつもの温和な講師に戻った純也は、残りの授業を滞りなく進めた。シラバスに忠実に、もう不穏な問いを投げかけることはなかった。



202X年9月26日(火)16:07


 目の前のドアの冷たい金属ノブを掴んだ瞬間、背筋にぞくりと悪寒が走った。ノブをひねり、ドアを押し開ける。薄暗い店内に踏み込むと、たちまち煙の混じった空気が肺に流れ込み、挽きたてのコーヒーとカビた布張りの匂いが入り混じった。


 この喫茶店に来るのは初めてだったが、純也はすぐに居心地の良さを感じた。店名は「ガイアナ」。70年代の高度成長期から生き残った純喫茶で、かつての洒落た内装はとうに朽ちているが、それがかえって味になっている。分煙という概念は存在せず、店内のどこでも煙草を吸い放題。それに加えて、原油のように黒く濃いハウスブレンドが名物で、スーツ姿のサラリーマンや寝食を忘れたクリエイティブ分野の人間たちに愛されている。純也が今日ここを訪れたのは後者の一人に会うためで、その人物は店の隅で古びたマンガの単行本に夢中になっていた。


「悪い雄介、採点がちょっと長引いた」


 純也は挨拶もそこそこに、友人の向かいの空席に腰を下ろした。森山雄介もりやまゆうすけは年代物のマンガから顔を上げた。


「え、遅かったの? 別にいいよ、俺、ずっと暇だし」


 雄介は腕時計もしていない左手首をちらりと見やりながら笑った。


「ハウスブレンド頼んどいたから。まだ温かいと思う」


 雄介がもう一つの黄ばんだ磁器のカップを指差した。真ん中分けの中途半端な長さの髪はブリーチして金に染めてあるが、根元の黒がだいぶ伸びてきている。赤いスタジャンの下に「VERY COOL NEET」とプリントされた黄色いTシャツ。スタジャンのポケットから煙草と安い半透明のライターを取り出して、一本くわえると火を点けた。


「吸う?」


「吸わないの知ってるだろ」


「うん、知ってる」


 雄介はニヤリと笑いながら、白い煙を吐き出した。


「で……今夜の話なんだけど」


「そうそう。じゃあ早速なんだけどさ、ちょっと気になってるスポットがあって」


 雄介は一服つけてから続けた。


「いわゆる、なんていうか、パワースポットってやつ」


「パワースポット? というと?」


「廃墟のショッピングセンターなんだけど、なんか出るらしいんだよね」


「ああ、それは聞いてる」


 純也はゆっくりうなずいた。


「あ、そうだっけ。まあとにかく、メンバー集めて肝試しやろうと思って」


「肝試し?」


「いやさ、俺らの歳でやるもんじゃないのはわかってるんだけど、新しい漫画のネタが欲しくてさ。今オカルト系が流行ってるし、実際のスポットからインスピレーション貰えたらなって」


 雄介は煙草の危ういほど長く伸びた灰を灰皿に弾き、その拍子に灰の欠片がスタジャンの袖に散った。


「それにお前の都市伝説の論文にも使えるんじゃないかと思って」


 純也はようやくコーヒーに口をつけた。強烈だが奥深い苦味が舌を襲う。


「まあ確かに使えると思う。いいよ、付き合うわ」


 雄介はいたずらっぽく笑いながら、まだ火のついた煙草から灰の塊をもう一度弾いた。


「よし、決まり。あとさ、矢倉さんも誘ったら来るって」


「矢倉さん……?」


 純也はコーヒーを啜りながら、その名前を反芻した。


「ほら、先月観に行ったバンドでギター弾いてた人。ファジー・ダスターズだっけ。なかなかいい感じの人でさ」


 不意に純也の頭に浮かんだ。矢倉白根やくらしらね。口元に意味ありげな笑みが浮かぶ。だが何も言わなかった。


「なんだよ、その顔」


 純也は黙ったままだ。何も言う必要はない。


「おい、言えよ」


 雄介は自分でも照れ笑いを抑えきれない様子でそう言った。


「いや、別に」


 純也はしれっとした顔で言った。


「お前って……わかりやすいよな」


「勘弁してくれよ」


 雄介がおどけて身振りを交えた拍子に、煙草の吸い殻がシャツの上に落ちた。しばらく慌てて手で払い、ようやく灰皿に収めて揉み消した。


「で、入り方にちょっとしたルールがあるらしいんだ。まあ、おまじないみたいなもんだけど。深夜零時に合わせなきゃいけないから、まだ時間はある。集合場所はあとでLINEするわ」


