35.昔の名で呼んだらはっ倒す!
街を出ていく馬車を見送り、オネエさんはこれ見よがしに大きな溜め息を吐いた。隣には満面の笑みを浮かべる伯父ジーモンがいる。それも手首をしっかり掴まれた状態で。
「汚い手を使って! あたしを誰だと思ってんだい」
「裏の顔役バルバラ様だろ? そう怒るなよ。手伝ってくれるだけでいいから、な? アルミン」
「……もう一度でも昔の名を口にしたら、はっ倒すわよ」
「すまん」
低い地声で凄むオネエさんことバルバラ様に、ジーモンは肩を落とす。幼い頃は可愛い甥だったのに、いつの間にか自称姪になっていた。家の没落が大きく響いているのだろうが、それでも有能さは変わらない。彼……彼女の文官としての能力は素晴らしかった。
「手伝ったら、本当にロイスナー公爵領の裏を仕切らせてくれるんでしょうね」
「間違いない、バーレ伯爵のお墨付きだ」
アウグストは深く考えずに許可を出したので、実際のところは危うい。だが何にしろ、街が大きくなれば裏社会が形成される。今までもそれに近い組織はいくつかあったが、小さく弱かった。まとめ上げる人物がいなかったのだ。そこに王都で仕切ってきたバルバラが入れば、あっという間に編成されてしまう。
放置すれば闇は深くなり、手が付けられなくなる。有能な領主は危険を理解し、危うい刃であっても使いこなす覚悟が求められた。兄ならその器に足りるとアウグストは考えたのだ。纏めるなら、後のことを兄に丸投げしたとも言える。
バルバラのカリスマ性と面倒見の良さ、文官時代の有能な頭脳を生かす。その場として、ジーモンが用意したのは横領犯の捜索だった。探し物はバルバラの得意分野だ。
「……ふん、そのくらいなら何とかなりそう。というか、今まで放置しすぎよ。お陰で簡単に尻尾がつかめるわ。ただ、手足が足りない」
放置した期間が長いほど、横領の手口は杜撰になる。最初はバレないよう慎重に行われ、証拠も隠滅したり誰かに罪を擦り付ける準備をしたり、手が込んだ方法が主流だ。ところが一年、二年と経つうちに「バレない」と確信を持つのが人間だった。
安心すれば、今までの手順で無駄と考える部分を省き始める。証拠隠滅が杜撰になったり、身代わりを用意していなかったり。気づけば手垢だらけの証拠が残される状態になる。だがバルバラの手足となる娼婦が消え、彼女らが操る男達も利用できなかった。
王都は人口が半減している。外に身寄りや親戚があれば、人はすぐに頼った。ツテがない者ばかり残され、天を仰いで嘆くばかり。この状況で、まだ犯人は残っているのか。
「横領した連中は逃げただろうが、尻尾から手繰り寄せるのは俺がやる。掴める状態まで引っ張るのが、バルバラの仕事だ」
「ふーん。まあいいわ。何とかしてあげる」
両親も亡くなったバルバラにとって、行方がつかめる唯一の親族がジーモンだった。だから報酬なしでも一度くらいは協力してもいい。その程度の思いで足を踏み込み、数か月でバルバラは盛大に後悔した。一度掴んだ獲物を、ジーモンが解放するはずがない。伯父の性格を読み誤ったことに。




