65.ぬかるんだ地面に沈む車輪
豪勢な馬車が、ぬかるみに嵌まっていた。何日か前に降った雨だろうか。小さな水たまりが出来て、その周囲が柔らかくなる。通った馬車の重みで沈んだら、簡単に抜け出せない。
公国となったばかりのロイスナー領との国境付近、いや……ぎりぎり向こう側か? 気のいい領民達が境を越えて助けの手を差し伸べていた。
「えいやっ」
「おら。もっと押せ」
猟師や放牧の仕事に就く者らが、口は悪いが力を合わせている。どちらの領民だろうが、どこの領地だろうが関係ない。ここは手伝うべきだ! 声を上げた元団長アウグストに部下達は「おう」と返した。
「手伝うぞ」
「あ、わりぃな……ってか、騎士?」
「気にするな」
服が汚れると口にした民に、からりと笑って腕を捲る。今までの制服を着ているが、領地へ戻ったら新しい制服を仕立てるつもりだった。これに袖を通す時間はもう長くない。ならば制服への最後の餞に、活躍の場を与えるべきだろう。
アウグストの意味不明の主張に、部下は大喜びで拍手喝采。すぐに腕まくりをして交じった。呆れ顔のヴィリも、最終的には加わる。
しっかり嵌まったようで、押して戻ってを繰り返す。何度も勢いよく押し出し、外へ出した。そこで気づいたが、中に人が乗っていたようだ。屋根の上や後ろにも荷物が積んだままだった。それを全部外へ出したら、領民だけでも外へ出せたのでは?
一言文句を言ってやろうとヴィリが回り込み、降りてきた人物に驚いて目を丸くする。
「団長……」
「俺はもう団長じゃないぞ」
アウグストは汚れた頬の泥を、乱暴に手の甲で拭う。さらに周囲が汚れたが、本人は満足そうだった。手招きするヴィリの隣に立ち、馬車にいた人物と目を合わせて固まる。
「……カタリーナ、王女殿下?」
「あら、アウグストではなくて? お久しぶりね。馬車が動かなくて困っていたの。助かったわ」
微笑むのは、ドレス姿の美女だ。ゼークト王国の王女であり、義姉ミヒャエラにとって従妹に当たる女性だった。クラーラは元王女であり、公爵家に臣籍降下した経緯がある。
「伯父様と伯母様が飛び出したと聞いて、追ってきたのよ」
面白そうなんですもの。ほほほと笑う彼女に、事情が掴めた。中にいたのが王族だったため、ぬかるんだ地面を踏んで外へ出てくれと言えなかったのだろう。従者達がその状態なら、平民である領民が何か意見できるはずがない。納得するアウグストへ、カタリーナは笑顔で要求した。
「ミヒャエラの子供達にも会いたいし、案内して頂戴」
断られるとは思っていない王族らしい命令に、アウグストは苦笑いした。




