86.お前の忠誠を疑うことはない
老シーゲル伯爵ヴェルナーは、シュテファンの動きを察知していた。ベニートは優秀な配下であり、情報は常に入って来る。止めなかったのは、彼に『前回』の記憶があるからだ。苦しみ、嘆き、それでも信仰に昇華した者を止める権利はない。
巻き込みたくない本音と同じ大きさで、彼がまだカロッサ家の誇りを持っていたことに感謝する。女神への祈りを口にしたヴェルナーは、残る獲物を思い浮かべた。
リリーと呼ばれた世界の異物は、その役目を終えた。憎しみと怒りを一身に受けた元聖女の、黒い瞳が開くことは二度とない。息絶えた体は森に運ばれ、そのまま放置したと聞いた。弔う気持ちを持つ者はなく、不用品を処理した感覚だろう。獣に荒らされ朽ち果てる、それが罰だ。
同情する気持ちはないが、元王太子ニクラウスが逃げたことに不満はあった。女を捨てて自分だけ生きようと足搔く姿は醜く、どこまでも汚い。真の敵ではないと言われても、あのニクラウスを放置する気になれなかった。
どのような理由があったにしろ、王家が腐っていたのは事実だ。あの日、シーゲル伯爵領は見捨てられた。蹂躙された大地と、殺された領民達の悲しみ、奪われた怒り……すべてがまだ胸の奥にある。コンツ王国はなぜ侵略したのか。その際に手を貸したのは誰か。
ベニートはまだ情報を集めていた。王宮、貴族、隣国……様々な情報を組み立てていくと、不自然な空洞が残る。神殿だった。情報が得にくく、そして闇に包まれて見えない。枢機卿になったシュテファンの話で、異教徒の存在が明らかになった。
大司教セブリアンが王都へ戻る道中で消えた。そんな噂が届いたのは、季節が変わる前だった。シュテファンと再会してから、すでに二か月が過ぎている。
「どうやら横から食われたようじゃ」
「あの方は優秀でしたので」
苦笑いする主君に、執事の顔でベニートが言葉を挟む。とっくに情報は得ていた。セブリアンが異教徒である証拠が出回り、審問のために呼ばれる。その噂を、故意にヴェルナーに伝えなかった。執事としては失格だが、これでよかったと思っている。
あの復讐は『前回』の後悔を深く胸に刻んだシュテファンに譲るべきだ。主君には別の敵を追ってもらえばいい。ニクラウスなどという小物ではなく、あの日のコンツ王国の後ろで糸を引いていた男。
「そうか。ベニート……わしがお前の忠誠を疑うことはない」
知っているぞ、咎めぬだけだ。ヴェルナーの言葉に、ベニートは膝から崩れるように手をついた。詫びの言葉が喉に痞えて出てこない。
「よい。お前の決断ならば、わしは譲ろう……あやつにも赦しが必要じゃ」
シュテファンに譲り、罪を贖う機会を残した。おそらく『聖女』の件だけでなく、過去の因縁に絡むのだろう。そう匂わせた主君に、ベニートは深く首を垂れる。そのうえですべてを話した。
「なるほど、コンツ王国の後ろに……ウテシュの王弟がおったか」
老シーゲル伯爵の表情が、劇的に変わる。一族が滅亡したあの日の真実が詳らかになろうとしていた。




