どこかで会った人
昼下がりのとある公園。遊歩道沿いにベンチが等間隔に並び、並木の影と日差しの帯が交互に地面に落ちている。柔らかな風が枝葉を揺らし、光の粒がちらちらと揺れ動く。小鳥が陽気な声を響かせながら舞い降りては、芝生の上で小さく踊った。
広場のほうからは、保育園の遠足だろうか、子供たちの弾む声が風に乗って流れてくる。その中に混じって、保育士の落ち着いた声が時折響いた。
彼はそのうちの一つのベンチに腰を下ろし、流れていく雲をただぼんやりと見上げていた。陽光のぬくもりが肌をやわらかく包み込み、まるで自分が草木になったかのような穏やかな気分だった。
――あっ。
ふと空から視線を外した、その瞬間だった。斜め向かいのベンチに座る男の姿が目に入った。
彼はすぐに顔を背けた。その男の顔に見覚えがあったのだ。
――しまったな。仕事をサボっているのが会社に知られたら面倒だぞ……。
向こうはこちらに気づいているのだろうか。
彼はそっと視線を送った。男は前方をぼんやりと見つめたまま、微動だにしない。どうやら、まだ気づかれていないようだ。
――チクられると決まったわけじゃないが、今のうちに退散したほうが……いや、待て。
彼は目を細め、男の顔を凝視した。
どこかで会ったのは確かだ。だが、どこで、どんな場面でだったかが思い出せない。どうにもスッキリしない気分だ。最初は取引先かと思ったが、どうも違う。ワイシャツに黒いズボン。ネクタイはしていないが、外しているだけかもしれない。仕事着にも私服とも取れる。年齢は自分と近そうだ。じゃあ、同級生だろうか? 大学? 高校? 中学? いや、小学校か……?
――あっ。
記憶の糸がようやく手繰れそうになった、その瞬間だった。男と目が合った。
彼が思わず微笑むと、相手も軽く口角を上げて会釈した。彼も慌てて会釈を返す。頬がわずかに引きつっていた。
どうやら、知り合いであることは確からしい。しかし、誰なのかはどうしても出てこない。取引先の誰かか。一度しか会っていないなら、忘れていても無理はない。ただ、もしそうならこちらから挨拶に行くべきだろう。
だが、もしかしたら知り合いではなく、同じように仕事をサボっているだけかもしれない。『いやあ、これは気まずいところを見られましたな。もしかして、そちらもですか?』――そんな含みのある笑顔に見えてきた。
――えっ。
考えを巡らせているうちに、男が立ち上がった。ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
「どうも」
「あ、ど、どうも……」
「よろしいかな?」
「え?」
「隣」
「あ、は、はい……」
彼は慌てて体をずらした。男は軽く頭を下げて、静かに腰を下ろした。
これで知り合いであることは確定した。だが、誰だ?
彼はそっと横目で男をうかがった。男は穏やかな表情で前を見つめている。が、視線に気づいたのか彼のほうへ顔を向け、また軽く会釈した。
彼がぎこちなく口を開く。
「い、いい天気ですね……」
「ああ、とても」
「……」
「……」
――気まずい。
沈黙が重くのしかかった。今始まったばかりだというのに、永遠のように感じられた。背中に汗がじっとりと滲み、さっきまで心地よかった陽気が急に鬱陶しく思えてきた。
なぜ黙ったままなんだ? こちらが話を切り出すのを待っているのか? ということは、おれよりも立場が上……?
そう思い、彼はまたちらりと横顔を見たが、やはり記憶の糸は掴めない。
「ど、どうですか、お調子のほうは?」
「ああ、まあまあだね」
沈黙に耐えきれず、そして新しい情報を引き出そうと意を決して話を振ったが、返ってきた答えは淡々としていて、空気がまた沈んだ。
「い、いやあ、本当にいい天気ですねえ……」
「ああ」
彼は無理に笑みを浮かべて空を仰ぎ、陽気を楽しむふりをした。その裏、頭の中では必死に記憶を掘り返していた。
社会人になってからの知り合いではない。やはりどこか懐かしい感じがする。じゃあ、大学の同級生? いや、この落ち着き方は年上っぽいな。大学の先輩か、高校の先輩……いや、もっと昔に会ったような気がする。中学校のときの先輩、小学校……。
彼は階段を降りていくように、記憶をたどっていった。やがて、幼い頃へと行き着いた。
そして、ようやくしっくりくるものを掴んだ。
「いやあ、お久しぶりですね!」
彼は勢いよく体を男のほうへ向けて言った。
短い沈黙ののち、男はふっと微笑んだ。その笑みに、彼の胸の奥がざらついた。
……違ったか? 妙な間があったぞ。そして、あの「否定するのも悪いから笑っておくか……」というような顔。久しぶりの再会ではないのか?