 雄介はもう一本煙草を取り出して唇にくわえた。



202X年9月26日(火)23:11


 最寄りの街灯の薄い影の中で、雄介の顔を照らしているのはスマートフォンの青白い光だけだった。それでも純也は道の向かい側から雄介を認め、音もなく近づいた。


「よう」


「うわっ……なんだ純也か。びっくりさせんなよ」


 純也はさらりと肩をすくめた。


「矢倉さんは?」


「10分くらい前にもうすぐって連絡あったから、そろそろ来ると思うけど」


 雄介はそう言って視線をスマートフォンに戻した。


 果たして、二分も経たないうちにひとりの女性が近づいてきた。黒いパーカーの上にタイトな茶色の革ジャン、ジーンズ。ストレートの黒髪をボブに切り揃え、細い三日月のような輪郭の顔。背中にはギターケースを背負っていて、リハーサルから直接来たのだろうと純也は察した。


 その隣に、グレーのピーコートに黒のタートルネックを着た長身の男が並んでいた。整った顔立ちに銀色のような薄い金髪。首からは高そうなカメラをぶら下げている。


「あ、矢倉さん、来てくれたんだ、ありがとう。で、えーと……そちらは?」


 雄介は連れの男の存在に明らかに動揺していたが、懸命にそれを隠そうとしていた。


「初めまして。黒川くろかわフリッツです。ドイツのハーフなんですけど、日本語しか喋れないんで、まあ……言葉の壁とかは全然ないんで」


 雄介は大げさにうなずいた。


「あ、そうなんだ。よろしくよろしく。ふたりはどういう知り合い?」


 純也は思わず苦笑した。


「黒川くんとは大学が同じで、たまにファジー・ダスターズのライブを撮ってくれてるの。写真やってる人だから、いい撮影の機会かなと思って声かけた」


 フリッツはそれを裏付けるようにうなずいた。


「ところで、お名前は」


「あ、そうだよな。俺は森山雄介で、こっちが友達の神崎純也。矢倉さんとは先月のライブで知り合ったんだ。神崎は論文の調査で、俺は漫画のネタ探し」


「なるほど。お邪魔じゃなければいいんですが」


 フリッツは少し申し訳なさそうに言った。


「いやいや、全然。大歓迎だよ。あ、そうだ、そろそろ出発しないとまずいな。タイミング合わせなきゃいけないから。歩いて何分かかかるし。目指すのは泉木いずみぎ神社ってとこなんだけど」


 四人は目的地に向かって歩き始めた。ぎこちない会話がぽつぽつと交わされる。数分もしないうちに、純也と雄介はフリッツと白根の後ろに取り残され、雄介が不安そうに純也との距離を詰めてきた。


「おい純也、ちょっと」


 前のふたりに聞こえないよう、必死で声を抑えている。


「どうした」


「矢倉さん、イケメン連れてきたんだけど」


「それが?」


「……俺より全然背高いんだけど」


 純也は思わず鼻で笑った。


「いや、笑い事じゃないって」


「はいはい。いいからさっさと行こうぜ、言い出しっぺ」


 白根がふたりの会話に気づいたのか、振り返った。


「どうしたの、もしかしてビビってんの?」


 切れ長の顔にうっすらと笑みが浮かんでいる。


「いや違くて、入り方の手順を純也に説明してただけ」


「入り方の手順?」


 フリッツが聞き返した。


「そう。あのさ、これを成立させるには、モールの正面入口とか裏口から普通に入っちゃダメなんだよ。噂だと、心霊現象が起きるには泉木神社を通らないといけないらしい」


「なんでまた?」


「都市伝説のルールっていうか……行けばわかるよ」



202X年9月26日(火)23:45


「着いたぞ。ここが泉木神社」


 四人は通りを渡り、かつては地域の中心だったであろう、今は不気味に静まり返った廃墟——泉木神社の入口に立った。


「これが……神社?」


 白根は気だるそうな無関心を装っているが、その下に苦い不安の種が隠れていた。


「まあ、昔はね。なんでも25年くらい前に管理してた一族の中で揉め事があって、兄弟が一人殺されちゃったんだと。それ以来ずっとこの状態で、呪われてるなんて言う人もいる」


 ——呪い。


 純也はその言葉を口の中で転がした。最近どこかで聞いた気がするのだが、思い出せない。そしてまた——あの感覚が。


「なるほど……道理でこうなってるわけだ」


 フリッツは目の前の光景に不安を覚えつつも、同時に惹きつけられているようだった。


 崩れかけた石段の上に、苔に覆われた石の鳥居が立っていた。蜘蛛の巣のような亀裂がその全体に走っている。鳥居自体は珍しいものではないが、ここまで荒廃したものを目にすることは滅多にない。しかし何より異様だったのは、そこに掛けられた注連縄だった。


