09.簡単に終わらせるな!
「貴様のせいだ!」
怨嗟と黒い感情が滲む声が、大きく響いた。リリーは痛みに倒れ、その勢いで剣が抜ける。蝶番が悲鳴を上げた扉が倒れる。転がった彼女を殺そうと、ニクラウスが剣を持ち直した。逆手に掴み、突き刺そうとする。その所作は『前回』父親の遺体を損壊したときと、よく似ていた。
「い、いやぁ」
「死ね!」
赤い血に濡れた手で、何かを掴もうとするリリー。後ろから止めを刺そうとするニクラウス。修羅場に飛び込んだのは、騎士団長のバーレ伯爵だった。状況を見て取り、ニクラウスの手にある剣を弾く。キンと甲高い音がして、刃が折れた。
折れた剣先が落ちて、うつ伏せで逃げようとするリリーの脹脛を叩いた。刃を潰していたため、切り裂くほどの鋭さはない。重さで骨折でもしたのか、肌は青黒く変色した。
「ぎゃぁ、あぅあ゛」
聞き苦しい叫びに、騎士達の顔が歪む。同情する色は誰にもなかった。ただ嫌悪感を得ただけだ。近衛騎士が、王太子ニクラウスを殴って引き倒す。その間に折れた剣は回収された。床に落ちた剣先も、他の騎士が蹴飛ばして遠ざける。
「なんだ、貴様ら! 離せっ!」
暴れるニクラウスを二人の騎士が拘束する。手足を縛って転がし、顔を三発蹴飛ばした。手を使うほど、人扱いする気はない。野良犬以下の扱いが妥当と判断した結果だった。触れるだけで、悍ましい何かが感染しそうな嫌悪を感じる。彼らの心情がそのまま出ていた。
今までも地位をひけらかし、近衛騎士に迷惑をかけてきた。仕事だからと我慢しても、悔しさや怒りは消えない。蓄積した悪感情を叩きつける近衛騎士達に、バーレ伯爵は淡々と告げた。
「殺すな、簡単に終わらせる気はない」
「承知いたしました」
一礼する騎士に「まあ、手や足が滑ることはあるさ」と口角を持ち上げる。作られた笑みは、多少の報復は許すと匂わせていた。叫ぶ声が煩いと猿轡をされたニクラウスは、じたばたとのたうち回る。その背を足蹴にし、足や腕を蹴飛ばす。
殺さなければいい。力加減は彼らの得意分野だった。騎士達の様子に、ニクラウスが恐怖心を覚える。ここでようやく、自分が強者の地位から転落したことを理解した。今後、何をされるか……恐怖で震える。その下肢がじわりと濡れた。高価な絹は肌に張り付き、濡れて色を変える。
「うわっ、汚いな」
「仕方ないだろ、獣以下のクズだ」
叩きつけられる悪意は、ニクラウスにとって初めての経験だった。陰で向けることはあっても、表立って王太子を非難する者はいない。だが、女神の啓示があった今……王太子の価値はゼロ以下だった。報復できる対象としか認識できないのだ。
「そっちも……生かしておけ。最低限でいい」
「……はい」
バーレ伯爵の指示に、嫌そうな顔をした副官が動く。部下にやらせようとするも、誰も触れたくないと首を横に振った。このまま放置すれば死ぬ。だが、まだ罪を償わせていなかった。贖う罪がある以上、失血死で終わらせる恩情はない。
最低限の止血……少し考え、部屋を見回した。豪華なドレスや宝飾品が散らばる衣装室から、使えそうな布を指定する。
「そのスカーフと、そちらの……ショールも。助かります」
受け取った副官は、リリーをブーツの先で蹴飛ばして転がす。ショールの上に移動させ、背中で縛った。両側を部下に持たせ、引っ張るよう指示する。彼自身のブーツは血に汚れていた。丁寧にブーツのつま先と底をさりげなくスカーフで拭いながら「せーの」と号令をかける。
「ぐぎゃ……ぁああ゛あ!」
淑女どころか、女性かどうか怪しい濁音交じりの叫び声を残し、リリーが意識を失った。
「止血しました」
報告する副官に、バーレ伯爵は苦笑する。だが口をついた言葉は「よくやった」の一言だった。




