08.動き出した歯車は赤く軋む
騎士団長バーレ伯爵は、鍛錬中だった。昼の鐘が鳴ると同時に、頭痛に見舞われる。刃を潰した訓練用の剣を杖代わりに、ずるずると体勢を崩した。だが膝をつく直前で持ち堪える。
「……なんだ? この記憶は……」
広場で兄が殺された。義姉や甥、最後に姪も。全員の首が、見たこともない器具で落とされた。地位を追われ、兄への進言も届かない。身に覚えのない横領の罪を着せられ、次は俺の番だったはず。
叫ぼうとした喉は潰され、ひゅーひゅーと掠れた音を絞り出すのがやっとだ。両肩は骨が砕かれ、脹脛を切られた。満身創痍の身に、落雷の光が届く。眩しく輝かしい……そこで記憶は途絶えた。いや、誰かの声を聞いた気がする。
奇跡は一度だけ、と。
白黒だったバーレ伯爵の記憶が、徐々に色を取り戻した。鮮血の赤、嘲笑う王太子の緑の瞳、不吉な聖女の黒い微笑み……。思い出した記憶が鮮明になるにつれ、怒りで視界が赤く染まっていく。
ぐっと膝に力を入れれば、足は応える。立ち上がって、手足を確認した。肩は無事で、騎士団が鍛錬をする広場に立っている。己の状態を確認するため、バーレ伯爵は短く声を発した。
「あ、ああ」
喉も無事だ。
「っ、騎士団長!」
涙ぐんだ副官の焦げ茶の髪に、ぽんと手を置いた。あれらは夢ではない。だが、ここも現実だ。混乱したバーレ伯爵に、部下の騎士達が駆け寄った。口々に無事を喜び、女神のやり直しの話をする。拾った情報で、バーレ伯爵は事情を理解した。
女神アルティナ様の恩寵か。膝をついて祈りを捧げるバーレ伯爵の姿に、騎士達は剣を置いて同様に祈りの手を組んだ。やり直せることへの感謝、止められなかった不甲斐なさを詫び、二度と同じ失態をしないと誓う。
「王太子ニクラウスを捕まえろ。『前回』であろうと罪は罪だ!」
「「女神様のご加護を」」
主君に勝利を、と叫ぶ声が違う言葉を叫ぶ。不敬ではない。王太子より女神を選んだのだ。走る騎士の先頭で、バーレ伯爵は王城内へ踏み込んだ。許可を取る必要はない、誰かに詫びる理由がない。女神への反逆者を捕らえることは、女神への信仰の証でもあった。
侍従や侍女は道を空け、誰もが涙ぐんだ目元を隠そうとしない。無言で指さす先が、王太子のいる場所だろう。疑うことなく、騎士団は王城を走った。居住区域は奥にある、その一角を目指して進むのみ。途中で合流した近衛騎士が、襟章を引き千切った。
投げ捨てられた勲章や襟章の転がる廊下の先、ニクラウスは重い剣を引きずって進む。その頃……聖女リリーも動いていた。
「なんてこと! 私が主人公なのに!! こんなの、あり得ないわ。とにかく持てるだけ持って逃げないと……」
記憶が戻った途端、滞在する部屋から侍女を締め出した。王太子から贈られた宝飾品をかき集める。衣裳部屋の扉を開け、小物を袋に放り込んだ。種類も材質も関係なく、とにかく詰める。ドレスはさすがに持っていけない。縫い付けられた宝石だけでも……。
よく似合うとニクラウスが褒めたドレスの胸元に、ブローチのような宝石が輝いていた。鮮やかな赤い石は、ルビーだろう。あれだけの大きさなら、逃げた先で贅沢ができる。引っ張るが取れなかった。服を破れば、取れるかもしれない。見回すも、衣装室にハサミや刃物があるはずもなく。
迷って一旦部屋に戻った。扉が壊れそうな音で開く。施錠した扉を蹴り破ったニクラウスが、血走った目でにたりと笑った。その腕が引きずる剣に気づき、リリーは青ざめる。あのルビーを諦めればよかった。さっさと逃げるべきだったのよ。じりじりと後ろへ下がるリリーは、衣装室の扉を閉める。
直後、激痛に泣き叫んだ。
「いやぁああああ。いたっ、なんでっ! 痛いぃ」
鍵のない扉を突き破るのは、刃を潰した剣だ。鋭さの欠片がなくとも、人体を貫く程度には硬かった。腹に剣先を埋めたリリーは、泣きながら床に崩れ落ちる。その惨劇は、まだ序盤だった。