 注連縄は真ん中から真っ二つに断ち切られていた。両端が鳥居の上から力なく垂れ下がっている——まるで病んだ獣の触手のように。


 フリッツが反射的にシャッターを切った。


「ちょっと、神社で写真撮っちゃダメでしょ」


 白根の声に、隠しきれない不快感がにじんでいる。


「まあ……ここにはもう、そういうルールは適用されないんじゃないかな。知らんけど」


 純也は決然とした口調で言ったが、その下には恐怖と不安のどろどろとした塊が渦巻いていた。


「で、これからどうすればいい?」


 雄介が歯の間から息を吸い込んでから、説明を始めた。


「やることは簡単だ。四人全員で、ちょうど深夜零時にこの鳥居をくぐる。普通の神社と同じで、敷居を踏むのは絶対にダメだ。一歩で跨いで通る。そのあとは境内を抜けて、モールの裏の駐車場に出るだけ」


「なるほど、それだけなら確かに」


 フリッツはそう言いながら、腕のシルバーの時計に目を落とした。


「今、11時52分……」


 雄介がスマートフォンを取り出して確認する。


「だな……あと8分」


 四人は互いに不安げな視線を交わしながら、それぞれの時計を凝視した。


 23:56

 23:57


 背筋を悪寒が走り、胃の奥に恐怖の塊が結ばれた。前にもここに来たことがある——同じカウントダウン、同じ時計の針が逆行していく感覚、脳裏の暗い人形劇の中で永遠に繰り返されている。始まる——


 23:58


 ——また。


 前にもここに立った。咲季さきが消えたあの夜に。そして今、再びここにいる。鳥居の向こうは茫漠たる虚空——無そのものが歪んだ存在感を放ち、空虚のオーラが鏡の世界の前兆として滲み出している。


 23:59


 もう一度、あちら側に渡る時が来た。


「よし、行こう」



202X年9月27日(水)00:00


 純也は敷居を跨ぎ、日常世界から異世界へ渡った。その瞬間、空気が凝固したように感じた。周囲の木々の葉は九月末の夜風にかすかに揺れているのに、その涼しさは肌に届かない。むしろ自分が時間と空間の中で凍りついて、白黒の映写機を通して自分自身の知覚を眺めているような——動くことも、自分の思考や感覚に触れることもできないような感覚だった。純也はその不快な思考を振り払った。気のせいに決まっている。


 周囲を見回すと、同じ三人の姿があった。目に見えて変わったものは何もない。


 長年の放置により、境内はほとんど自然に呑み込まれていた。参道の石畳を雑草が覆い尽くしている。本殿はおおむね原形を留めていたが、雨漏りで木材が腐り、穴が開いている箇所がいくつかあった。手前の木柵は倒壊し、朽ちた寂寥感が漂っている。そしてそれ以上に——現代の日本で神社が完全に打ち捨てられているという事実そのものが、深い不穏さを醸し出していた。


「この木立を抜けて丘を下れば、セリオンモールの裏手に出るはずだ」


 雄介が本殿の裏の木々を指差した。


 四人は指示に従い、まばらに生えた白い細木の間を抜け、手入れされていない背の高い草に覆われた急な斜面を下った。斜面の下にはモールの裏駐車場への、二メートルほどの段差があった。


 最初に白根が飛び降りた。重そうなギターケースを背負っているにもかかわらず、猫のような身のこなしで着地する。フリッツがそれに続き、同等の身軽さを見せた——ただし白根ほどの優雅さはない。次に雄介が、白根やフリッツと同じように飛び降りようとしたが途中で断念し、背後の崩れかけたコンクリート壁に手を伸ばして——結果、壁の表面で手を擦りむいただけだった。足が地面に着いた時にはよろめいて、痛そうに声を上げた。


「大丈夫? 手、血が出ていますよ」


 フリッツが眉をひそめて心配する。白根も何も言わなかったが、同じように心配そうな顔をしていた。雄介は白根をちらりと見て、手元に視線を戻した。


「え、これ? 全然平気、なんともない」


 無理に笑ってみせる雄介に、純也はため息をつかずにいられなかった。純也は慎重に段差の端から体を下ろし、軽い衝撃で着地した。


「あっちだ」


 雄介がいつになく真剣な声で、かつてのセリオンモールの立体駐車場へ続くスロープを指差した。


「あそこから入れる」


 使われなくなった駐車場には不気味な静寂が濃い霧のように立ち込めていた。かつては新しかったであろう舗装は、とうにひび割れて浸食され、亀裂の間から半分枯れた草が顔を覗かせている。歩きながらの気まずい雑談もとうに途絶え、四人の間には重苦しい沈黙が降りていた。車専用だったはずのスロープを上がりながら、フリッツがその沈黙を破った。カメラで時折シャッターを切りながら。