「調子はどうだい?」
「え、あ、ええ、まあいいですね。おかげさまで……」
男はうんうんと頷いた。
向こうから話しかけられたことで、彼はわずかに動揺しつつも胸を撫で下ろした。だが、その奥にある違和感は消えない。
結局、あの「お久しぶりですね」を肯定したのか? それとも、ただ適当に流しただけなのか。どちらにせよ、あの落ち着いた口調と振る舞いからして、やはりこちらよりも上の立場にあるのは間違いなさそうだ。
しかし、それならもう少し会話を広げてくれてもよさそうなものだ。『会社の調子はどうだい?』なんて一言でもあれば、相手が仕事関係の人間なのかどうか、すぐに見当がつくのに。
いや、待てよ……。もしかすると、向こうもこっちが誰かわかっていないんじゃないのか? だから、口数が少ないんだ。最初は目上だと思って来たものの、こちらがやけに丁寧な言葉遣いをするものだから、下だと判断したんだ。よし、それなら……。
そう考えると、少しだけ余裕が生まれ、彼はにやりと笑った。
「この間の――」「覚え――」
二人の声が重なった。一瞬の間を置き、互いに苦笑いをこぼした。
「あ、すみません」
「いや、こちらこそ。先にどうぞ」
「いや、あー……じゃあ、すみません。えっと、この間の件ですが、その後どうですか?」
彼はわざと曖昧に話を切り出した。もし相手も覚えていないなら、きっと反応に困るはず。
だが、男はただ小首を傾げただけだった。彼は慌てて笑顔を取り繕った。
「あー! すみません、こちらの記憶違いでした。ははは……」
「そうですか」
あっさりした返答。やはり、向こうはこちらのことを知っているのだろうか。いったい誰なんだ……大学、高校、中学――。
思考が堂々巡りを始めたそのとき、男が静かに口を開いた。
「私が誰だか、わかっているかい?」
「え!?」
唐突かつ直球な問いに、思わず声が裏返った。
「こちらは幼い頃から知っているんだけどね」
「え、ええ……はい。もちろん、わかってますよ」
「本当に?」
幼い頃から……。やはりそうか。この奇妙な懐かしさ、従兄にも似た親しみ……。
彼は安堵の笑みを浮かべて言った。
「えっと……“お兄ちゃん”ですよね?」
「お兄ちゃん?」
「はい。幼い頃よく一緒に遊んでくれた、近所のお兄さんですよね?」
名前までは出てこないが、きっとそうだ。口にした瞬間、確信がじわじわと増し、幼き日の情景まで浮かんできた。夕日に染まる空。心地よい疲労感。どこか遊び足りなさを感じながらも、近くの家々から漂う夕食の匂いと、まな板を叩く包丁の音に、母の手料理を想像し、体は自然と自宅のほうへ向かって――。
「はははははは!」
「はは、ははは! いやあ、懐かしいなあ」
「違うよ」
「え!?」
「そうか……まあ、そうだよな。わからないよな」
男は前を向き、目を細めた。どこか遠くを見るような視線。その横顔には、どこか淡い寂しさが滲んでいた。
「いや、あの……すみません。正直、覚えていなくて……どこでお会いしましたか?」
「どこで、か……。ちょくちょく会ってはいるんだよ」
「え? でも……」
「私はね、死神なんだ」
彼は「は……?」と言いかけて、ただ息を呑んだ。男が陽光にかざした手が、すうっと透けていったのだ。
「ほ、本当に、死神……?」
彼はまばたきを繰り返し、男の手と顔を交互に見つめた。男は静かに頷く。その瞬間、頬のあたりがふっと透けて、すぐに元に戻った。
「幼い頃からって……じゃあ、ずっと見てたってことですか?」
「そうだよ。我々は審査しているんだ。この人間を迎えるか、まだ先にするか……そろそろか……まだ先か……」
「迎えるって、あ、あの世に……?」
彼はガタガタと震え始めた。男は花占いのように、死かそうでないかを呟く。日差しの温もりが急速に遠のき、代わりに冷たいものが背筋を這い上がってきた。汗だけが、肌にじっとりと残った。
「遠くから見たり、すれ違うだけじゃなく、ときには話しかけたりもしていたんだよ。人違いを装ったり、道を尋ねたりね。そういうこと、たまにあっただろう?」
彼はうつむき、唇を震わせた。
「でも、気づかれない。誰にもね」
「あ、あの、み、見逃してください!」
「うん?」
「ま、まだ、生きたいです……お願いします……」
彼は震える声で懇願した。無駄だとわかっていても、そう言わずにはいられなかった。
しかし、男はふっと口元を緩めた。
「違うよ」
「え?」
「君を迎えに来たわけじゃない」
「え、え、じゃあ、どうして……」
「実は、最近仕事にやりがいを感じなくてね。ちょっとサボってたんだ」
「え……じゃ、じゃあ、おれと同じ……?」
男は小さく頷いた。
「……はは、ははは! なんだ、そうだったんですか! ははは!」
「ああ、見られたくなかったな」
「ははは、ええ、わかりますよ。はははっ」
「広められると困るんだ。君ならわかってくれるよね」
「ええ、もちろん!」
「ふふふ、じゃあ、少し歩こうか」
二人は同時にベンチから立ち上がった。互いに言葉もなく、空を仰ぐ。風が枝葉を揺らし、子供たちの声を連れていった。
やがて、陽光の中を並んでゆっくりと歩き出すと、その姿は白く滲む光の中へと溶けていった。
ベンチには、彼の体だけが取り残されていた。




