50.早すぎた出発は吉兆となった
アードラー王国へ嫁いだ娘を、常に気遣ってきた。出来れば国内貴族に嫁いでほしかったと思うが、夫になったロイスナー公爵に不満はない。距離が遠くてなかなか会えないことだけが、悩みの種だった。跡取りも順調に育ち、すぐにでも譲位して娘に寄り添いたいくらいだ。
そんなシェンデル公爵エッカルトの耳に、恐ろしい噂が入った。隣国で女神アルティナの怒りを買った者がおり、やり直しを命じられたとか。やり直しの意味は不明だが、アードラー王国では『前回』と呼ばれる現象が語られていた。
今より四年後の未来から、時間が戻された。にわかに信じがたい。いくら女神といえど、そのような現象を起こせるのだろうか。何らかの集団幻覚と説明されたほうが納得できる。エッカルトは好機と判断し、息子に言い放った。
「アードラー王国の様子を見てくる! 公爵領の全権はお前に任せた。あとは頼む」
反論を待たず、馬車を準備させて出発する。飛ばすよう命じ、舌を噛みそうな揺れを我慢した。これでも高額な馬車なので、それなりに揺れは抑えられている。快適さを犠牲にする走り方を命じたため、ぐっと堪えて妻クラーラを抱き寄せた。
「あなた、すこ……っ!」
喋るな、という意味を込めて首を横に振る。正直遅かったが、仕方ない。クラーラは無言になり、それきり宿でも口を利いてくれなかった。ただ舌が痛いだけならいいが……そわそわしながら妻の機嫌を取る。国境を越え、整えられた街道で速度を緩めた。
もうすぐロイスナー公爵邸が見える。以前訪れた時と同じ、長閑な酪農風景が目に映った。牛がのんびりと歩き、羊やヤギが元気に跳ね回る。働く領民にも大きな変化は見られなかった。ほっとしながら、エッカルトがクラーラに話しかける。
「もうすぐミヒャエラや孫達に会える。機嫌を直しておくれ」
「……はぁ、いつもあなたはそう。勝手に決めて勝手に動いて……もう諦めております」
言葉は厳しいが、表情は苦笑い。クラーラの怒りが解けたと判断し、エッカルトは安堵した。まだ肌寒い程度の風だが、この地域は標高が高い。すぐに冷たい風に変わるだろう。うまくすれば、帰りを遅らせて雪を理由にした滞在も可能か。
悪いことを企んでいる顔ね。クラーラは肩の力を抜き、窓の外へ視線を向けた。屋敷が見えるまであと少し、この段階でようやく独立の話が耳に届く。ゼークト王国へ向かう伝令が、御者に残した言葉をエッカルトが繰り返した。
「ロイスナー公爵領が独立、公国が建国された?」
「まあ大変、お祝いの品を持ってこなかったわ」
驚きで固まる夫をよそに、妻はのんびりと呟いた。