「廃墟のショッピングモールの隣に廃神社って、おかしいと思わない?」


 白根がフリッツに奇妙な視線を投げたのを、純也は見逃さなかった。あの目配せの意味がわからない。


「まあ、いわくつきの土地なんだろうな」


 純也がさらりと言うと、雄介が驚いた顔をした。


「なんでわかるんだよ」


「経験則だよ。同じエリアで商売とか事業とかが立て続けに失敗すると、呪われてるって話が後からついてくるもんだ。実際けっこうあることなんだよ。このモールの失敗も、裏の神社の事件と直接関係があったとしても全然おかしくない。殺人事件まで起きてるわけだし。商売の失敗が不動産価値を落として、それがまた呪いの噂を固定化する」


「へえ……詳しいんだね」


 白根が興味を示した。あるいは興味があるふりをした。純也には、どこか試されているような感覚があった。


「さすが純也教授だな。専門家の解説要員として連れてきたんだから」


 雄介は作り笑いを浮かべつつ、目だけは純也を睨んでいた——もっとも、それすら本気で怒っているというよりはじゃれているような感じだが。


 スロープを上りきって立体駐車場の空洞に足を踏み入れた瞬間、この場所の異常さが身に染みた。そもそも駐車場というのは愉快な空間ではないが、真夜中に、車の一台もない、人の気配が一切ない空間に立つと、その不快さは10倍にも膨れ上がる。加えて、純也はすぐにおかしいことに気づいた。


 ——照明。照明が点いている。


「あれ、変だな」


 フリッツが先に口にした。


「ここ廃墟だろ……誰が電気代払ってるんだ?」


 雄介が難しい顔をした。


「それはたしかに謎だな。消し忘れとか……あるかな?」


 だが純也は、それがありえないことを知っていた。前に咲季と来た時には点いていなかった。誰かがその後につけたに違いない。


「ブレーカーを落としてなかったら、どこかの回路から電力が流れてきてる可能性はあるかもな」


 でたらめだったが、純也自身が驚くほど自信に満ちた口調で言えた。他の三人もとりあえず引き返すほどではないと判断したようだ。


 照明だけではなかった。駐車場全体がやけに綺麗だ。落書きもなければ、コンクリートの崩壊もない。今朝まで普通に使われていたと言われても違和感がないほどだった。


 果てしなく続くかに思える回廊を不安げに進んでいると、不意にある英語のフレーズが純也の脳裏を貫いた。


 ——リミナルスペース。


 どこで聞いたのか思い出せないが、以前にも考えたことがある。一瞬だけ、純也はこの場所にひとりきりだった。なぜここに来たのか、どうやってここに来たのかもわからず、もう二度と出られないのかもしれないとすら思った。だがその思考はすぐに消え去り、三人の仲間がいる現実に戻った。やがてモール内部への入口に辿り着いた。


「ここだ……」


 雄介が声を震わせながら、壊れた自動ドアを指差した。半開きのまま固まっている——永遠に宙ぶらりんのまま。


 ——リンボ。


 また別の英語が脳裏をよぎった。どこで聞いたのか、なぜ思い出したのかもわからない。


 白根とフリッツがまた意味ありげに目を交わし、間髪入れずにフリッツが半開きのドアのシャッターを切った。乾いたシャッター音が静寂の中に反響する。


 雄介の顔がこわばり、じりじりとドアに近づいていく。抑えようとしている呼吸がどんどん荒くなる。


「私が先に行く」


 白根が何でもないことのように言い切って、壊れたドアの隙間を抜けて階段室に入っていった。フリッツが一切躊躇なくそれに続く。雄介が純也に不安げな目を向けてから、ぎくしゃくとドアをすり抜けた。純也も胸の鼓動がどんどん速くなるのを抑えきれないまま、落ち着いた足取りを装って後に続いた。


 閾をまたいだ一瞬——純也はまたひとりになった。首を巡らせると、またあの姿が見えた気がした。だが以前の彼女とは違う。歪んだレンズを通したように輪郭がぼやけて、不自然な速さでこちらに迫ってくる。


