116.歪めた不文律の代償
優しそうに見える人が、本当に優しいかはわからない。親切に手を差し伸べた人に、思惑があるかどうかは別の話だ。人は表と裏を上手に使い分ける生き物であり、笑顔で裏切ることもある。にもかかわらず、人の善良さを信じる者がいた。
神職者だから安心と考えるのは、ウテシュ王国側の都合だった。加害者であるウテシュ王族に対し、被害者が気を遣うことはない。国や人には、踏み越えられない不文律が存在する。国を操り踊らせた者への慈悲はなかった。
ローマンの懺悔を行う約束を取り付け、シュテファンはまず自分一人で会いに行った。謝罪や反省の言葉を聞くことはなく、ただ愚痴に近い文句が並ぶ。穏やかな笑みを浮かべて、淡々と聞いたシュテファンは二度目のチャンスを得た。
「承知いたしました。では三日後にお伺いします」
枢機卿の立場と浮かべた微笑み、ゆったりした動作や静かな口調。すべては作られた姿に過ぎない。彼の本心が別にあり、目的に向けて着々と足場を作っているなど……誰が想像するだろうか。
教会に戻ったシュテファンは、客人としてシーゲル伯爵ヴェルナーと執事ベニートを呼んだ。一時的な出家を促すためである。貴族の子女に対し、何らかの反省や謹慎を行う際に教会預けという制度があった。教会の慎ましい生活に身を置き、奉仕活動を行う。
女神アルティナ様の足元で、身の穢れを落とす。そんな意味合いで受け取られてきた。事実、そういった面もある。噂が立った令嬢が落ち着くまで避難したり、他の貴族とトラブルを起こした当主が一時的に逃げ込む。そういった意味合いが強かった。
どれほどの権力があろうと、教会は女神の領域だ。基本的には誰も踏み入れない。その不文律を押し切り、無理やり歪めた『聖女』をねじ込まれたのは『前回』だった。その教訓を、教会の上層部は忘れない。王族の願いや頼みであっても、跳ねのける覚悟が出来ていた。
シーゲル伯爵ではなく、一人のヴェルナーという老人として。執事ではなく、足の悪いヴェルナーの補助として。二人は教会に身を置いた。理由を秘したため、事情を知る者はいない。そういった事例も多々あるため、貴族階級なのだろうと憶測するだけで司祭や司教は深く追求しなかった。
他者に寛容であり、迷える人々を導くのが教会だ。その認識は正しく作用した。
「次の面会で接触し、その次で楔を打ち込みます。途中で邪魔が入ったとしても、一度飲ませれば効果は出ます」
取り出した薬瓶を、ヴェルナーが見つめる。青い薬瓶は、日光に弱い薬が入っているのだろう。ベニートは薬瓶ではなく、主人の顔から目を離さない。もうすぐすべてが終わる。復讐も、贖罪も……この苦い感情も。
「感謝する、シュテファン」
申し訳ないと謝りたい気持ちを呑み込み、ヴェルナーは礼だけを伝えた。




