72.領主ならば民を守らねばならん
シュテファンは、ヴェルナーが死んだと思っていた。そうでなければ、とうに動いている。復讐しても喜んでくれる人はいない。主のシーゲル伯爵家はもちろん、実家のカロッサ子爵家も滅びた。知らされた連絡を信じ、彼らの魂が安らぐようにと祈りを捧げて過ごす。
知ったのは偶然だった。他の神の名を口にする者がおり、女神像の裏でこっそりと信仰を捧げる。大司教という地位にありながら、若い司祭らを惑わせた。放置することは出来ず、枢機卿達は彼を処罰した。だが面倒なことに、アードラー王国の侯爵家出身だった大司教は実家を頼る。
教会から追放したかった枢機卿達の希望は、横やりで潰された。仕方なく暗躍できないよう地方へ飛ばす。ついでに噂を流した。彼は罪を犯して、女神アルティナ様から罰せられたと。その噂は途中で捻じ曲げられ、いつの間にか別の噂にすり替わる。
悪意の大きさに驚いたシュテファンは、いざとなれば己の命を捨てて大司教を止めるつもりでいた。そこに現れたのが、かつて主君と定めた人だ。シーゲル伯爵家最後の一人、ヴェルナーは復讐を諦めていない。語る彼の言葉に、途中で異議を挟みたかった。
相手が違う。王族ではなく、ロイスナー公爵家も関係ない。あなたの敵は……異教徒なのだ! その言葉を呑み込んで最後まで話を聞けたのは、宗教家としての意地だろうか。懺悔を遮ることは、女神への信頼を裏切ること。信者の気持ちを踏み躙ってはならない。
信念に従い、シュテファンはヴェルナーの言葉を聞いた。相手が違っていると教え、協力を申し出る。枢機卿の立場も、命もすべて差し出すつもりだった。訃報を受け取ったあの日、どれほど嘆いたか。一緒に滅びたかったと、どれほど泣いたことだろう。
時が戻るはずはない。なのに、戻ったのだ。女神アルティナ様のお慈悲を奇跡の形で目にした以上、シュテファンに迷いはなかった。
「のぉ、ベニート。シュテファンは巻き込めぬ」
「わかっております、大旦那様」
自分達でケリをつけよう。生き残った者が一人であっても、領主ならば民を守らねばならん。矜持を取り戻した老シーゲル伯の言葉に、執事は即座に相槌を打った。最後まで供をできる喜び、優しく聡明な主君が戻ったこと、何より……これで復讐という本懐を遂げられること。
何もかもが嬉しく、ベニートは緩みそうな口元を引き締めた。まだこれから忙しくなる。必ずや主の願いを叶え、死後もお供をさせていただこう。
かつて、故郷を滅ぼした敵を恨んだ。しかしコンツ王国は滅亡し、行き場を失った感情がアードラー王国へ向いた。騎士団を持つロイスナー公爵家は、なぜ動かなかった? 王家はどうして辺境伯領を見捨てたのか。すべての答えは、女神の手にある。
一時は存在を疑い、女神の存在や慈悲を諦めた。だが……まだ見捨てられていない。女神の目は惨劇を映し、その手はすくい上げようとしていた。カツンと響く硬い耳慣れた音を追うベニートは、女神に感謝を捧げた。