「咲季」


 そう言おうとしたが、言葉は喉につかえ、彼女が目の前に来る前に声にならなかった。


「純也、純也!」


 気がつくと、純也は階段室に戻っていた。ぼんやりとしている。雄介が三段上にいて、白根とフリッツはさらにその上に心配そうな顔で立っている。


「おい大丈夫かよ、ビビった? 別にいいけど、帰るならあの駐車場ひとりで歩いて戻ることになるぞ」


 雄介がひそめた声で、だが苛立ちを隠しきれずに言った。


「いや……大丈夫。悪い」


 雄介の眉間の皺がわずかに緩み、純也も他の三人とともに階段を上り始めた。二フロア分上がって、ようやくモールの入口に出た。



202X年9月27日(水)00:01


 階段を上がると、三階建てのビルの二階に出た。このくらいの規模のモールを巨大と呼ぶ者はいないだろうが、完全な空白と、それを包む暗闇が、実際の面積以上の広がりを感じさせていた。


 四人がここに来たのは肝試しのためだ。このモールはその期待を裏切らなかった。もっとも不穏だったのは暗闘ではなく——とうに捨てられたはずの看板の、まだ灯っている光だった。


「嘘だろ、あれ見ろよ、早速だな」


 雄介がパニック気味に声を上げた。一番手前の家具店を指差している。近くの服飾店から持ってきたと思しきマネキンが、展示用のソファに横たわっていた。その腕が、こちらに向かって伸ばされているように見える。


「ただのいたずらでしょ、どう見ても」


「いたずら?」


「有名なスポットなんでしょ? 前に来た人が後から来る人を脅かすために置いたんだよ、どうせ」


 白根は淡々と言った。


 雄介は胸に手を当てて深呼吸した。


「だよな、悪ふざけに決まってるよな……ははは」


 フリッツが雄介の空回りした笑いに苦笑した。


「ここに来ようって言い出したの、森山さんじゃなかったですか?」


 フリッツはそう言いつつ、カメラを構えてマネキンを撮った。


「いやべつに、俺は心霊のプロでもなんでもないし。漫画のネタが欲しかっただけで……」


「もう十分ネタは集まったんじゃない?」


 白根がそう茶化すと、三人の間にぎこちない笑いが漏れた。


「純也はどうなんだよ、怖くて声も出ないのか?」


 雄介が話題の矛先を上手くこちらに転がした。


 ——のっぺら坊。


 その言葉が刃物のように意識を切り裂いた。


「のっぺら坊みたいだな」


 純也は虚ろな声で呟いた。


「……え、のっぺら坊って、あの?」


 白根の声が、一瞬前よりも鋭く尖った。


「おいおい、俺だってそこまで単純じゃないぞ。ただのマネキンだろ」


 雄介が苦笑混じりに言った。


「ああ……ただのマネキンだよな。いたずらの」


 純也はゆっくりと答えたが、視線はマネキンから一瞬も外れなかった。


 雄介が引きつった笑いを浮かべるが、純也の表情は石のままだ。


「先に進もう」


 純也はユーモアの欠片もなく言った。


「そうだな……噂によると、三階のセリオンシネマに入って、七番のシアターの最後列に座ると、次にどこへ行けばいいか映像が流れるんだと」


 雄介はどこか興奮気味だった。ただしその興奮には、伝染性の恐怖が混じっていた。


「えらく具体的だね。まあいいけど」


 白根がさっきまでの鋭さを引っ込めて答えた。


「またいたずらの仕込みでしょ。でもせっかく来ましたし、いいんじゃないですか」


 フリッツが付け加えた。


 純也はモールの二階を見渡し、一番近いエスカレーターに目をやった。三階に続いていて、その先に、かつてセリオンシネマだった空洞が眠る獣のように口を開けている。通常の階段はない。


「じゃあ先にどうぞ」


 白根が半笑いで雄介に言った。


「なんで俺! ……まあ、言い出したの俺だしな」


 雄介は渋々認めて、エスカレーターの方向に歩き出した。


 通路を進みながら、両側に並ぶ店舗の中が否応なく目に入った。大半は空っぽで、ガラクタがいくらか散乱し、落書きのある店もある。だがいくつかの店には、驚くほどの量の商品が残されていた。


 この沈黙の商業墓標を歩く間、純也の耳にフリッツのシャッター音が届いていた。電子的な精密音が、まるでワイヤーのように脳を貫く。フリッツの方を見て、次にカメラの向いている左手を見た。


