109.故郷の懐かしい味
用意された蒸かし芋に懐かしさがこみ上げた。辺境領は小麦の栽培に向かない気候だった。雨が少なく、芋を中心に育ててきた。蒸かすと甘くなり、色も濃くなる。同じ種の芋が出されたのは、偶然だろうか。
ヴェルナーの前に置かれた芋に、たっぷりとバターがのせられて……溶けながら染み渡っていく。王都の貴族なら粗末と言われる芋だが、故郷の味だった。ヴェルナーの目から零れる涙が、ぽろりとバターの上を滑る。
幼い頃はこんなにバターをのせることはなかった。バターは遠いロイスナー領の特産で、高額な贅沢品なのだ。さほど裕福ではなかったから、息子には自分の分を足して食べさせた。孫が生まれる頃、ようやく領地は豊かさを享受し始めたのだ。
たっぷりとのせたバターが溶けて、柔らかく黄金色に光る。嬉しそうに頬張る孫の頬にべったり残るバターを指で拭った。この記憶は優しく、温かく、心の底にしまった一番柔らかな部分だ。復讐のために蓋をした。
汚い手で触れてはいけないと、記憶をしまい込んで。その蓋が開いてしまった。ヴェルナーの口に入った芋は、あの頃と同じ味がする。孫の声が聞こえた気がして、老伯爵の手が止まった。アブリルが二階で叫ぶ声がする。
「老紳士なら預かってるよ。そこの扉から入っとくれ」
執事ベニートの到着を知り、胸ポケットのハンカチで涙を拭き取る。もう形も残らないほど溶けたバターが、芋に艶を与えていた。もう一口、とヴェルナーが口に入れた芋はほろりと崩れる。
「旦那様、お待たせいたしました」
穏やかな声で挨拶するベニートを見つめ、こやつはこんな声だったか? とヴェルナーは目を瞬いた。復讐に巻き込まれたというのに、どこまでも透き通っている。濁ったのは己だけか。
「よかったよ、あんたもお茶を飲んでいきな。まだ芋も残ってるし、さ」
にっこり笑ったアブリルが、柄の違うカップを置いた。遠慮するベニートの前でお茶を注ぎ、淹れたのだから飲んで行けと笑う。頷く主君に後押しされ、ベニートも席についた。
ヴェルナーの赤くなった目元や鼻を、誰も話題にしない。アブリルは自分のお茶も用意すると、当然のように同席した。なんてことはない世間話をする。騎士団の隊長をする夫の話、彼から聞いた異教徒のこと……。アブリルには、深い意味のない会話だった。
「ご馳走になった。これはお礼に」
「あら嫌だよ、芋でそんなにもらえるもんかい。教会に寄付しといておくれ」
差し出された硬貨を受け取らず、二人を外へ送り出す。無理に押し付けるのも失礼に当たると、ヴェルナーは引き下がった。歩き出せば、石畳でかつんと硬い音が響く。義足と杖が鳴らす音がふっと止まる。
「わしは、間違っていたのだな。あの子らの記憶まで血に染めるところであった」
ぽつりと呟いた言葉は、力強く続けられた決意に繋がる。
「シュテファンと手を組むぞ」
「……はっ、はい」
再び、かつん……と硬い音が鳴る。信頼できるベニートを従えたヴェルナーの心は、孫の笑顔と声に埋め尽くされていた。あの子達に恥じない生き方をして、誇れる死に方をしよう。そう思えたことに感謝する。
老シーゲル伯爵の深い記憶が蘇った奇跡は、アブリルを通じた女神の采配だったのかもしれない。救えなかった悲しみを和らげる、小さな光の欠片を。