 フリッツが撮っていたのは、高級そうな衣料品店だった。中に数体のマネキンが立っている。装飾なし、素体のまま——そして全部、首がない。


「これも悪ふざけのうちなのかな」


 フリッツが乾いた声で言った。


 気まずい沈黙。白根がそれを断ち切った。


「行こう」


 全員が無言で従い、不気味さを増すマネキンの演出を背後に置いて、エスカレーターへ向かった。黒い金属の直線が、不吉な威圧感を放ちながらそびえている。


 フリッツが最初にエスカレーターに近づき、ローアングルの写真を一枚撮ってから、慎重に最初の段に足を乗せた。数秒待ったが、動く気配はない。


「まあ、止まってるよな。当然か」


 フリッツは素っ気なく言って、歩いて上り始めた。他の三人も黙ってついていく。止まったエスカレーターを歩く違和感——体が無意識に期待する前進の力がないことへの、あの微妙な足取りのぎこちなさ。純也が最後に乗った。


 ——リミナルスペース。


 また、その言葉が来た。最初の一段に足を乗せた瞬間、頭蓋を食い破るように侵入してきた。完全に止まっているわけではないが、全身のあらゆる分子に重石を乗せられたように、恐ろしく遅い。手すりの黒いゴムが手の中で粘性のタールのように溶け出し、一方でステップの金属の溝は鋭利に足裏に食い込んでくるようだった。


 無理やり足を動かした。体は少しずつ軽くなるが、脚の筋肉は弱り、膝が震えている。一段、また一段と、足が順応するまで自分を押し続けた。他の三人はとっくに上に着いてどこかに消えていた。自分だけがひとりで這い上がっている。まず数分に感じ、やがて数時間に感じた。目の前に無限に段が現れ、一歩踏み出すごとに新しい段が生まれてくる。やがてエスカレーター以外何も見えなくなり、そしていずれにそれすらも消えた。果てしない漆黒のトンネルを、音もなく移動しているだけ。


「おい純也……純也!」


 雄介のひそめた怒りの声で、純也はまた現実に引き戻された。三階にいた。止まったエスカレーターの前に立っている。


「何してんだよ!」


 混乱したまま、純也は頭を振って霞を払おうとした。


「悪い、なんだかわからないけど……一瞬、別のところにいたみたいな感覚で」


 雄介の目に本気の苛立ちが光った。


「お前さ、いい歳してこの悪ふざけに混ざろうとしてんの? 一応先生なんだろ……助教? なんだっけ」


「ティーチング・アシスタントの代講だよ……でもふざけてるんじゃない。マジでさっきからおかしいんだ、ここに戻って——ここに入ってからずっと、変な感じがしてて。心配かけてごめん」


 雄介の目の怒りが薄れた。純也が本気で言っていると気づいたのだ。


「……気のせいだよ、こんな場所だからさ。やっぱり来ないほうがよかったかな。なあ、引き返さないか」


 雄介が振り返ってふたりに声をかけた。


「いや、大丈夫だ。映画館に行こう」


「でも——」


「大丈夫だって。映画館に行きたいんだ」


 純也は冷たい決意を湛えた目で雄介を見据えた。その確信が、電流のようにふたりの間を走った。


「……わかったよ。でもまたボーッとすんなよ、マジで怖いから」



202X年9月27日(水)00:01


 白根とフリッツはすでにセリオンシネマの入口を調べていた。雄介と純也が追いつくと、ロビーはほとんど暗闇だったが、壁沿いの一列の間接照明だけがかすかに空間を照らしていた。黒と紫のカーペットにはあちこちにシミがあり、売店は完全に空になっている。カウンター近くに散らばったポップコーンだけが、ここが何だったかを示す唯一の痕跡だった。壁にはいくつかのフレームがかかり、大半は空だが、数枚のポスターがまだ残っていた。アニメキャラクターの等身大パネルも置きっぱなしになっている——ただし頭部は取り除かれていた。


「そろそろパターンが見えてきたな」


 フリッツがそうつぶやきながらシャッターを切った。


「ここからシアターへの通路があるな。七番って言ってたよね」


「ちょっと確認する」


 雄介がスマートフォンを取り出して、すぐに手を止めた。


「……圏外だ。お前らは?」


 他の三人も確認する。


「ダメだ。黒川くんは?」


 白根がフリッツに聞いた。


「こっちも入らない」


「純也は?」


 純也がポケットからスマートフォンを出した。


「電源落ちてる」


「マジか……まあ、しょうがないか」


 雄介が言いかけて、急に声を上げた。


「ここまだ一度も——いや待て、なんだこれ?!」


 雄介の顔が困惑にゆがんだ。


「俺のスマホ、まだ0時1分って表示されてる……もうせめて30分くらいは経ってるだろ?」


 白根もスマートフォンで時刻を確認した。


「ほんとだ……おかしいね」


 どこか取り繕ったような口調で言いながら、フリッツにちらりと目をやった。


 フリッツは白根と視線を合わせたが、何も言わなかった。


「映画館に入る」


 純也はそう告げると、七番と書かれたシアターに向かって歩き出した。かつてチケットもぎりが立っていたであろう壊れた台を、夢遊病者のように通り過ぎていく。


 背後で他の三人が自分の名前を呼んでいるのをかすかに意識しながら、純也はシアター七番のドアを引き開けて、中の闇に踏み込んだ。階段を上って最後列の中央に腰を下ろした。座った瞬間、スクリーンに映像が投影され始めた。どこから、どうやって、なぜかは見当もつかないまま。


 映像に映っていたのは、ひとりの若い女性だった。スクリーンを——まるでガラスの檻のように——必死に叩いている。輪郭はぼやけ、歪み、次元と次元の間に引き裂かれるように揺らいでいる。現実とその空虚な反映の、境界に閉じ込められた存在。だからこそ、この女性が咲季であると気づくまでに少し時間がかかった。


「純也? 純也なの? 助けて、閉じ込められてるの!」


 彼女の声がシアターに響いた。ノイズの層に埋もれ、劣化したテープを再生したように歪んでいる。


 ——やっぱりそうだ。


 あの夜、咲季が消えたあとにこちら側に現れたものは、彼女ではなかった。彼女らしくない振る舞いをしていたし、何か悪意のある目的を持って動いているようだった——その正体は純也にも掴めなかったが。警察は本物の咲季を見つける役に立たなかった。それどころか純也をストーカー扱いしかけたのだから、いっそう堪えた。ストーカー行為やハラスメントを何より嫌悪する強い正義感の持つ純也にとっては、特に。だが今、一年かけてようやく彼女を見つけた。問題は——どうやって辿り着くか。


 映像の中で、泣きじゃくる咲季が何かを掴んだ。布か、織物のようなものに見える。純也は必死に頭を働かせ、目の前の映像と彼女の居場所を結びつけようとした。咲季がその布を引くと、カメラ側の何かに繋がっているかのようにピンと張った。カーテンだ。


 ——試着室!


 純也が弾かれるように立ち上がった瞬間、シアターの照明が点灯した。スクリーンの映像は、存在しない映画の歪んだエンドロールに切り替わっていた。


キャスト

神崎純也——虚ろな男

宮川咲季——空っぽの女

森山雄介——運命の尽きた友人

矢倉白根——祓い師壱

黒川フリッツ——祓い師弐

マネキン——肉に飢えた操り人形


スペシャルサンクス

自分が大切だと言っていたすべてを裏切り、

本心を偽り続けた神崎純也へ。

ようこそ、我らの虚ろな迷宮へ。

戻ってくるべきではなかった。

今度は、ここから出られない。


In Loving Memory

神崎純也

お前は取って代わられ、忘れ去られる。


 純也は周囲を見回した。自分が座っていた一席を除き、シアターの全座席がマネキンの首で埋め尽くされていた。一瞬、純也は凍りついた。全身が恐怖で麻痺し、遠くから自分自身を眺めているような——体を動かそうと必死に念じても、ただ見ていることしかできない感覚。次に響いた悲鳴が、自分の口から出たものだと気づくまでに少し時間がかかった。


 左側の入口から、首のないマネキンたちが次々と入ってきた。自分の頭を拾い上げ、取り付けながら純也のほうへ向かってくる。ようやく暴力的なアドレナリンが体を突き動かし、純也は右側の出口に向かって走り出した。階段を転がり落ち、すぐさま体勢を立て直して駆ける。左肩でドアに体当たりした。鈍い痛みが腕と鎖骨を走ったが無視した。抵抗はあったがドアは開いた——だが勢い余って体勢を崩し、反対側にいた雄介の上に倒れ込んだ。


「おい、何してんだこのバカ!」


 雄介が純也を押しのけた。純也はすぐに立ち上がって走り出そうとしたが、脳裏に「運命の尽きた友人」という言葉が閃いた。純也は雄介の腕を掴み、力任せに引き起こした。


「逃げるぞ、今すぐ!」


「は? なんで——」


「いいから来い!」


 純也は叫び、友人の手首を掴んで走り出した。


「わかった、わかったから!」


 ふたりは全力で廊下を駆け抜けた。背後から雄介の悲鳴が聞こえた。振り返ると、首をつけ直しつつある無数のマネキンが、後を追ってきていた。


 ふたりは死に物狂いで廊下を走った。一度足がもつれて転んだが、すぐさま起き上がって走り続け、ロビーに飛び込んだ。


「矢倉さん! 黒川さん! 逃げろ!」


 雄介が息も絶え絶えに叫んだ。白根とフリッツは驚きの色を見せたが、この異常な光景に対して当然あるべき衝撃や恐怖は見られなかった。白根が即座にギターケースを下ろした。


「黒川くん、出番だよ」


 まるで日常の業務連絡のように言いながら、ケースのジッパーを開け始めた。


「了解」


 フリッツがカメラを構え直した。もう一枚撮ろうとするかのように。


「目ついてんのか! そんな場合じゃ——は?!」


 雄介の恐怖が一瞬困惑に変わった。白根がケースの中から光を放つ大太刀を引き抜き、鞘を払ったのだ。一言も発することなく、マネキンの群れに向かって駆け出す。


 溶けた粘土が形を変えるように、マネキンたちが溶解し、異形の怪物へと再構成されていく。白っぽく、特徴のない、だが擬人的な——おぞましい形態。白根は空中に跳び、前転しながら優雅に着地し、先頭の一団を斬り裂いた。その動きは無駄がなく美しい。刀身には青い炎がまとわりつき、触れたマネキンを跡形もなく消し飛ばした。


 後方で一体のマネキンが浮き上がった。首が蛇のように伸び始め、のっぺらぼうの顔面が裂けて巨大な口を開く。裂け目の縁が鋭い歯に変わっていく。


 純也はロビーの奥に後退しながら、目を離せなかった。


 不意に、江戸時代の浮世絵に描かれた轆轤首の図が脳裏に閃いた。今まさに、それに近いものを目の前で見ている。


 伸びた首が白根の背後に回り込んだ。もう一体を斬り伏せた白根が振り向きざまに首を落とそうとしたが、刀に首が絡みつき、そのまま弾き飛ばした。体勢を崩した白根に、致命の一撃が迫る。


 だがその瞬間——古いフィルムの焼け跡のような虚無のエネルギーが弾丸のように放たれ、マネキンの頭部が消し飛んだ。立て続けに三、四発。フリッツのカメラから——いや、もはやカメラと顔が融合したかのような形態から——巨大化したレンズが虚空のエネルギーを充填し、マネキンの群れに撃ち込んだ。白根はその隙に宙返りで刀のもとに戻り、着地と同時に回転斬りを繰り出した。青い炎が弧を描く。


 一瞬、純也はこの異常な戦闘に見入っていた。だがすぐに思い出した。もっと急を要する用がある。


 シアターを飛び出した。


「純也、待て!」


 雄介が追いかけてきた。


「フリッツ、あのふたりを追って! ここは私が抑える!」


 白根が叫んだ。


 純也はそのすべてを無視して三階から飛び降りた。二階に着地。受け身を取り損ね、右脚と右腕に衝撃が集中した。激痛が全身を貫いたが、構わず立ち上がった。右足はほぼ間違いなく骨折していて、一歩ごとに鋭い痛みが足から脚へ突き抜ける。だがその痛みはどこか遠い場所のもののように感じられた。かつての衣料品店に駆け込む。


 もはやマネキンではなく、特徴のない灰色の人型シルエットがモールと店内を埋め尽くしていた。買い物客のように見えなくもない。だが純也が傍を通り過ぎると、じわじわとこちらに近づいてくる。ようやく——カーテンが無事な唯一の試着室を見つけた。映像で見たのと同じものだとすぐにわかった。


 一直線に向かう。


「純也、やめろ!」


 背後でフリッツの声が聞こえた。カメラの発射音と、うめき声の残響の合間に。


 純也はその警告を無視し、カーテンの前に辿り着いて、一気に引き開けた。


「咲季!」


 だが、そこに彼女はいなかった。


 代わりに映っていたのは、自分自身の怯えた顔だった。荒い息をつきながら、鏡に映った自分の恐怖の表情を見つめた。だが——鏡の中の自分は動いていなかった純也と違い、ゆっくりと表情を緩めた。まるで退屈したかのように。そしてその顔が、悪意に満ちた嘲笑の笑みに裂けた。


 ——どうした……純也。気に入らないか、自分の顔が。


 その瞬間、純也は理解した。缶コーヒーとスーパーマーケットと紙袋の世界、朝の通勤とスマホのソシャゲーと2LDKの世界、オフィスと学校とショッピングモールの世界を——破られた注連縄の封印を越えた瞬間に、すべて置いてきてしまったのだと。あの感覚がまた来た。ただし今度は、深淵を覗き込んでいるのではない。深淵の中にいるのだ。あるいは深淵のほうが、こちらに来たのか。


「お前は誰だ!」


 純也は後ずさりながら叫び、そのまま後ろへ転倒した。鏡にひびが入り、笑みを浮かべた反映がそこから、鏡そのものから抜け出てきた。膝をつき、純也の顔に近づいてくる。


「俺は神崎純也だ」

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